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2016年7月

2016年7月28日 (木)

今日の躓き石 NHK BS-1の錯乱 日本人投手二人のリベンジ・マッチ??

                             2016/07/28
 いや、長生きはしたくないものである。天下のメディア知性の頂点にある(筈の)NHK BS-1 「World Sports」が、酷暑で錯乱したか、
「日本人投手二人のリベンジ・マッチ
と絶叫して開始したのには、あきれかえった。

 日本人投手二人が、どんな諍いを起こしているのか知らないが、「血なまぐさい報復合戦」をしているとは知らなかった。だって、そういう意味にしかとれないのである。
 でないとしたら、何を言いたかったのか。

 大人の職業人の仕事、つまり、お金をもらってしている仕事であれば、

 欧州各地で大量殺戮を繰り返しているテロリスト紛いの物騒な言葉

を使わずに、普通の言葉で言い換えて話して欲しいものである。

 問題発言したのは、画面に顔と名前の出るスタッフではないようだが、まさか、部外者が勝手に喋ったのではあるまいに。

 こんな不都合な台詞がNHKの公認用語だとしたら、受信料を一部返して欲しいものである。

 うん、たまには、色気のある、刺激的な記事である。

以上

 

私の意見 司馬懿 遼東遠征 「大包囲作戦の実相」はどっち?

                                  2016/07/27
*発端
 曹魏明帝の景初年間の遼東討伐に於いて、包囲作戦を採ったかどうかなどは、本来、大した意義のあるものではなく、魏晋時代研究の枝葉なのだが、魏志の記事の正確さを検証する上での、いわばリトマス紙検定になっていて、倭國の使節が帯方郡に着いたのが、景初二年か、三年か決定する判断材料になっているので、当方も、枝葉にこだわらざるを得ないのである。

*議論の意義
 いや、「景初二年か、三年か」の選択ではなく、「三国志刊本に景初二年と書かれているのが、長年の史料転写で「必然的に」発生する誤記である、この部分以外でも、同様の誤記があって、本来の記事が誤伝されている』と言う主張の存亡に繋がる議論
とみる論者がいて、かなり執拗にこだわっているのが、素人目にも、目につくので、自分なりに史料検証しないといけないなと思ったのである。

*司馬懿の背景
 さて、一々裏付けをかざすのも面倒なのだが、司令官に任じられた司馬懿の遼東遠征は、いきなり飛び出していったのではなく、事前の根回しがあったと記録されている。

 言い足すと、中国の遠征軍司令官は、勝てば、無上の栄光、栄達が待っているが、敗戦の将を待っているのは、大勢の兵を損じ、大量の軍糧を損じ、多額の資金を浪費し、国の威信を損ねたという「大罪」の責めであり、最悪、当人だけでなく、三族、つまり、親、兄弟、妻子まで連座する死罪の可能性が高いものである。特に、景初の遼東攻めのように、大軍を擁した長期の遠征で、皇帝に対して大言壮語して出陣すれば、万が一の負けは許されない、それこそ「必死」の務めである。

 司馬懿の遼東攻めは、先立つ企てとして、幽州刺史毋丘儉による遼東遠征があるが、敗退と言えぬまでも、公孫氏打倒に失敗した直近の先例に懲りて、手堅い包囲策を採ったとも言える。

 司馬懿は、そこそこ教養のある人物であるが、曹操、曹丕のように、詩作を重ねたわけではなく、また、丞相に至る政権中枢の道を歩んだわけでもなく、どちらかというと、軍人肌であったように感じている。その証拠というわけでもないが、その職歴は、ほとんどが軍人としての任にあったとされている。従って、兵法を熟知した作戦で、大局的な戦略を立てるのが、その本領であり、前線に遭っては、彼我の動向を良く見て、臨機の行動を取るものと見ている。

*敵方作戦の想定
 司馬懿自身も述懐しているように、大軍の遠征軍は兵站に弱みがあり、正面切って遠征したのでは、遼東が堅固に籠城して、遠征軍の枯渇を待ちつつ、周囲の状勢を見て、何れかに逃亡して後日の再興を計る作戦をとれば、一大遠征軍はむなしく帰還せざるを得ないのである。
 これに対して、再起を目指せるような受容力のある逃亡先がないように、丁寧に包囲陣をしけば、遼東は、袋の鼠となって、無理な逃亡を図るしかないのである。
 このあたり、同地域の古参である高句麗は、負け戦上手であり、何度となく、首都を落とされる大敗戦を経験しながら、王族はうまく逃げ延びて、後日、征服者の引き上げるのを見て、国土を回復しているのである。

*包囲策の始動
 魏朝の策としては、まず、北方の高句麗に厳命して、遼東への援軍を禁じた。それどころか、背後から遼東を責めろと指示している。そして、景初元年には、遼東の西ないしは西北の烏丸、遼西の勢力を服従させた。(烏丸伝裴注および毋丘儉伝)
 してみると、残る東南方向にあって三韓の領域を管轄する楽浪郡と帯方郡を、遼東攻め以前に制圧するのは、理の当然の戦略である。
 実際、公孫氏は、包囲陣の弱い東南方に逃亡を企てたが、そこは包囲陣が弱いだけであって、再起に向かって魏朝勢力をはねのける受け入れ先がないので、あっさり追いつかれ、戦死したのである。

*海船造船・両郡制圧

 それに先立って、景初元年年央の記事に「青州・兗州・幽州・冀州の四州に詔勅を下して、大々的に海船を作らせた。」とあり、となると、すかさず、青州から海(黄海)を渡って目前の朝鮮半島の両郡に鎮圧の軍を送り込み、新任の郡太守の元、魏朝直轄の支配を築いたと見るのが自然である。

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私の意見 魏朝景初暦異説考 「明帝の景初三年」はなかった(のではないか)? 4

                                                                2016/07/26
承前

参考資料
 臣松之桉:魏為土行,故服色尚黃。行殷之時,以建丑為正,故犧牲旂旗一用殷禮。

 禮記云:「夏后氏尚黑,故戎事乘驪,牲用玄;殷人尚白,戎事乘翰,牲用白;周人尚赤,戎事乘騵,牲用騂。」


〔二〕臣裴松之は考える。魏は五行のうち土行にあたるために、衣服の色は黄色を尊重したのである。殷の暦を用いて、建丑の月をもって正月としたために、犠牲や旗はすべて殷の礼を用いたのである。
 「夏后氏は黒色を尊んだ。そのために軍事用には、(黒馬)に乗り、犠牲には黒色の獣を用いた。殷の人は白色を尊び、軍事用には、翰(白馬)に乗り、犠牲には白色の獣を用いた。周の人は赤色を尊び、軍事用には騵(腹の白い黑たてがみの赤馬)に乗り、犠牲には赤色の獣を用いた」と『礼記』(檀弓上)にある。

 鄭玄云:「夏后氏以建寅為正,物生色黑;殷以建丑為正,物牙色白;周以建子為正,物萌色赤。翰,白色馬也,易曰『白馬翰如』。」

 鄭玄は、「夏后氏は建寅の月(一月)をもって正月とした。〔黑を尊ぶのは〕物が発生するときの色が黑いためである。殷は建丑の月(十二月)をもって正月とした。〔黄を尊ぶのは〕物が芽生えるときの色が黄色いためである。周は建子の月(十一月)をもって正月とした。〔赤を尊ぶのは〕物が萌えいずるときの色が赤いためである。翰とは白色の馬である。『易』(贲卦)には『白馬翰如』とある」と述べている。

 周禮巾車職「建大赤以朝」,大白以即戎,此則周以正色之旗以朝,先代之旗即戎。今魏用殷禮,變周之制,故建大白以朝,大赤即戎。

 『周礼』(卷官)の巾車の職に、「大きな赤い旗をたてて朝礼を行ない、大きな白い旗をかかげて戦争におもむく」とあるが、これは、周が王朝の正式の色の旗を朝礼に使い、先代(殷)の色の旗を軍事に使っていることを示している。いま魏は殷の礼を用いて、周の制度を改変しているから、大きな白旗を朝礼に使い、大きな赤旗を軍事に使っているのである。

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私の意見 魏朝景初暦異説考 「明帝の景初三年」はなかった(のではないか)? 3

                                                                2016/07/26
承前

参考資料
 (無料で利用可能な)三国志原文では意味がわからないとの意見があるので、急遽、筑摩書房世界古典文学全集の24 A,B,Cの正史三国志ⅠⅡⅢ(日本語訳)、(以下、筑摩三国志という)を購入して、できるだけ並行して参照するようにした。

 但し、当然の理屈として、筑摩三国志に込められた理解に依存して所論を展開するのは、少なくとも、筑摩三国志の解釈に依存することでもあり、時として、正史の解釈を誤る可能性があることに留意して戴きたい。

 いや、「依存」して仮説を立てても、そこからまっしぐらに結論に飛びつかなければ良いし、併せて、自説に酔って、性急に自画自賛して異論(異教徒、異宗派)を排除しなければ良いのであるが。

 いや、当方は、筑摩三国志の訳業を成し遂げられた今鷹真、小南一郎、井波律子の三氏に誤訳があると言っているのではない。

 また、
筑摩三国志は、空前、そして、残念ながら絶後の偉業であり、「現代文化資産」に計上すべきものと思うのだが、それはそれとして、翻訳とは、原文解釈によって、その意を察して、古代史に関しては表現に限りある現代日本語によって記述するものであるから、いかなる手段を尽くしても、幾ばくかの不確かさを伴うのが避けられないと言う普遍の真理を復唱しているのである。

 近来の、言葉に無頓着な俗書籍に比べて、用語の時代錯誤は可能な限り避けられているが、所詮、当時の中国語は、今日の日本語とは、別時点、別文化背景の言葉であるから、不整合は絶無とは行かないのは、仕方ないところである。

 現に、筑摩三国志には、「景初二年(二三七)六月、倭の女王は、大夫の難升米らを帯方郡に遣わし、天子に朝見して献上物をささげたいと願い出た。」とあるので、日本書紀の「(明帝)景初三年」は、単純な誤記と確認できるのではないか。

 それとも、論客の意に沿わないものは、排除するのだろうか。もし、そうなら、その論客は、史料批判の名を借りて、個人の持論を押しつけているであって、それは資料に基づく考察ではないのである。

 人それを、ダブルスタンダードという。

 以下、極力忠実に資料を引用しているが、だからといって、当プログ筆者が、筑摩三国志全て賛同しているとは限らないことをお断りしておく。時に異議を挟む権利を留保したい。

 また、こうした引用資料の常として、誤記や脱落が絶対ないとは保証できないことをお断りしておく。
                                                      -記-

明帝紀:   
 景初元年春正月壬辰,山茌縣言黃龍見。茌音仕狸反。於是有司奏,以為魏得地統,宜以建丑之月為正。

 景初元年(二三七)春正月壬辰の日(十八日)、山茌県から黄龍が出現したと報告してきた。このとき担当官吏が上奏し、魏は地統を得ているゆえ、建丑の月を正月とすべきだと主張した。

 三月,定歷改年為孟夏四月。

 三月に暦を改定し年号を改めて孟夏(初夏)四月とした。

 魏書曰:初,文皇帝即位,以受禪于漢,因循漢正朔弗改。

 〔一〕『魏書』にいう。そのむかし、文帝が即位して、後漢から禅譲を受けたとき、漢王朝の暦に従って改定しなかった。

 帝在東宮著論,以為五帝三王雖同氣共祖,禮不相襲,正朔自宜改變,以明受命之運。

 明帝は太子であったころ論を著述し、五帝三王は同一の霊気を有し先祖を同じくする(黄帝を先祖とする)とはいっても、互いに礼を踏襲することはない、したがって、暦は当然改変し、そのことによって受けた天命がいかなるめぐりあわせに当るかを明らかにすべきだと主張した。

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私の意見 魏朝景初暦異説考 「明帝の景初三年」はなかった(のではないか)? 2

                                                                2016/07/26
承前

 7.旧暦復活
 さて、齊王政権の初期の決定事項として、景初暦を廃して青龍年間まで行われていた暦制に戻し、従って、景初三年二月を太始元年正月とし、景初三年正月を景初二年12月(後12月)とする改暦を行ったとされる。
  これにより、先代皇帝の「命日」(現代日本語)は12月1日となり、目出たかるべき正月元旦に先帝を供養する不都合が避けられたというのである。ただし、附記明帝紀引用のしたように、明帝の改暦改元が、堂々たる威容を以て書かれているのにもかかわらず、逝去するやいなや、 すかさず、先帝の意志に反する(逆)改暦が公布され、それに伴う記事は、そのような改暦に相応しい大義名分を伴わず極めて簡略であるたと言うことは、異様なものが感じられるように思う。
 あるいは、元々、明帝による暦制変更には、史官を含め、政府高官に反対が大変多かったことの表れのよう に見える。あるいは、明帝による暦制変更を強行させた『太史』などの関係者は、更迭されていたと言うことのようにも思えるが、魏略の編者である太史魚豢の処遇などは、記録されていないので、不明である。

 8.「明帝の景初三年」はなかった(か)? 
 くれぐれも、あわてて「景初三年」はなかった、と読まないように。
 と言うことで、正史の記事を信頼する限り、景初年間は、景初二年の後の12月で終了していて、景初三年は、存在しないことになるとの勝手読みを否定しきることはできないように思う。

 ただし、そんなに簡単に、一旦開始した年をなかったことにできたかどうかは不明であり、一部には、そのような取り扱いは魏朝内部のことであり、民間では、後々まで景初暦が通用し続けていたとも言われる。

 まして、先帝は前年12月に世を去って、年が改まって新帝が即位しているのであるから、景初三年を「明帝景初三年」と呼ぶことは「軽率」と感じる次第である。

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私の意見 魏朝景初暦異説考 「明帝の景初三年」はなかった(のではないか)? 1

                                                                2016/07/26
 根拠薄弱な自説を書き連ねる「倭人傳の散歩道」の記事のタイトルに対して、手厳しい批判が寄せられたので、断定表現のタイトルを訂正すると共に、個人的論評と題して、別系列、別の位置付けの記事として公開するものである。

 とは言うものの、折角、恥を忍んで、考察に向いた課題を提起したのに対して、真っ向から、筋の通った議論が聞けなかったのは、残念である。 

 1.太陽暦と太陰太陽暦
 以下、太陰太陽暦を太陰暦と短縮略称するが、単純な太陰暦を論じているのではないことは理解戴きたい。
 古代ローマ(共和制)の時代に、太陽暦であるユリウス暦が施行されて以来、途中、閏年の回数について改善されたグレゴリオ暦に切り替わったものの、太陽暦としての基本構造は、一年365日、ただし、閏年あり、と言うルールであり、計算しやすいので、現代は広く行われている。
 これに対して、太陰暦は、月の満ち欠け(朔望)を1カ月としているので、概して言えば、19年に7回、13カ月ある年を造って、1年365日に近い運用で、季節のずれを軽減している。
 従って、例えば、魏の景初二年が西暦何年に相当するというのは、極めて大雑把な言い方であって、いわば景初二年が閏月のある年であるならば、その一部が、ほぼ確実に西暦何年の365日からはみ出しているのである。いや、年によっては、西暦の365日が太陰暦の一年を呑み込んでいるときもあることだろう。要は一年対一年で一致していないと言うことである。

 一々暦を計算して書き出すのも面倒だと言うことなのだろうが、こうした食い違いは計算誤差などと言うものでなく、単に古代「暦」論者の怠慢なのである。

 では、國の異なる太陰暦同士で、月日が一致していたかどうかである。
 一方の、先進の國が交付した暦を他方の後進の國が忠実に実施していれば、一致するだろうが、特定の時点では、後進の國に、暦どころか文字を持たず、日々の干支を知らず、また記録できず、暦の実務に不可欠な天体観測もしていないとすれば、後進の國には、暦が無いのである。

 後年、先進の國の暦を知り得てから、遡って記録を『復元』せざるを得ないが、その際、先進の國の諸資料を利用すれば、先進の國の暦制が転写されるというだけである。

 少なくとも、曹魏明帝の時代、後年、日本と呼ばれることになる地域には、文字も暦もなく、文書記録は残っていなかったのであるから、後代資料で一致すると言っても、それは、はるか後世人たる編者が、一致するように後代資料を書いたと言うだけのことであるように思える。
 これは、当ブログ筆者の私見であり、従って当ブログの「ポリシー」であるから、誰かの意見でそそくさと撤回すべきものではなく、自身の意見が変わらない限り、変わらないものである。 

 2.太陰暦の運用
 太陰暦を実施するに際しては、19年に7回の閏月をどの年のどの月に置するか、それでなくても、毎月の大の月と小の月をどう組み合わせるかで、月々の日々と24節気で表される季節推移のずれを緩和するなどの効果が異なるので、毎年毎年取り扱いが変わるものであり、暦の専門家以外には、翌年の暦を確定できないものとなっていた。

 つまり、暦をどのように決めて、それを広く公布すると言うことは、国家権力の現れになっていたと思うのである。

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2016年7月24日 (日)

毎日新聞 歴史の鍵穴 余談 200勝投手の業績グラフ表現の妙技

                             2016/07/24

 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊13版のスポーツ面である。時々、言葉遣いの不手際で、やり玉に挙げる傾向があるが、実際は、しっかり、堅実に報道しているのを、ちゃんと言ってておかないといけないと感じているのもあって、ここに登場しているが、「堅実」の意義を、別の分野の方にも噛みしめていただきたいのである。

 ここで取り上げたいのは、広島カープ黒田投手の200勝への軌跡データのグラフ化である。最近のプロ野球の方針で、先発投手の登板は、前日からわかっているし、すでに二度200勝目の勝ちを逸しているから、十分に事前の検討ができていたのだろうが、見事な書きぶりである。
 良く言っている当方の好みから言うと、41歳とでかでかと書くのは、すでに全盛を過ぎた投手がよく頑張ったねと言う、微妙なねぎらいが、輝かしき業績に陰りを投げかけていて、微妙そのものなのだが、それはさておき、縦長グラフの表現が、実に見事であった。

 色々ある個人成績データの中で、当然取り上げるべき勝ち数データが、くっきりグラフで書かれていて、それぞれの年度は明確だし、勝ち数も、ちゃんと読める程度の大きさで数値表示されている。

 お供に描かれているのは、奪三振データであり、これは、年々の累積が主眼ではないので、投手の「力」の指標として、折れ線データで描かれている。もちろん、その年の奪三振数値が読み取りやすい数字で書かれている。
 投手成績の表現では、多分常套手段なのだろうが、こうして、目前に示されると、拍手したくなる。なかなかである。

 ファンならご存じのように、黒田投手は、三振の数で抜群というわけではないが、おおむね、その年の好不調がそれぞれの数値にあらわれていることが、鮮やかに読み取れる。
 ドジャース時代、救援陣の不調や湿った打線の影響で、勝ち星が目減りしてしていたと評されていたが、ヤンキース移籍後も、微妙に勝ち星が伸びていないのがわかる。うまく行かないものである。
 ピンストライプ時代、20勝を連発していたら、さすがに、プロ魂が騒いで、後、何年かは帰国できていなかったろうと思う。

 グラフの余白に小さい字で時々の事象が書かれているが。これは、落ち着いたときに、じっくり読めばいい物であるから、字が小さいのは全く問題ない。
 基本に忠実で、しかも、記者の言いたいことが一段と目立つ、プロの技であった。

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2016年7月22日 (金)

今日の躓き石 神がかっている話 島村アナ賛

                                2016/07/21
 今日の題材は、神がかっている話である。

 広島―阪神戦(CS J Sports 1のJSPORTS STADIUM 2016)で、実況アナが、柔らかい語り口で、しかし、きっちりと、「神がかっている」と正しい言葉をおぼえて欲しいとたしなめていたのに、感心したのである。

 その時たしなめられていたのは、「神っている」とボードを掲げている若者達だが、実は、そんな半端な言葉で大人げない談話を出した監督の責任と、それを糺すことなしに報道した各紙スポーツ記者の責任なのである。

 ご当人の監督の方は、勝ちまくって調子に酔って、ついつい悪い言葉の見境がなくなっている、言葉遣いの素人だから、ある程度の失言は仕方ないのだが、問題は、言葉のプロであるべき報道機関が悪のりして、まんまで報道して、汚染を拡大していることである。

 こうしたとき、すかさず、厳しく反応するのが、当ブログの定番であり、問題の監督談話は、気づいていたのだが、新手の手違いについて、個人攻撃にならないように、たしなめるのに良い折を待っていたのである。

 最初、その安易な悪のりの流れに水を差したのは、毎日新聞のスポーツ欄であった。目立たない手口で、正直、大いに感心したのだが、ほめ記事をあげるのに良い折を待っていた。

 今日、普段 諦めていた民間放送系の実況放送で、物静かに「正しい言葉をおぼえて欲しい」と語りかけているのを聞いて、これは、大きく支援すべきだと思ったのである。

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2016年7月21日 (木)

毎日新聞 歴史の鍵穴 三丸の悲劇 鍵穴の悲劇

縄文時代の人口減少 食の多様性喪失が原因か
 =専門編集委員・佐々木泰造
 私の見立て☆☆☆☆☆                     2016/07/21 再掲 2024/04/17

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 今回は、毎日新聞2016/7/20日夕刊の文化面記事、月一連載の「歴史の鍵穴」に対する批判である。
 漠然と不満を書き出しては、単なる嫌がらせと誤解されかねないので、具体的に指摘させていただいている。

*タイトル
 「縄文時代の人口減少」と銘打っているが、当記事は、現在の青森市郊外にある著名な縄文遺跡である三内丸山遺跡(以下、「三丸」の愛称で呼ぶ)の調査以外の何物でも無く、タイトル文で、それが全国的な意義のある調査のように決めつけているのが、全国紙たる毎日新聞文化面のタイトル付けの基本を外して、読者に誤解を誘おうとしているかと思わせる。

*図
 今回は、わざわざ、図表を『専門編集委員』が加工して紹介していると宣言されているから、稚拙さを免れそうなものだが、その図の不出来に唖然とするのである。

 図の下段に「住居の数」と銘打って、半分近い場所取りの棒グラフらしきものが描かれていて、右端に単位(軒)として最大100として数字が入っているから、棒が軒数かと思うが、何としたことか、X軸が引かれていないから、高さの出発点がわからないし、X軸目盛がないから、棒の位置が何に対応しているかわからない。
 例えば、エクセルのような集計表プログラムで、データ表を元にグラフを描かせれば、自動的に縦横軸の線が引かれ、目盛の数値が所定の位置に書かれるのだが、書かれていないと言うことは、読者に読まれるのを嫌って、わざわざそれを消したのだろうか。

 それぞれの棒の位置は、最上段にある「年代」が暗示しているというのだろうが、そこまで視線をあげても、軸目盛として書かれていないから、一向にそれぞれの棒が何年のものか把握できない。単なる『絵』(現代語で言う「イメージ」)に堕しているのである。

 科学論文の図が、科学的なデータの標準的な書式で書かれていないとしたら、読者は、論文の裏付けとなるデータを視覚的に感じ取ることができないのであり、何のための図示かと問われるわけである。誰でも読めるように数表で載せろというところである。

 そういうことで、この図は科学的に意味のある数値データを根拠にしていると見せて、実は、三丸の調査データの主観的な絵解き(視覚化と言うより幻視化)でしかない。

 せめて、現在の青森県、あるいは、東北地方での縄文時代の人口変化を提示して、三丸調査の結果と対比するのが常道と思うのだが、その辺りの配慮がまるまる脱落していて、お話は、三丸住民の食生活の話になっていくのである。

*第一段落 導入部
 記事冒頭の段落は、「縄文時代」「日本列島」の人口推移について、散々冗長なデータと推論を重複して引用紹介して30行近くを消費している(稼いでいる)が、これこそ、グラフで推移の傾向を図示すれば、当方の不評を買わずに済んだのである。

 それにしても、専門編集委員殿には『有効数字』の概念がないから、概数表示の手管を知らず、古代の推定値を縦書き算用数字という字数稼ぎの手口で10や1の桁まで書き出して、読者を唖然とさせるのである。

 それはそれとして、記事に紹介された「推計」によれば、縄文中期の人口は、26万人程度であるが、三丸の住民は、当記事によると、最大で、数百人程度の住民がいたと推定されている。データとして分析するのが可能な程度の数であろうが、全体の0.1パーセント程度の少数者であり、三丸の位置が本州島内で大きく北方に偏していることからも、ここで得られた推定を全国に波及させられるものかどうか、疑問がある。

 また、先ほどに触れたように、百戸程度の集合住宅の調査データが、人口30万程度の当市全体に適用できるのかと疑問を感じるところである。

 言い方を変えると、縄文時代、全国に千箇所の三丸級縄文集落があったのであれば、三丸の調査で、他の999箇所に対して妥当な類推ができる可能性があるが、そのような科学的な位置付けには触れられていない。

以上

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2016年7月17日 (日)

今日の躓き石  「ミラーレス」の亡霊再び 自動車問題

                                2016/07/17
 いや、これは、一般報道なので、単なる噂話以上に、目立ったものになっている。

 もともとは、次世代自動車で、「ミラー」類を、全て「カメラ+ディスプレイ」に置き換えようという趣旨である。確かに、安全性の面で抜群の改善であり、「コストが見合えば」全車両に装備して欲しいものである。

 ただし、業界の一部でささやかれているという「ミラーレス」の仮称には、断然反対である。この言い方は、もともと、何か害のあるものをなくすという意味であり、『「ミラー」類は、安全性上問題があるから廃止する』という意味になるが、それはとんでもない考え違いであり、業界の良識ある筋からダメ出しされるものと信じるのである。

 ちなみに、ニュース報道で紹介されている海外試作車には、"Mirror Replacement"と書かれていて、さすがに正鵠を得ている。同等以上の機能のあるものに置き換えて、安全性を向上し、消費者に貢献するのであって、既存技術が悪いから廃止するのではない。

 いや、デジタルカメラの分野の事例で、
今でも一定の優れた機能を果たしている「ミラー」+「ミラーボックス」+「ペンタプリズムあるいはペンタミラー」を、電子的に同種の機能と見える代用機構に置き換えた、いわば、賢いコストダウン策である技術的な「妥協」(見解は個人次第だが)を「ミラーレス」と呼んで押し切ってしまった別業界の「冴えない運び」の轍を更に踏み外すのではないかと懸念しているのである。

 と言うものの、タイトルで「亡霊」と書いてしまったので、「まだ死んでへんで」という野次がありそうである。まあ、健在な技術や芸術、果ては個人に「遺産」とか「遺物」(レジェンド)とか言い立てるご時世であるので、笑って許していただきたい。

 ネーミングに際して、世代交代される有効な既存技術を罵倒するのでなく、乗り越えるべき素晴らしい新技術を言い立てるのであれば"iMirror"とでも呼ぶのだろうが、商標の関係もあるから、ダメかも知れない。かといって、"Magic Mirror"とも呼べまい。業界ぐるみで、賢いネーミングを望みたいものである。"バックミラー"や"ハンドル"のような、インチキカタカナ語の再来はご勘弁いただきたい。

 と言うことで、くれぐれも、後世に悪い言葉を遺産として残さないように。いや、全て老骨の幻聴であればいいのだが。

以上

今日の躓き石  「リベンジ」の拡散と稀釈化 NHKEテレ

                                 2016/07/17
 今回は、悲しくもほろ苦い話である。日曜日のEテレの将棋フォーカスは、老骨の楽しみの一つであるのだが、高校生の口から「リベンジ」の言葉を聞いてしまった、きっちり、字幕でフォローされていた。(NHKEテレの使命については、言うに及ぶまい)

 使われた意味は罪のないもので、高校将棋部を訪れたゲストとの対局に先だって、「今回は勝たせてもらって、ゲストがリベンジにまた来てくれるたらうれしい」という趣旨であった。別に、悪い意味は意識していない。ちゃんと正しい言葉遣いを教えてくれる人がいないのが悪いのであって、当人には、何の責任もない。

 いや、「大輔」流だって、(英語)本来の意味を離れた冗談半分のリチャレンジなのである。ここでは、誤用されているが、決して、復讐の意味ではないのであるが、メディアの面々とスポーツ関係者は、この流儀を正しく理解していない、と言う話である。

 それにしても、ここまで悪い言葉が広がってしまうと、流行語の常として、いつとは無しに「ださい」おじさん、おばさん言葉として廃れてしまうのに30年はかかると言うことであり、悲しいものがある。

 いつも、お願いしているように、こんな風に広がってしまわないように、広がってしまったら、一年でも早く廃れてしまうように、心あるメディア担当者各位のご協力をお願いしたいのである。そして、番組制作の最終段階での歯止めをお願いしたいのである。

以上

2016年7月14日 (木)

今日の躓き石 都市対抗野球の報復合戦?

                         2016/07/14
 今日の題材は、毎日新聞大阪朝刊13版の社会面である。と言っても、近日開催の都市対抗野球に対する地元市長の応援談話であり、「我がまち 第87回都市対抗野球」と題して、チーム所在地の三市長が、地元支局長の取材にこたえた形となっている。

 そこで、高知市長の談話が、「リベンジ 2勝目を」と高らかに「報復」、「仕返し」を謳い上げているが、まずは、市長談話として、大変不穏なものとしか言い様がない。楽しかるべきスポーツの場に、忌まわしい復讐を想定するのは、どういうことなのかと歎くのである。対戦相手には前回負けていると言うことで、「仁義なき戦い」を宣言しているのだろうか。

 とはいえ、談話自体には、そのようなことばはみられない。単に、大会での勝利を期待していると言うだけである。と言うことは、この物騒な見出しは、地元支局長の創作ではないかと思われる。非難の矛先を、正しい相手に向けねばならない。

 並行して掲載されている他の二市市長談話では、見出しは談話の締めくくり部分の要旨になっている。なぜ、高知市長だけ、さらし者になっているのだろうか。

 いや、もし、市長が、実際に子供に聞かせられない「悪い言葉」を語ったとしても、全国紙の報道姿勢として、そのような不適切な言葉は使わないと説明して、記事から外すことはできたはずであり、本件報道に対する文責は、毎日新聞社にあることになる。

 天下の全国紙に、このような子供に言うようなことを書き連ねるのは心苦しいが、是非、広がるのを助けてはならないと思われる「悪い言葉」の扱いについて再考いただきたい。

 今回は、発言者や担当記者を特定できる書き方になってしまったが、それぞれ、社会的に尊敬される地位にある方達なので、批判を受け容れる度量があると思うものである。

以上

2016年7月13日 (水)

私の本棚 番外 長野正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 補追 再掲

 卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す PHP新書 2015/1/16
 私の見立て☆☆☆☆☆                     2016/07/13  (07/17誤字訂正など) 2023/04/19

 今回も番外としたのは、講読しての書評でなく、GoogleBooksのプレビューで取り出した一ページの批評だからである。買ってもないのに品質不良を指摘するのは、営業妨害目的でないのは、見て頂ければわかる。こうした内容を見て、不満に感じる人が、内容を知らずに買えば、一読して憤激するだろうからである。
 そして、苦言は最良の助言であると信じるからである。
 ただし、依然として、乏しい資金で買い整えて、乏しい老生の余生の一部を裂いて読もうという気にはなれないのである。

 小見出しの直前の段落であるが、手の付けようのない乱文である。
 前ページで、「天津港史」を引用しているが、大運河の基礎を曹操が築いたというのは、貴重な情報であるが、後に書くように、地理的に天津と洛陽とは方向違いであり、理解に苦しむところである。

 (曹操の袁紹打倒による)「河南の中国の再統一」と言うが、「河南の中国」とわざわざ限定する意味がわからない。通常単に、河南というところであるが、それにしては、袁紹は河北勢力だったはずである。
 賑々しく「再統一」と言うが、その時点では、後漢朝が続いていたから、名目上は後漢朝の一将軍が反対勢力を「平定」していたのである。 

 「船や運河」と並列して語っているが「船で運河を駆使して」とでも言うところである。
 また、「ひそかに大量の兵と馬、食料を戦地まで運ぶ」のは、到底できないことである。
 「大量の兵と馬」とは、聞かない言葉だが、一万人の軍であれば、千頭の馬と来そうだが、これほどの馬をおとなしく船で運ぶことなどできないのではないか。
 また、そのような大量の「貨物」を運ぶには、船曳人夫が必要であり、しかも、人馬の自力行軍に比べて長期を要する。とても、ひそかに行えることではない。
 また、のろのろと日数を怠惰に過ごせば、体力減退が懸念される。
 食料は、荷下ろしした後、大量の労力がなければ運べないのである。陸送するときでも、十分な護衛を付けなければ、敵軍に狙われる好餌である。船上を狙われたら、守り切れるものではない。

 結論として、脚のあるものは脚で歩かせるのが常道である。歩いていれば、人馬は疲れて、その間暴れないし、夜はちゃんと寝られるし、運動不足にならないし、なぜ平地を船で運送するのか、理解できない。

 曹操が、諜報を重んじ、広く得た軍事情報を活用して、軍略を練ったことには異論がないが、いくら兵は詭道と言っても、敵をだまし続けて勝ったわけではなく、しばしば苦戦し、時には壊滅的に負けたのである。常勝とほど遠かったことは、衆知である。
 特に、このときの戦いでは、食糧不足に苦しみ、奇襲で敵の食糧倉庫を急襲して焼き払い、辛うじて、食糧不足による撤退を大勝に変えたはずである。

 なお、「南船北馬」というのは交通手段の地域性を言うのであって、別に、戦争の仕方を言うわけではない。従って、曹操が北方の兵站に船舶を活用したからと言って、何か既成概念を打破したというものではない。

四.四 『三國志』「赤壁の戦い」の軍船を見た難升米の旅
 小見出しですでに「前輪落輪」、一発で試験落第である。
 倭國遣使が238年とすれば、赤壁の戦いは208年であり、30年前の話である。しかも、赤壁の戦いは、あったとしても、長江(揚子江)の戦いであり、川船が、遙か北方の渤海湾に大挙航行していたとするのは無茶である。

 ついでに言うと、陳寿「三国志」「魏志」には、「赤壁の戦い」など記録されていない。呉志には、多少それらしい事件が書かれているが、これは、東呉の史官が編纂した「呉書」を、「魏国志」と別枠の「呉国志」として全文収録したものであり、陳寿は、魏志同様の編纂の手を加えていないから、倭人伝に関する考察に置いては、圏外扱いとすべきである。まして、呉志に対して、裴松之が補追した「江表伝」の記事は、魏志に対して考慮すべき資料では無い。
 総括すると、「魏志」に「赤壁の戦」は、書かれていない。

 「魏志」明帝紀に依れば、曹魏明帝は、司馬懿を起用した遼東攻めに先立って、黄海沿岸諸郡に造船の指示を出したと言うが、それは当然、各造船所に実績のある海船の追加造船である。用材の備蓄があり、造船工も待機していたろうから、短期間に必要な船腹が造船できたことと思われる。もちろん、当該海域には、貿易海船が多数往来していたろうから、軍用に調達することも、容易だったろうから、行動から呼び寄せる必要など無かったのである。

 いずれにしろ、海船と川船とは、別物であることは言うまでもない。また、川船の船員は、未知の寒冷地帯での海域の操船の役に立たなかったはずである。

Wikipediaによれば、
 天津は隋代に大運河が開通し、南運河と北運河の交差地点の三会海口(現在の金鋼橋三岔河口)がその発祥である。

 して見ると、曹魏明帝の景初二年の倭國遣使が天津に入ったというのは、とんでもない時代錯誤である。
 また、天津は、内陸都市である北京の海の玄関であり、北京から海に向かった場所にある。洛陽行きとは方向違いである。
 また、238年当時は、司馬懿の大軍が遼東の公孫氏を攻略したばかりの不穏な時代であり、書かれているような太平楽な風景は見られなかったはずである。

 「隋代になり、大運河が開通すると一気にこの都市の重要性は高まり」と開封について蘊蓄を物しているが、自認しているように『東京夢華録』・『清明上河図』に画かれた繁栄は、河水(黄河)の流れが南方に移り、隋朝の大事業によって大運河による南北等高線沿いの水運が確立した後のものであり、また、商業活動が爆発的に成長した北宋代(1000年代、つまりミレニアム越え)のことであり、238年当時は影も形もなかったのである。また、800年の間に、河水のもたらした莫大な黄土で盛大に隆起していて、地形は大きく変わっていたのである。
 いくら悠久の大中国でも、800年経てば別世界である。
 何のために、本筋に関係ない余談に字数を費やしたのか、意図不明である。頁数稼ぎの「水増し」なのだろうか。

 いずれも、書かない方が良い悪質な余談である。

以上

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今日の躓き石 NHK BS-1絶賛 MLBオールスター中継

                             2016/07/13
 今日の題材は、タイトル通り、NHK BS-1のスポーツ報道を絶賛するものである。

 MLB オールスターゲーム中継で、アナウンサーとコメンテーターが、救援投手の役割についてコメンテーターの体験に基づいて語っていて、特に、救援投手の七回、八回の担当と九回の担当については、要求される資質の違いを説明した上で、技術面、精神面の経験談が盛り上がって、大変ありがたいものであった。
 もちろん、事前に念入りに打ち合わせしたのだろうが、きっちり節度を守っていて、「アッパー」などと失言することもなかった。

 合わせて、メジャーリーガーの内なる特性である身体的なもの、技術的なもの、知的なものについて、フィジカルとかメンタルとか、意味不明なカタカナ語に逃げ込まずに、丁寧に解きほぐして説き尽くしていたのも、ありがたかった。

 当然ながら、野球選手の体力とは、背の高さ、体格のデカさだけでなく、筋力面もあれば、俊敏さの面もあり、また、小柄な選手には小柄な選手なりの特徴が有ってメジャーリーグで通用していることなど、当節のスポーツ報道に多々見られる体格一点張りの評論に比べると、野球の世界は、多様な特性が要求される高度な競技分野であることが語られていて、多くの若者にとって、大変励みになるものであった。

 とにかく、カタカナ語の大雑把な言い回しに逃げず、身長・体重などの「データ数値」に囚われず、身のあるものだった。世界最高峰のゲームの解説に相応しいものであった。

 今後とも、よろしくお願いします。
以上

2016年7月11日 (月)

今日の躓き石 勝った負けたではない勝負

                           2016/07/11
 今日の題材は、毎日新聞夕刊スポーツ面の記事だが、どちらかというと芸術のTopicsである。

 人間と合奏できる人工知能ピアノのお話だが、推進者の談話で引き合いに出した前例の表現が、表面的すぎて興ざめである。

 「将棋や囲碁は勝った負けたの世界」と言うのは、素人考えに過ぎるであろう。国内の両方のトップ棋士と一度話し合ったら良いと思う。それぞれ、勝負は勝負だが、勝った負けたの結果よりも、棋理を極める創作の場、共同作業である、と言うものと思う。

 目下の所、人工知能は、指導者たる人間から豊かな感情を持つように指示されていないから無感情に見え、また、人間の感情を受け止めることもできないが、本当に道を究めたいなら、指導者がもっと高いレベルの強さを目指すように指導すべきではないか。
 「知能」の「知」は、深い意義を秘めていのである。

 そうすれば、勝った負けたとは別のより高度な創作の場になると思うのである。

以上

2016年7月 5日 (火)

私の意見 「魏志倭人伝に見る春秋の筆法」サイト記事批判の試み

 今回の題材は、下記サイトの記事であるが、「管理人」から批判を依頼された感じなので、頑張って、書き募ったものである。

 「魏志倭人伝に見る春秋の筆法」

 冒頭部分を引用すると次の感じである。以下、ベストアンサーとそれに対する管理人さんのコメントが掲載されているが、ここでは割愛した。

 「魏志倭人伝」の「景初2年」と「邪馬壱国」
「中国史書 邪馬台国」で検索すると、2番目に、「閲覧数:3,492 回答数:9」とある、
次のような「ヤフー知恵袋」の質問とそのベストアンサーが載っていました。
「邪馬台国のことが書かれた中国の歴史書は何ですか?」    2011/6/24 16:03:54

 サイトで全文引用されている問答自体は、(「回答」と題して展開される論説の「余談」に近い脱線ぶりは別として)質問に対する回答として特に非難すべき点はない(度を過ごしていると思えば、ベストアンサーに選ばなければ良い)と思いますが、気になるのは、ここで「管理人」が難色を示して、サイトに引用掲示し論難している点であり、当ブログの見当違いの記事に対するコメントで、「景初二年遣使」仮説に対する見解を公開したので、として当方の意見を求められているので、ここに、誠意を持って意見するものです。

 率直に言って、論旨とその前提が簡単に読み取れないので、大変困らされるものです。

 まず、引用記事の質問は、歴史書名を問われているので、これに対する回答は端的で良いと思うのですが、ベストアンサーに選ばれた回答は、当然ながら、三國志に「邪馬臺国」(邪馬台国)はない、定説は間違い、という史料批判に始まって、「定説」による魏志倭人傳の誤記訂正に対する(自発的)反論が始まり、言うなら、本筋を外れた自問自答めいた文句が脱線状態で続いている次第です。

 そして、魏志倭人傳に景初二年と明記されているにもかかわらず、定説(俗論)は、自明な誤記として排除しているのは、何か、具体的に問題があって、景初二年説が排除されているのかという仮想的な問いに対する回答が、「長大」な回答文の最後になっているのです。と言うことで、言うならば、脱線続きの回答の果ての迷言であり、ここに噛みつくのはどんなものかと感じます。

 つまり、「景初二年で全く問題ありません」とは、景初二年説には仮説として問題となる点がないから排除したらダメだ、と根拠のない予断に黒々と煮染められた俗論の非科学的な態度を批判しているものであり、「景初二年が絶対正しい」と、別の予断を持って景初三年を否定する非科学的な態度をとっているわけではないのです。
 ベストアンサー自身が明言しているように、「仮説は結論ではない」のです。

 一般論として、質問者と回答者の問答に横合いから第三者が口を挟むのか好ましくないのは、回答の文脈から切り離された片言に対する攻撃(揚げ足取り)になっていろいろ具合が悪いと言うことが通例だからです。

 「管理人」さんにベストな対応としてお勧めしたいのは、ベストアンサーの用語に噛みつくのではなく、自分なりにベストアンサーを越えるベリーベストアンサーを書き上げて、質問者に提示することではないかと思います。

 頑張って、全文引用までした管理人の論難(激怒)の趣旨を推定してみると、そもそも、質問の回答の形を借りた論説展開であり、特定の学説の普及を図った「ステルスマーケティング」ではないかと憤っているようにも見えますが、表面上は、芸のない揚げ足取りのように見えています。

 主旨としては、倭国使節の京都洛陽到達時に使節の皇帝謁見を上申した司馬懿は洛陽未帰還、不在であり、皇帝の制詔を伝える手配もできなかったのではないか、おかしいではないかとの設問と読み取れますが、それは、ここで行われた問答の埒外であり、別途想定される景初二年説と景初三年説の論争対峙の際に提示されるべき論点の一つとなり得るかという程度の軽微些細な事項の指摘と思います。

 思うに、景初二年説と景初三年説のいずれの仮説を取り上げても、当該仮説の全面否定には、その論拠をことごとく絶対否定することが必要であり、とても、人間業ではないと思います。まあ、元々の質問からここまで離れているのでは、関連質問として論議するのがおかしいのですが。

 最後は、形式上質問文になっていますが、文意が通らない不明瞭な文になっている点は別としても、そもそもが場違いな捨て台詞であり、大変悪い印象を与えています。ベストアンサーにこの質問が届いたとしても、「主張していないことに対して質問されても、回答の義務はない」と無視されるべきものです。質問形の捨て台詞は、論議をかき立てたいという際には、どちらかというと禁句に近いものであり、むしろ。私見を吐露する断言調で論難していれば、まだましです。

 わざわざ批判の機会を与えていただいたことに感謝します。

以上

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2016年7月 3日 (日)

今日の躓き石 毎日新聞 忘れた頃の「アッバー」

                         2016/07/03
 今回の題材は、毎度おなじみの宅配講読毎日新聞朝刊大阪13版のスポーツ欄プロ野球戦評である。

 もう絶滅したかと思っていた「アッパー」であるが、冬の蚊の如く、しぶとく生き残っていて、「直訴の完投」記事に出ていた。悪い言葉の絶滅は、かくの如く難しい。

 今回不満なのは、「中継ぎ投手」が登録抹消と普通の言葉遣いで言っておきながら、続いて、「アッパー」の戦線離脱と言い直しているのが、饒舌というか、無駄口である。業界衆知の禁句が、どうして出て来るのか。

 この程度の記事に躓くことなく読み通せる紙面にして欲しいものである。

 ちなみに、「直訴」とか「首脳陣」とか、大げさな常套句の起用は、その意図の理解が困難である。ベンチの中に、そうした言葉を使わせるほどの厳格な上下支配の官僚組織が成り立っているのだろうか。
 直訴は、本来、厳罰の対象ではないだろうか。今回、専門職としての見識を無視され、命令体系を飛ばされた投手コーチは、面目をつぶされたので、辞職でもするのだろうか。

 言い遅れたが、当方は、一介の読者であり、記者の上司でもなんでもないので、無視されても、何の文句も付けられないのだが。

以上

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