私の意見 司馬懿 遼東遠征 「大包囲作戦の実相」はどっち?
2016/07/27
*発端
曹魏明帝の景初年間の遼東討伐に於いて、包囲作戦を採ったかどうかなどは、本来、大した意義のあるものではなく、魏晋時代研究の枝葉なのだが、魏志の記事の正確さを検証する上での、いわばリトマス紙検定になっていて、倭國の使節が帯方郡に着いたのが、景初二年か、三年か決定する判断材料になっているので、当方も、枝葉にこだわらざるを得ないのである。
*議論の意義
いや、「景初二年か、三年か」の選択ではなく、「三国志刊本に景初二年と書かれているのが、長年の史料転写で「必然的に」発生する誤記である、この部分以外でも、同様の誤記があって、本来の記事が誤伝されている』と言う主張の存亡に繋がる議論とみる論者がいて、かなり執拗にこだわっているのが、素人目にも、目につくので、自分なりに史料検証しないといけないなと思ったのである。
*司馬懿の背景
さて、一々裏付けをかざすのも面倒なのだが、司令官に任じられた司馬懿の遼東遠征は、いきなり飛び出していったのではなく、事前の根回しがあったと記録されている。
言い足すと、中国の遠征軍司令官は、勝てば、無上の栄光、栄達が待っているが、敗戦の将を待っているのは、大勢の兵を損じ、大量の軍糧を損じ、多額の資金を浪費し、国の威信を損ねたという「大罪」の責めであり、最悪、当人だけでなく、三族、つまり、親、兄弟、妻子まで連座する死罪の可能性が高いものである。特に、景初の遼東攻めのように、大軍を擁した長期の遠征で、皇帝に対して大言壮語して出陣すれば、万が一の負けは許されない、それこそ「必死」の務めである。
司馬懿の遼東攻めは、先立つ企てとして、幽州刺史毋丘儉による遼東遠征があるが、敗退と言えぬまでも、公孫氏打倒に失敗した直近の先例に懲りて、手堅い包囲策を採ったとも言える。
司馬懿は、そこそこ教養のある人物であるが、曹操、曹丕のように、詩作を重ねたわけではなく、また、丞相に至る政権中枢の道を歩んだわけでもなく、どちらかというと、軍人肌であったように感じている。その証拠というわけでもないが、その職歴は、ほとんどが軍人としての任にあったとされている。従って、兵法を熟知した作戦で、大局的な戦略を立てるのが、その本領であり、前線に遭っては、彼我の動向を良く見て、臨機の行動を取るものと見ている。
*敵方作戦の想定
司馬懿自身も述懐しているように、大軍の遠征軍は兵站に弱みがあり、正面切って遠征したのでは、遼東が堅固に籠城して、遠征軍の枯渇を待ちつつ、周囲の状勢を見て、何れかに逃亡して後日の再興を計る作戦をとれば、一大遠征軍はむなしく帰還せざるを得ないのである。
これに対して、再起を目指せるような受容力のある逃亡先がないように、丁寧に包囲陣をしけば、遼東は、袋の鼠となって、無理な逃亡を図るしかないのである。
このあたり、同地域の古参である高句麗は、負け戦上手であり、何度となく、首都を落とされる大敗戦を経験しながら、王族はうまく逃げ延びて、後日、征服者の引き上げるのを見て、国土を回復しているのである。
*包囲策の始動
魏朝の策としては、まず、北方の高句麗に厳命して、遼東への援軍を禁じた。それどころか、背後から遼東を責めろと指示している。そして、景初元年には、遼東の西ないしは西北の烏丸、遼西の勢力を服従させた。(烏丸伝裴注および毋丘儉伝)
してみると、残る東南方向にあって三韓の領域を管轄する楽浪郡と帯方郡を、遼東攻め以前に制圧するのは、理の当然の戦略である。
実際、公孫氏は、包囲陣の弱い東南方に逃亡を企てたが、そこは包囲陣が弱いだけであって、再起に向かって魏朝勢力をはねのける受け入れ先がないので、あっさり追いつかれ、戦死したのである。
*海船造船・両郡制圧
それに先立って、景初元年年央の記事に「青州・兗州・幽州・冀州の四州に詔勅を下して、大々的に海船を作らせた。」とあり、となると、すかさず、青州から海(黄海)を渡って目前の朝鮮半島の両郡に鎮圧の軍を送り込み、新任の郡太守の元、魏朝直轄の支配を築いたと見るのが自然である。
*林間暖酒焼紅葉 石上題詩掃緑苔
さて、筑摩書房版 三国志の東夷傳序文の日本語訳では、
「景初年間(二三七―二三九)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。」
公孫淵誅殺の後、改めて軍を派遣して楽浪、帯方両郡を制圧したように書かれているが、これは、珍しく、筑摩書房版 三国志の勇み足と思われる。
「さらにひそかに兵を船で運んで」とあるが、「さらに」の言葉は原文では、単に「又」であり、時間的に「後に」とは明示されていないと言うしかない。
続いて「ひそかに」と言うが、遼東の公孫氏が滅んだ後であれば、何も隠す必要はないのである。戦後処理であれば、むしろ、堂々と伝令を送って、今後は、皇
帝の指示に従え、とか、新遼東太守に従えとか命ずれば、それで良いのである。まあ、それでは、公孫氏の重しが取れて動揺しているはずの両郡の統制が付かな
いので、新太守と軍兵を送り込んだのである。
さらに調べると、韓伝に曰く、「景初年間(二三七—二三九)、明帝は帯方太守に任じた劉听と、楽浪太守に任じた鮮于嗣とを送り、秘密裏に海からそれぞれの郡に入って郡を平定させた。」
これが、半島平定である。ここでも、秘密裏と書いているのが、当事業の時間的な順序の裏付けである。
新造船の海船を駆使した新太守と護衛の軍団が、皇帝の指令を奉じて報じて両郡にひそかに入れば、両郡は、元々魏朝の出先機関という位置付けであり、直属の上長で
ある遼東太守の指令に従っていたものが、皇帝指令に服するので特に抵抗はなく、また、両郡は、別に、組織的に皇帝に反逆していたわけでもないので、旧太守
などの上層部をのぞけば、罪に問われることはなく、大した紛糾なしに「平定」でき、遼東から切り離せたものと思う。
*慶賀使督促
両郡、特に帯方郡は、それまで交通のあった東夷諸国に対して、新体制により、魏王朝の支配下に入ったことを伝え、しかるべく祝賀恭順の使節を派遣するように指示したはずである。
倭国が使節を派遣したのは、そうした急な招請に応じた物であろう。だから、女王国は、朝鮮半島情勢変化に即応できたのである。
*帯方郡
ちなみに、魏の官制では、「郡」は、「国」並みに自治が認められていて、郡太守は指揮下に常備兵を持っていて、自分の判断・権限で、郡内の治安維持、および、外部
との抗争に対して動員できるのである。更に、郡の支配下で、現地住民から、税務、労務、軍務を取り立てることができるのである。もちろん、税務として
取り立てた穀類は、郡の倉庫に軍糧として貯蔵することができる。また、郡の直轄地は、当然、郡の領地である。
*後日談 夢想談
公孫氏を滅ぼした司馬懿は、公孫氏の配下にあった者達を大量処刑し、いわば、反乱の種まで根絶やしにして遼東郡を後にした。
さすがに、そのままでは、高句麗の遼東進出が目に見えていると言うことで、毋丘儉による高句麗討伐がこれに続いた。
毋丘儉は、精悍な軍人、かつ文人であり、遼東から東夷までの辺境を知る幕僚に恵まれ、まずは、高句麗を遙か北方まで追いやる大勝利を示した。
ただし、高句麗の負け戦上手は相変わらずで、大きな損害を受けても、再興の目は健在であった。
一方、明帝の早世による魏朝の衰弱、晋朝への権力移行によって、中国の遼東支配は退潮し、大敵である毋丘儉は、司馬氏への反逆によって討伐されて、遼東は、見捨てられた形となったのである。
このため、かっての公孫氏支配圏は、ほぼ、高句麗の支配下となり、楽浪郡、帯方郡の両郡も、消滅した。
三韓に点在する高句麗の同族部族国家は、公孫氏支配下では、高句麗との関係は疎遠であったが、帯方郡の消滅により、高句麗からの支援が可能となり、韓国内諸国で頭角を現すこととなったと思われる。
ただし、先に成長した百済は、経済力を整えるに従って高句麗への反発を強め、むしろ険悪な敵対関係となったようである。
元に戻って、魏晋朝の遼東政策として賢明であった思われるのは、公孫氏を、鮮卑、烏丸、高句麗などへの障壁、藩鎮として温存することにあったように思える。形式的に、遼東公として、つまり、皇帝の臣下として、適度に優遇しておけば、大きな利益が得られていたのである。
所詮、司馬懿は、歴史の大局の見えない愚人であったと思われる。
*お断り
以上、三国志の掲載内容からの推定であり、以上のように、丁寧に読み取れば、特に異論の無い推定だと考えている。ただし、だからといって、絶対正しいと保証しているわけではないので、論文等での無断引用は、ご勘弁いただきたい。
また、人命や財産の安否に関わるような事態でのご利用も、ご勘弁いただきたい。
また、論者は、上記の仮説を妥当、かつ、合理的なものと信じて提唱しているのだが、だからといって、『絶対』 倭國使節団が、俗説にあるように、遼東平定の
風評を聞いて、そそくさと組織され、慌てて派遣され、景初三年の六月に到着したという仮説が成立しないというものではない。以上の判断に対して、反論を整
えて戴きたいのである。
くれぐれも、どこかの俗説大家のように、「明智光秀の密使が、間違えて秀吉軍に飛び込んだ」例があるなどと、苦し紛れのオヤジギャグで受けを狙うのは、ご勘弁いただきたい。
以上
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