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2016年7月10日 (日)

36. 「明帝の景初三年」はなかった 魏朝景初暦考

                                                            2016/07/10
 最近、古田武彦氏の日本書紀神功記の三國志引用記事が「明帝の景初三年」としているのに対する批判について一方的に酷評する記事を見かけて、いったんは、軽く回答したのだが、ひょっとして、この論者は、中国の太陰太陽暦に沿った暦制が理解できていないのでないかと思い至って、以下、失礼を顧みず、初級者向け姿勢に立って、長文を顧みず、書き起こしたのである。

 1.太陽暦と太陰太陽暦
 古代ローマの時代に、ユリウス暦が施行されて以来、途中、閏年の回数について改善されたグレゴリオ暦に切り替わったものの、太陽暦の基本構造は、一年365日、ただし、閏年あり、と言うルールであり、計算しやすいので、現代は広く行われている。
 これに対して、太陰太陽暦は、月の満ち欠け(朔望)を1カ月としているので、概して言えば、19年に7回、13カ月ある年を造って、1年365日に近い運用で、季節のずれを軽減している。
 従って、例えば、魏の景初二年が西暦何年に相当するというのは、極めて大雑把な言い方であって、いわば景初二年のかなりの部分が、ほぼ確実に西暦何年の365日からはみ出しているのである。いや、年によっては、西暦の365日が太陰太陽暦の一年を呑み込んでいるときもあることだろう。要は、一致していないと言うことである。
 一々暦を計算して書き出すのも面倒だと言うことなのだろうが、こうした食い違いは計算誤差などと言うものでなく、単に古代史論者の怠慢なのである。

 2.太陰太陽暦の運用
 太陰太陽暦を実施するに際しては、19年に7回の閏月をどの年のどの月に置するか、それでなくても、毎月の大の月と小の月をどう組み合わせるかで、月々の日々と24節気で表される季節推移のずれを緩和するなどの効果が異なるので、毎年毎年取り扱いが変わるものであり、暦の専門家以外には、翌年の暦を確定できないものとなっていた。
 つまり、暦をどのように決めて、それを広く公布すると言うことは、国家権力の現れになっていた。

 3.景初暦の始まり
 さて、問題の景初三年であるが、景初年間は、独特な暦制が施行された年間であり、これは、魏書明帝紀に明記されているように、関係資料を読み進めれば、当然理解を迫られる事項なので、いわば衆知の事項と思うのだが、素人の特権で、一席ぶたしていただくことにする。
 明帝紀景初元年記事として、青龍五年になるはずだったこの年の三月(いや、青龍五年二月か)、魏帝曹叡は、青龍を景初に改元すると共に、新たに、この月を新元号景初の四月とする景初暦と呼ばれる暦制を公布した。「其改青龍五年三月為景初元年四月。

 4.移行期の混乱
 ここで戸惑うのは、この項が、景初元年春正月と書き始められていることであるが、景初暦を遡及させて適用すれば、これは、旧制で、青龍四年12月であったはずであり、案ずるに、青龍四年は11月で終わり、続いて景初元年正月となることが、魏朝内部では公式か非公式かに行われていたものではないかと思われる。
 いや、これだけでも、現代人は頭がこんがらかってくるのである。

 5.「烈祖明帝」願望
 因みに、魏朝皇帝曹叡の改元の抱負は、曹操を太祖武帝、曹丕を高祖文帝とし、創業の徳を受け継いだ曹魏第三代皇帝たる曹叡は、裂祖*帝(諡は未定だが、明帝を希望していたかも知れない)となって、創業三代それぞれが霊廟を持ち、曹魏が続く限り永代尊敬されることを望んでいて、それにふさわしい偉業として、後漢の後継王朝でなく画期的な創業王朝として、相応しい暦制の施行を図ったもののようである。
 曹叡は、現代風の満年齢で言うと30歳を前にした血気盛んな若者であり、それこそ、二,三十年は頑張って、天下を統一拡大する前提であり、数年後の夭逝は、当然ながら想定していなかったのである。

 6.景初暦の終わり
 さて、景初暦の終わりは思いがけなく早かった。
 景初二年12月、と言っても、この年は、11月に閏月があったようだから、実際は「13月」なのだが、その月の初旬に魏帝曹叡は発病し、病臥のままで翌年正月の一日になくなったのである。
 当時の数え年齢では、一月に亡くなるか、12月の内に亡くなるかで、一歳の違いがある。
 裴松之注によると、魏朝の建前では、明帝となった曹叡は、景初二年12月(後12月)に亡くなったのであるから、34歳で亡くなったはずである。
 しかし、亡くなった時点では景初暦はまだ続いているから景初三年正月に亡くなったのであり、そうしてみると35歳で亡くなったとも言える、と言うことであるが、それでも、明帝の生年を考証して追いかけた年齢と一年の差異があると、裴松之が首を傾げているのである。

 魏朝の建前で改暦と景初三年正月のずらしを言い立てていながら、続く齊王紀では、「景初三年正月丁亥朔」「即皇帝位」と書かれていて、ここでも、頭が混乱しそうである。

 7.旧暦復活
 さて、齊王政権の初期の決定事項として、景初暦を廃して青龍年間まで行われていた暦制に戻し、従って、景初三年二月を太始元年正月とし、景初三年正月を景初二年12月(後12月)とする改暦を行ったとされる。
  これにより、先代皇帝の「命日」(現代日本語)は12月1日となり、目出たかるべき正月元旦に先帝を供養する不都合が避けられたというのである。ただし、 すかさず、先帝の意志に反する改暦が公布されたと言うことは、元々、明帝による暦制変更には、史官を含め、政府高官に反対が大変多かったことの表れのよう に見える。

 8.「明帝の景初三年」はなかった
 と言うことで、正史の記事を信頼する限り、景初年間は、景初二年の後の12月で終了していて、景初三年は、存在しないことになる。
 ただし、そんなに簡単に、一旦開始した年をなかったことにできたかどうかは不明であり、一部には、そのような取り扱いは魏朝内部のことであり、民間では、後々まで景初暦が通用し続けていたとも言われる。

 9.日本書紀編者の軽率
 以上のように、古田氏の主張を丁寧に追いかけると、一見、正史に書かれている景初三年は存在したかのように見えるが、元来僅か一か月だけであり、それすら、新帝即位と共に改元と暦制変更が施行されて景初二年に押し戻されたので、「明帝の景初三年はなかった」と見るべきである、と言う主張である。
 つまり、日本書紀の(別の?)編纂者は、三國志明帝紀の字面から適当に引用しているものの、編纂者全体として、こうした暦制の変化については、全く理解できていなかったという批評であり、斯界の最高権威たるべき正史編纂者に相応しくない、不用意な態度とする非難は、当を得ているとみるのである。

10.お断り 
 さて、言うまでもないが、以上は、当ブログ筆者が、三國志の明帝紀と斎王紀の記事を読んで、極力先賢の高説を頼りにせず、自力で解釈した意見なので、自分なりに最善を尽くしたとは言え、これが絶対正確というものではない事はお断りしておく。
 また、話の運び上、当分野の諸兄には自明のことまで、得々と説き立てていることは、ご容赦いただきたい。何しろ、どこまで自明、衆知なのか、よくわかっていないものの意見なのである。

 いや、高名博識な裴松之ですら、豊富な資料を漁り尽くしても、景初暦についてはよくわからないと首を振っているのだから、遙か後世の素人には、こうではないかと、あて推量することしかできないのである。
 史料解釈が揺れ動いている状況で、簡単に他人の主張を排斥するものではないと言うことだけでも理解いただければ幸いである。

以上

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コメント

 余談の部分でお手数を取らせているようですが、貴兄の提唱する理論に同意することはできません。
 それ以前に、「この法則によれば、神功39年は西暦239年に相当することになります。」というのは、あくまで、個人的な作業仮説であり、しかも、その仮説は、提唱されている各ポイントで整合するように丹念に補正されているものと思いますで、誰か、骨折りを惜しまない人の追試・検証が公開されるのに期待します。
 貴兄は依然として、当方の貴サイト記事批判の趣旨を誤解されているようですが、当方の本来の論点は、「明帝の景初3年」は存在しないという物です。魏志に明記されているように、景初三年の改暦、改元によって、明帝は、景初二年に逝去したことになったので、景初三年には、明帝はいないのです。(魏朝の公式発表としてそうなった)
 周知のごとく、改元の定則は、先帝の逝去の翌年元旦改元です。魏志には先帝の命日をずらすことと改暦、改元だけ書いて、その後始末がきっちり書かれていないので、それでは景初三年は丸ごとなかったことになるべきではないかと、かれこれ一千八百年近い後世の東夷が冷やかしただけです。
 改暦に関連する魏志の記事がおかしいと思う原因として、「景初暦は、はるか後の劉宋時代まで採用されていた」という中国暦研究者の証言があると言うことです。
 してみると、魏志の記事にかかわらず、単に、先帝の命日をずらし、改元しただけだったのかなと言うことです。それにしては、陳寿、裴松之と揃って硬骨の史官がどうして筋の通った説明を残していないのかな。これこそ、深遠な「春秋」の筆法なのかなと思うのです。まして、魏朝の史官であった魚豢は、よく平然としていたな、とも思うのです。
 まだ、そもそも文帝の後漢暦制維持が、なぜ「我が子」に無視されて経書の改暦、改元で覆ったかと言うことを含めて、意味が飲み込めていないので、続編が書けていないのです。
 話の原点に返ると、当方の考えは、本件は、単に、書記編者が不注意だった、万事不自由な環境で、身の余る任務を背負わされたら、誰でもミスするだけのことという意見です。
 これは、書記記事は、現に目の前にある倭人伝記事を覆して遣使が景初三年だった断定する論拠にはならないよと言うだけで、「断じて景初二年だった」とばかり、当方の個人的な意見を押しつける物ではなく、古田氏は、嘘つきでもなければ、詐欺師でもなかったと、故人に代わっての弁明を押しつけている物でもありません。どう受け止めるかは、そちらの問題です。
 そういうわけなので、本筋から遠い論点で、貴兄が書記編者の脳内を察したり、現代のIT技術を駆使して(当時日本に存在するはずのない「西暦」を根拠にした)独創的な仮説を展開しても、大変ですねと社交辞令を返す程度で、検討するつもりはありません。
 以上、お後がよろしいようで。
 出口はわかってますか。
以上

ToYourDay 様

前回は、「正史の記事を信頼する限り、景初年間は、景初二年の後の12月で終了していて、景初三年は、存在しないことになる。」とあったので、〔斉王紀〕の景初3年の記事を拾い出してみたわけです。

日本書紀の年代には色々仕掛けがしてあります。例えば、紀元前n年を- n、延長によって紀元前となった日本書紀の年代をY、実年代をXと置けば、年代延長式 
Y=3X-831が成立すると仮定してみます。

すると、倭奴国王が後漢に朝貢し印綬を授かった建武中元2年X=57は、
Y=3x57-831=-660 すなわち、神武天皇が即位した紀元前660年になります。

次に、倭国王帥升らが、後漢の安帝に生口160人を献じた永初元年X=107は、
Y=3x107-831=-510 すなわち、第4代懿徳天皇即位の年、紀元前510年になります。

今度は、年代延長式をXについて解いた、X=(Y+831)/3 を年代復元式としてみます。

すると、箸墓伝説が載る崇神10年Y=-88は、X=(-88+831)/3=247.7より
西暦247年、すなわち、卑弥呼が死んで径100余歩の塚をつくった正始8年になります。

また、 第10代崇神天皇をほめてハツクニシラス天皇と称するとある崇神12年
Y=-86を代入すると、X=(-86+831)/3=248.3 より西暦248年、
すなわち、卑弥呼の宗女台与13歳が、倭の女王に立てられた正始9年になります。

ところで、景初3年が西暦239年に相当することを導き出すためにはどうすればよいかをお考えになったことはおありでしょうか。

もしそのことをお考えになったことがおありならば、神功39年を景初3年(西暦239年に相当)と捉えている書紀の編者が、景初3年正月1日に明帝が逝去したことを知らなかったなどとお考えになることありえないはずです。

投稿: 村上通典 | 2016年7月18日 (月) 22時39分

村上通典様

 まず、当方のブログ記事が、論議の口切だけで、中身のない序章で終わっていることをお詫びします。ただし、当記事のコメント対話の一部ではないので、ご了解いただきたい。

 さて、貴コメントに触発されて、景初暦について、いろいろ資料をあさっているのですが、資料収集に時間と費用がかかり、また、正史の暦制関連記事に不可解なものが多くて、つじつまの合う説明がつかないままに日数が経過しているものです。

 さて、当コメント対話の流れでいうと、今回の貴コメントは、いろいろ高度な算術で、書記編者の脳内の成り行き(推定だけで、遺物も文献もなく、実証しようのないもの)を考察されていることがわかりますが、当方の考えでは、これらはすべて貴兄の個人的な思考実験であって、提示いただいた諸仮説の成否は判定不可能と思います。(賛成しないが、下記理由により、否定、批判もしない)

 従って、当方の歴史解釈論議に利用するのは、謹んで遠慮させていただきたいものです。

(他人の「所説」は、まずは尊重し、その趣旨を理解した上で、「丁寧に」批判しなさい、という古田氏の遺訓に同意していますので、貴兄の所論の核心部には立ち入らないように努力していますが、手元、足元が狂ったら、ご勘弁いただきたい)

 当方の意見は、平凡そのもので、書記「明帝景初三年」記事に対する合理的、論理的な解釈としては、人名誤写以外の何物でも無い、単なるミスと考えます。

案ずるに、当記事を担当した書記編者の手元に届いた魏志引用(簡牘?)がそのように書いていたとすると、編者にはそれを校正するすべがないので、とがめられないものと思います。

つまり、書記編者(全体)の手元に、人名を校正するための根拠となる、倭人伝(少なくとも)全体の写本は無かったのだろうと言うことです。

 これに対して、明帝は、明帝紀では景初三年正月、そして、少帝紀の改元、改暦記事に従うと、景初二年の後の12月に亡くなったと年月が変更されているので、これら正史記事を、書紀編者が史家の史眼で読んで、しかるべく考察していれば、景初三年は年頭から新帝の治世になっていたと読み取れるのであり、先帝明帝が冠された「明帝」+「景初三年」と言う書き方は、名分が通ら無いものであり、国史編纂者として不用意と言うしかないものと考えます。

 国史編纂していてそんなことも知らんかったのか、と非難されても仕方ない不始末と考えます。たったそれだけのことです。

 おそらく、ここでも、書記編者の手元に魏志当該部分の写本はなく、引用利用した断片的な抜き書きを書き取っていただけと考えます。

 と言うことで、話の振り出しに戻ると、貴兄が、貴サイトで書紀編者の不出来な書きぶりに対する古田氏の批判に触発された反論で、方向違い(と見える)の論議を展開しその自己流の論議を根拠に、古田氏を個人攻撃しているのが、当方の不信を買ったところに始まっているのです。

 正し、貴サイト関連記事で自己流の計算式による書記年代考を滔々と説いているのは、もともと貴サイトの基本方針と思われるので、当方がそちらに乗り込んでいって批判的に議論することは、はなから避けています。

貴サイトは、貴兄の知的財産、ないしは、知的な縄張りであり、その全体像が理解できないままに、踏み込んで批判するものではないと考えたものです。そういうことで、他サイト記事の批判も、当方の縄張り内で、当方の方針に沿って批判しています。

 従って、逆に、当方の議論に関わりない思考を前提に「お考えになった」、「ありえない」、つまり、そんなこともわからんのかと、丁寧に「自己流」思考方式を当ブログに押しつけるのは、ご勘弁いただきたいのです。

 景初暦にまつわる疑問については、引き続き追いかけていきます。

 最後になりますが、貴兄が良く言われる筑摩書房版三国志(中華書局版準拠)日本語訳の論拠引用を、単純に真似させていただくと、同書の倭人伝記事日本語訳には、「景初二年六月」と明記されているのですが、これは、書記記事の誤り、つまり、書記編者が依拠した引用資料の誤記を証するものではないのですか。

以上

投稿: ToYourDay | 2016年7月21日 (木) 12時45分

ToYourDay 様

「万代に語り継ぐべき倭王の名」 http://www.geocities.jp/yasuko8787/150310.htm
の「景初3年=西暦239年を割り出すための資料」に引用しているように、年号に関する資料が揃ってなければ、景初3年=西暦239年は割り出せません。

これとは別に、小生は、岩波の「日本書紀」に基づいて、年表を作成し、年100歳の神功皇后の紀の年代は、200を加えると西暦に一致することを割り出しました。

この法則によれば、神功39年は西暦239年に相当することになります。

ここで問題になるのは、神功紀が「39年。是年、太歳己未。(以下小文字)魏志に云はく、明帝の景初の3年の6月、……」と、魏志倭人伝の「景初2年の6月」を書き換えていることです。

日本書紀が各天皇の元年を「太歳干支」で表していることから、この書き換えの意図は、天皇家の元祖である親魏倭王卑弥呼の元年を正確に伝えることにあります。

それはさておき、神功39年の条に景初3年の記事を引用していることは、景初3年が西暦239年に相当する年であることを、書紀の編者が正確に把握していたことを意味します。

それゆえ、「(神功)40年。(以下小文字)魏志に云はく、正始の元年に、……。「(神功)43年。(以下小文字)魏志に云はく、正始の4年に、……。」とあることからも、「書記編者の手元に魏志当該部分の写本はなく、……」というとらえ方は、粗雑といわざるを得ません。

なお、参考までに書き添えれば、岩波の日本書紀には、欽明32年4月15日の「天皇、寝疾不予したまふ」に関して、「魏志、明帝紀、景初2年12月条に「帝寝疾不予」とある。不予は天子の病気をいう。」とあり、

「駅馬……」に関ししては、「以下は景初三年正月条の文「太尉宣王還至河内。帝駅馬召到、……」による。」とあります。明帝紀を見ずに、こんな作文が出来るでしょうか。

最後になりますが、「景初三年は、存在しないことになる。」とのご発言が、誤解に基づくものであることは、認めて頂けたのでしょうか。

ToYourDay 様

「万代に語り継ぐべき倭王の名」 http://www.geocities.jp/yasuko8787/150310.htm
の「景初3年=西暦239年を割り出すための資料」に引用しているように、
年号に関する資料が揃ってなければ、景初3年=西暦239年は割り出せません。

これとは別に、小生は、岩波の「日本書紀」に基づいて、年表を作成し、年100歳の神功皇后の紀の年代は、200を加えると西暦に一致することを割り出しました。

この法則によれば、神功39年は西暦239年に相当することになります。

ここで問題になるのは、神功紀が「39年。是年、太歳己未。(以下小文字)魏志に云はく、明帝の景初の3年の6月、……」と、魏志倭人伝の「景初2年の6月」を書き換えていることです。

日本書紀が各天皇の元年を「太歳干支」で表していることから、この書き換えの意図は、天皇家の元祖である親魏倭王卑弥呼の元年を正確に伝えることにあります。

それはさておき、神功39年の条に景初3年の記事を引用していることは、景初3年が西暦239年に相当する年であることを、書紀の編者が正確に把握していたことを意味します。

それゆえ、「(神功)40年。(以下小文字)魏志に云はく、正始の元年に、……。「(神功)43年。(以下小文字)魏志に云はく、正始の4年に、……。」とあることからも、「書記編者の手元に魏志当該部分の写本はなく、……」というとらえ方は、粗雑といわざるを得ません。

なお、参考までに書き添えれば、岩波の日本書紀には、欽明32年4月15日の「天皇、寝疾不予したまふ」に関して、「魏志、明帝紀、景初2年12月条に「帝寝疾不予」とある。不予は天子の病気をいう。」とあり、

「駅馬……」に関ししては、「以下は景初三年正月条の文「太尉宣王還至河内。帝駅馬召到、……」による。」とあります。明帝紀を見ずに、こんな作文が出来るでしょうか。

最後になりますが、「景初三年は、存在しないことになる。」とのご発言が、誤解に基づくものであることは、認めて頂けたのでしょうか。

村上通典様
 当方の指摘は、基本的に古田氏同様、「明帝の景初三年六月」はなかったという仮説です。
 そこに付け加えた私見は、極端な仮説ですが、仮説として成立していると考えて公開したものです。結論として提案したものではありません。言うまでもありませんが、提案に先立って、斉王記のくだんの詔勅は読んでいますし、裴松之の注釈も読んでいるのですが、裴松之の寓意を借りて、筋の通った解釈が見えなかったと明記しているのです。
 なぜなら、同年十二月の詔勅により暦制を回復し、遡って明帝逝去を景初二年十二月としたの「であれば」、翌年、つまり新暦による当年の正月は、改暦、改元の重なった新皇帝の初年ですが、それが、改暦詔勅以前には、景初と呼ばれ記事が書かれたにしろ、明帝はいないから、「主のない一年」なのです。
 かたや、改暦の詔勅をそのままに、明帝の逝去による新皇帝の即位による改元は新年をもって執り行うという「越年改元」の原則を適用すると、遡って、同年を正始元年とする詔勅と読み取れないこともないのです。あるいは、詔勅の時点から遡って、その年の新年から改元するという「立年改元」の制度によったとも思えます。異例の改元でも、何らかの理由付けが必要だったでしょうから、何がどうなったのか明記する必要があったはずですが、不明確なのです。
 もちろん、私見の部分は、「であれば」の議論であり、極端な意見ですから、史料に根拠がなく、おそらく、杓子定規な「越年改元」の原則は適用されず、景初三年は、「主のない一年」だったのでしょうが、意見を公開するには、その程度の考察は必要です。貴兄の反論には、同等の考察が加えられているでしょうか。
 元に戻ると、正史に明記された、筋の通らない異常事態を読み取れなかった書紀編者の不明は非難されるべきでしょう。
 何しろ、はるばる遣使した相手の皇帝を取り違えるはずはなく、正史に書かれているはずのない「明帝」と付け足して「景初三年六月」と書く以上、書紀編者の手元資料には後に明帝と諡された皇帝と記録されていたでしょうから、その皇帝が「景初三年」には亡くなっていたことくらいは確認すべきだったのです。
 落ちでもないですが、貴兄好みの春秋の筆法を頼りにすると、陳寿は、曹魏第三代曹叡の改暦に天を怖れぬ不遜な態度を見て、故意に景初-正始の改暦部分の記事を整合のとれないままに放置したのかも知れません。そう言えば、曹叡没年の誤算も、その手の誤記放置でしょうか。
 色々書いていますので、論旨を否定するのであれば、拙速に陥らず、どの部分を、どのような論拠によって否定するのか、明記いただきたいものです。
以上

「景初三年は、存在しないことになる」という誤解を解くために、筑摩書房の『三国志Ⅰ』より、三少帝紀 第四の〔斉王紀〕のはじめにある記事を拾い出してみました。
http://6904.teacup.com/mm3210/bbs 

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