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2016年7月28日 (木)

私の意見 司馬懿 遼東遠征 「大包囲作戦の実相」はどっち?

                                  2016/07/27
*発端
 曹魏明帝の景初年間の遼東討伐に於いて、包囲作戦を採ったかどうかなどは、本来、大した意義のあるものではなく、魏晋時代研究の枝葉なのだが、魏志の記事の正確さを検証する上での、いわばリトマス紙検定になっていて、倭國の使節が帯方郡に着いたのが、景初二年か、三年か決定する判断材料になっているので、当方も、枝葉にこだわらざるを得ないのである。

*議論の意義
 いや、「景初二年か、三年か」の選択ではなく、「三国志刊本に景初二年と書かれているのが、長年の史料転写で「必然的に」発生する誤記である、この部分以外でも、同様の誤記があって、本来の記事が誤伝されている』と言う主張の存亡に繋がる議論
とみる論者がいて、かなり執拗にこだわっているのが、素人目にも、目につくので、自分なりに史料検証しないといけないなと思ったのである。

*司馬懿の背景
 さて、一々裏付けをかざすのも面倒なのだが、司令官に任じられた司馬懿の遼東遠征は、いきなり飛び出していったのではなく、事前の根回しがあったと記録されている。

 言い足すと、中国の遠征軍司令官は、勝てば、無上の栄光、栄達が待っているが、敗戦の将を待っているのは、大勢の兵を損じ、大量の軍糧を損じ、多額の資金を浪費し、国の威信を損ねたという「大罪」の責めであり、最悪、当人だけでなく、三族、つまり、親、兄弟、妻子まで連座する死罪の可能性が高いものである。特に、景初の遼東攻めのように、大軍を擁した長期の遠征で、皇帝に対して大言壮語して出陣すれば、万が一の負けは許されない、それこそ「必死」の務めである。

 司馬懿の遼東攻めは、先立つ企てとして、幽州刺史毋丘儉による遼東遠征があるが、敗退と言えぬまでも、公孫氏打倒に失敗した直近の先例に懲りて、手堅い包囲策を採ったとも言える。

 司馬懿は、そこそこ教養のある人物であるが、曹操、曹丕のように、詩作を重ねたわけではなく、また、丞相に至る政権中枢の道を歩んだわけでもなく、どちらかというと、軍人肌であったように感じている。その証拠というわけでもないが、その職歴は、ほとんどが軍人としての任にあったとされている。従って、兵法を熟知した作戦で、大局的な戦略を立てるのが、その本領であり、前線に遭っては、彼我の動向を良く見て、臨機の行動を取るものと見ている。

*敵方作戦の想定
 司馬懿自身も述懐しているように、大軍の遠征軍は兵站に弱みがあり、正面切って遠征したのでは、遼東が堅固に籠城して、遠征軍の枯渇を待ちつつ、周囲の状勢を見て、何れかに逃亡して後日の再興を計る作戦をとれば、一大遠征軍はむなしく帰還せざるを得ないのである。
 これに対して、再起を目指せるような受容力のある逃亡先がないように、丁寧に包囲陣をしけば、遼東は、袋の鼠となって、無理な逃亡を図るしかないのである。
 このあたり、同地域の古参である高句麗は、負け戦上手であり、何度となく、首都を落とされる大敗戦を経験しながら、王族はうまく逃げ延びて、後日、征服者の引き上げるのを見て、国土を回復しているのである。

*包囲策の始動
 魏朝の策としては、まず、北方の高句麗に厳命して、遼東への援軍を禁じた。それどころか、背後から遼東を責めろと指示している。そして、景初元年には、遼東の西ないしは西北の烏丸、遼西の勢力を服従させた。(烏丸伝裴注および毋丘儉伝)
 してみると、残る東南方向にあって三韓の領域を管轄する楽浪郡と帯方郡を、遼東攻め以前に制圧するのは、理の当然の戦略である。
 実際、公孫氏は、包囲陣の弱い東南方に逃亡を企てたが、そこは包囲陣が弱いだけであって、再起に向かって魏朝勢力をはねのける受け入れ先がないので、あっさり追いつかれ、戦死したのである。

*海船造船・両郡制圧

 それに先立って、景初元年年央の記事に「青州・兗州・幽州・冀州の四州に詔勅を下して、大々的に海船を作らせた。」とあり、となると、すかさず、青州から海(黄海)を渡って目前の朝鮮半島の両郡に鎮圧の軍を送り込み、新任の郡太守の元、魏朝直轄の支配を築いたと見るのが自然である。

*林間暖酒焼紅葉 石上題詩掃緑苔
 さて、筑摩書房版 三国志の東夷傳序文の日本語訳では、
 「景初年間(二三七―二三九)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。」
 公孫淵誅殺の後、改めて軍を派遣して楽浪、帯方両郡を制圧したように書かれているが、これは、珍しく、筑摩書房版 三国志の勇み足と思われる。

 

 「さらにひそかに兵を船で運んで」とあるが、「さらに」の言葉は原文では、単に「又」であり、時間的に「後に」とは明示されていないと言うしかない。

 
続いて「ひそかに」と言うが、遼東の公孫氏が滅んだ後であれば、何も隠す必要はないのである。戦後処理であれば、むしろ、堂々と伝令を送って、今後は、皇
帝の指示に従え、とか、新遼東太守に従えとか命ずれば、それで良いのである。まあ、それでは、公孫氏の重しが取れて動揺しているはずの両郡の統制が付かな
いので、新太守と軍兵を送り込んだのである。

 さらに調べると、韓伝に曰く、「景初年間(二三七—二三九)、明帝は帯方太守に任じた劉听と、楽浪太守に任じた鮮于嗣とを送り、秘密裏に海からそれぞれの郡に入って郡を平定させた。」

 これが、半島平定である。ここでも、秘密裏と書いているのが、当事業の時間的な順序の裏付けである。

 
新造船の海船を駆使した新太守と護衛の軍団が、皇帝の指令を奉じて報じて両郡にひそかに入れば、両郡は、元々魏朝の出先機関という位置付けであり、直属の上長で
ある遼東太守の指令に従っていたものが、皇帝指令に服するので特に抵抗はなく、また、両郡は、別に、組織的に皇帝に反逆していたわけでもないので、旧太守
などの上層部をのぞけば、罪に問われることはなく、大した紛糾なしに「平定」でき、遼東から切り離せたものと思う。

 

*慶賀使督促
 両郡、特に帯方郡は、それまで交通のあった東夷諸国に対して、新体制により、魏王朝の支配下に入ったことを伝え、しかるべく祝賀恭順の使節を派遣するように指示したはずである。
 倭国が使節を派遣したのは、そうした急な招請に応じた物であろう。だから、女王国は、朝鮮半島情勢変化に即応できたのである。

 

*帯方郡
 
ちなみに、魏の官制では、「郡」は、「国」並みに自治が認められていて、郡太守は指揮下に常備兵を持っていて、自分の判断・権限で、郡内の治安維持、および、外部
との抗争に対して動員できるのである。更に、郡の支配下で、現地住民から、税務、労務、軍務を取り立てることができるのである。もちろん、税務として
取り立てた穀類は、郡の倉庫に軍糧として貯蔵することができる。また、郡の直轄地は、当然、郡の領地である。

 

*後日談 夢想談
 公孫氏を滅ぼした司馬懿は、公孫氏の配下にあった者達を大量処刑し、いわば、反乱の種まで根絶やしにして遼東郡を後にした。
 さすがに、そのままでは、高句麗の遼東進出が目に見えていると言うことで、毋丘儉による高句麗討伐がこれに続いた。
 毋丘儉は、精悍な軍人、かつ文人であり、遼東から東夷までの辺境を知る幕僚に恵まれ、まずは、高句麗を遙か北方まで追いやる大勝利を示した。
 ただし、高句麗の負け戦上手は相変わらずで、大きな損害を受けても、再興の目は健在であった。
 一方、明帝の早世による魏朝の衰弱、晋朝への権力移行によって、中国の遼東支配は退潮し、大敵である毋丘儉は、司馬氏への反逆によって討伐されて、遼東は、見捨てられた形となったのである。

 

 このため、かっての公孫氏支配圏は、ほぼ、高句麗の支配下となり、楽浪郡、帯方郡の両郡も、消滅した。

 三韓に点在する高句麗の同族部族国家は、公孫氏支配下では、高句麗との関係は疎遠であったが、帯方郡の消滅により、高句麗からの支援が可能となり、韓国内諸国で頭角を現すこととなったと思われる。

 ただし、先に成長した百済は、経済力を整えるに従って高句麗への反発を強め、むしろ険悪な敵対関係となったようである。 

 

 元に戻って、魏晋朝の遼東政策として賢明であった思われるのは、公孫氏を、鮮卑、烏丸、高句麗などへの障壁、藩鎮として温存することにあったように思える。形式的に、遼東公として、つまり、皇帝の臣下として、適度に優遇しておけば、大きな利益が得られていたのである。

 

 所詮、司馬懿は、歴史の大局の見えない愚人であったと思われる。

 

*お断り
 以上、三国志の掲載内容からの推定であり、以上のように、丁寧に読み取れば、特に異論の無い推定だと考えている。ただし、だからといって、絶対正しいと保証しているわけではないので、論文等での無断引用は、ご勘弁いただきたい。

 また、人命や財産の安否に関わるような事態でのご利用も、ご勘弁いただきたい。

 

 
また、論者は、上記の仮説を妥当、かつ、合理的なものと信じて提唱しているのだが、だからといって、『絶対』 倭國使節団が、俗説にあるように、遼東平定の
風評を聞いて、そそくさと組織され、慌てて派遣され、景初三年の六月に到着したという仮説が成立しない
というものではない。以上の判断に対して、反論を整
えて戴きたいのである。

 

 くれぐれも、どこかの俗説大家のように、「明智光秀の密使が、間違えて秀吉軍に飛び込んだ」例があるなどと、苦し紛れのオヤジギャグで受けを狙うのは、ご勘弁いただきたい。

 

以上

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