卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す PHP新書 2015/1/16
私の見立て☆☆☆☆☆ 2016/07/13 (07/17誤字訂正など) 2023/04/19
今回も番外としたのは、講読しての書評でなく、GoogleBooksのプレビューで取り出した一ページの批評だからである。買ってもないのに品質不良を指摘するのは、営業妨害目的でないのは、見て頂ければわかる。こうした内容を見て、不満に感じる人が、内容を知らずに買えば、一読して憤激するだろうからである。
そして、苦言は最良の助言であると信じるからである。
ただし、依然として、乏しい資金で買い整えて、乏しい老生の余生の一部を裂いて読もうという気にはなれないのである。
小見出しの直前の段落であるが、手の付けようのない乱文である。
前ページで、「天津港史」を引用しているが、大運河の基礎を曹操が築いたというのは、貴重な情報であるが、後に書くように、地理的に天津と洛陽とは方向違いであり、理解に苦しむところである。
(曹操の袁紹打倒による)「河南の中国の再統一」と言うが、「河南の中国」とわざわざ限定する意味がわからない。通常単に、河南というところであるが、それにしては、袁紹は河北勢力だったはずである。
賑々しく「再統一」と言うが、その時点では、後漢朝が続いていたから、名目上は後漢朝の一将軍が反対勢力を「平定」していたのである。
「船や運河」と並列して語っているが「船で運河を駆使して」とでも言うところである。
また、「ひそかに大量の兵と馬、食料を戦地まで運ぶ」のは、到底できないことである。
「大量の兵と馬」とは、聞かない言葉だが、一万人の軍であれば、千頭の馬と来そうだが、これほどの馬をおとなしく船で運ぶことなどできないのではないか。
また、そのような大量の「貨物」を運ぶには、船曳人夫が必要であり、しかも、人馬の自力行軍に比べて長期を要する。とても、ひそかに行えることではない。
また、のろのろと日数を怠惰に過ごせば、体力減退が懸念される。
食料は、荷下ろしした後、大量の労力がなければ運べないのである。陸送するときでも、十分な護衛を付けなければ、敵軍に狙われる好餌である。船上を狙われたら、守り切れるものではない。
結論として、脚のあるものは脚で歩かせるのが常道である。歩いていれば、人馬は疲れて、その間暴れないし、夜はちゃんと寝られるし、運動不足にならないし、なぜ平地を船で運送するのか、理解できない。
曹操が、諜報を重んじ、広く得た軍事情報を活用して、軍略を練ったことには異論がないが、いくら兵は詭道と言っても、敵をだまし続けて勝ったわけではなく、しばしば苦戦し、時には壊滅的に負けたのである。常勝とほど遠かったことは、衆知である。
特に、このときの戦いでは、食糧不足に苦しみ、奇襲で敵の食糧倉庫を急襲して焼き払い、辛うじて、食糧不足による撤退を大勝に変えたはずである。
なお、「南船北馬」というのは交通手段の地域性を言うのであって、別に、戦争の仕方を言うわけではない。従って、曹操が北方の兵站に船舶を活用したからと言って、何か既成概念を打破したというものではない。
四.四 『三國志』「赤壁の戦い」の軍船を見た難升米の旅
小見出しですでに「前輪落輪」、一発で試験落第である。
倭國遣使が238年とすれば、赤壁の戦いは208年であり、30年前の話である。しかも、赤壁の戦いは、あったとしても、長江(揚子江)の戦いであり、川船が、遙か北方の渤海湾に大挙航行していたとするのは無茶である。
ついでに言うと、陳寿「三国志」「魏志」には、「赤壁の戦い」など記録されていない。呉志には、多少それらしい事件が書かれているが、これは、東呉の史官が編纂した「呉書」を、「魏国志」と別枠の「呉国志」として全文収録したものであり、陳寿は、魏志同様の編纂の手を加えていないから、倭人伝に関する考察に置いては、圏外扱いとすべきである。まして、呉志に対して、裴松之が補追した「江表伝」の記事は、魏志に対して考慮すべき資料では無い。
総括すると、「魏志」に「赤壁の戦」は、書かれていない。
「魏志」明帝紀に依れば、曹魏明帝は、司馬懿を起用した遼東攻めに先立って、黄海沿岸諸郡に造船の指示を出したと言うが、それは当然、各造船所に実績のある海船の追加造船である。用材の備蓄があり、造船工も待機していたろうから、短期間に必要な船腹が造船できたことと思われる。もちろん、当該海域には、貿易海船が多数往来していたろうから、軍用に調達することも、容易だったろうから、行動から呼び寄せる必要など無かったのである。
いずれにしろ、海船と川船とは、別物であることは言うまでもない。また、川船の船員は、未知の寒冷地帯での海域の操船の役に立たなかったはずである。
Wikipediaによれば、
天津は隋代に大運河が開通し、南運河と北運河の交差地点の三会海口(現在の金鋼橋三岔河口)がその発祥である。
して見ると、曹魏明帝の景初二年の倭國遣使が天津に入ったというのは、とんでもない時代錯誤である。
また、天津は、内陸都市である北京の海の玄関であり、北京から海に向かった場所にある。洛陽行きとは方向違いである。
また、238年当時は、司馬懿の大軍が遼東の公孫氏を攻略したばかりの不穏な時代であり、書かれているような太平楽な風景は見られなかったはずである。
「隋代になり、大運河が開通すると一気にこの都市の重要性は高まり」と開封について蘊蓄を物しているが、自認しているように『東京夢華録』・『清明上河図』に画かれた繁栄は、河水(黄河)の流れが南方に移り、隋朝の大事業によって大運河による南北等高線沿いの水運が確立した後のものであり、また、商業活動が爆発的に成長した北宋代(1000年代、つまりミレニアム越え)のことであり、238年当時は影も形もなかったのである。また、800年の間に、河水のもたらした莫大な黄土で盛大に隆起していて、地形は大きく変わっていたのである。
いくら悠久の大中国でも、800年経てば別世界である。
何のために、本筋に関係ない余談に字数を費やしたのか、意図不明である。頁数稼ぎの「水増し」なのだろうか。
いずれも、書かない方が良い悪質な余談である。
以上