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2016年7月13日 (水)

私の本棚 番外 長野正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 補追

 卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す PHP新書 2015/1/16

          私の見立て☆☆☆☆☆                     2016/07/13  (07/17誤字訂正など)

 今回も番外としたのは、講読しての書評でなく、GoogleBooksのプレビューで取り出した一ページの批評だからである。買ってもないのに品質不良を指摘するのは、営業妨害目的でないのは、見て頂ければわかる。こうした内容を見て、不満に感じる人が、内容を知らずに買えば、一読して憤激するだろうからである。
 そして、苦言は最良の助言であると信じるからである。
 ただし、依然として、乏しい資金で買い整えて、乏しい老生の余生の一部を裂いて読もうという気にはなれないのである。

 小見出しの直前の段落であるが、手の付けようのない乱文である。

 前ページで、「天津港史」を引用しているが、大運河の基礎を曹操が築いたというのは、貴重な情報であるが、後に書くように、地理的に天津と洛陽とは方向違いであり、理解に苦しむところである。

 (曹操の袁紹打倒による)「河南の中国の再統一」と言うが、「河南の中国」とわざわざ限定する意味がわからない。通常単に、河南というところであるが、それにしては、袁紹は河北勢力だったはずである。
 賑々しく「再統一」と言うが、その時点では、後漢朝が続いていたから、名目上は後漢朝の一将軍が反対勢力を「平定」していたのである。 

 「船や運河」と並列して語っているが「船で運河を駆使して」とでも言うところである。
 また、「ひそかに大量の兵と馬、食料を戦地まで運ぶ」のは、到底できないことである。
 「大量の兵と馬」とは、聞かない言葉だが、一万人の軍であれば、千頭の馬と来そうだが、これほどの馬をおとなしく船で運ぶことなどできないのではないか。
 また、そのような大量の「貨物」を運ぶには、船曳人夫が必要であり、しかも、人馬の自力行軍に比べて長期を要する。とても、ひそかに行えることではない。
 また、のろのろと日数を怠惰に過ごせば、体力減退が懸念される。
 食料は、荷下ろしした後、大量の労力がなければ運べないのである。陸送するときでも、十分な護衛を付けなければ、敵軍に狙われる好餌である。船上を狙われたら、守り切れるものではない。

 結論として、脚のあるものは脚で歩かせるのが常道である。歩いていれば、人馬は疲れて、その間暴れないし、夜はちゃんと寝られるし、運動不足にならないし、なぜ平地を船で運送するのか、理解できない。

 曹操が、諜報を重んじ、広く得た軍事情報を活用して、軍略を練ったことには異論がないが、いくら兵は詭道と言っても、敵をだまし続けて勝ったわけではなく、しばしば苦戦し、時には壊滅的に負けたのである。常勝とほど遠かったことは、衆知である。
 特に、このときの戦いでは、食糧不足に苦しみ、奇襲で敵の食糧倉庫を急襲して焼き払い、辛うじて、食糧不足による撤退を大勝対象に変えたはずである。

 なお、「南船北馬」というのは交通手段の地域性を言うのであって、別に、戦争の仕方を言うわけではない。従って、曹操が北方の兵站に船舶を活用したからと言って、何か既成概念を打破したというものではない。

四.四 『三國志』「赤壁の戦い」の軍船を見た難升米の旅

 小見出しですでに「前輪落輪」、一発で試験落第である。
 倭國遣使が238年とすれば、赤壁の戦いは208年であり、30年前の話である。しかも、赤壁の戦いは、長江(揚子江)の戦いであり、川船が、遙か北方の渤海湾に大挙航行していたとするのは、無茶である。

 魏志明帝紀に依れば、曹魏明帝は遼東攻めに先立って、沿岸諸郡書軍に造船の指示を出したと言うが、それは当然、海船である。川船とは別物であることは言うまでもない。

Wikipediaによれば、
 天津は隋代に大運河が開通し、南運河と北運河の交差地点の三会海口(現在の金鋼橋三岔河口)がその発祥である。

 曹魏明帝の景初二年の倭國遣使が天津に入ったというのは、時代錯誤である。
 また、天津は、内陸都市である北京の海の玄関であり、北京から海に向かった場所にある。洛陽行きとは方向違いである。

 また、238年当時は、司馬懿の大軍が遼東の公孫氏を攻略したばかりの不穏な時代であり、書かれているような太平楽な風景は見られなかったはずである。

 「隋代になり、大運河が開通すると一気にこの都市の重要性は高まり」と開封について蘊蓄を物しているが、自認しているように『東京夢華録』・『清明上河図』に画かれた繁栄は、河水(黄河)の流れが南方に移り、隋朝の大事業によって大運河にる南北等高線沿いの水運が確立した後のものであり、また、商業活動が爆発的に成長した北宋代(1000年代、つまりミレニアム越え)のことであり、238年当時は影も形もなかったのである。また、800年の間に、河水のもたらした莫大な黄土で盛大に隆起していて、地形は大きく変わっていたのである。いくら悠久の大中国でも、800年経てば別世界である。
 何のために字数を費やしたのか不明である。

 いずれも、書かない方が良い悪質な余談である。

 続いて、「魏の武将が楽浪・帯方の二郡を遼東半島の豪族から激戦の末奪還し遼東半島の権益が魏に移った」と暢気に書いているが、「その時代」などとよそ事のように言うべきものではなく、当の238年に、現に当地で起こっている戦いなのである。
 帯方郡治は、六月に使節が入ったとき、すでに、魏朝の支配下に収まっていたとしても、遼東郡は、まさしく戦闘の場であり、図示したように、暢気に航海できたとは思えない。

 開戦前に楽浪・帯方の二軍を支配していたのは、遼東の豪族公孫氏であって、公孫氏は、遼東半島だけを領有していただけではない。ただし、遼東半島は、遼東郡の領域であり、司馬氏は公孫氏の「権益」を奪ったどころか、公孫氏を討ち滅ぼしてしまったのである。著者の時代見識を疑われる書き方である。

 続いて、またもや、太平楽な光景が画かれるが、なぜ「楽浪郡の産品」ばかりが取り上げられるかわからない。少なくとも、貿易の船舶往来では、産品が双方向に運搬されるものであり、これまた意味不明な書きぶりが不信を誘うのである。

 いや、この文は、「想像できる」と結ばれているから、個人の感想なのだろうが、さらに、四世紀に「応神帝」の時代の日本で見られる船を予知していたと言うが、個人の感想であれば、何を書いても良いというわけではない。この本は、商用出版物であり、断定口調のタイトルで読者を誘い込んで、金を出させようというのである。魔術(イリュージョン)では困る。

 続く文が「タイムスリップ」と書き出されているのは、失笑するしかない。この段落の記事は、238年の視点で書かれているはずだから、208年の事件は、回想の範囲であって、別に、時代錯誤の空想を仕掛ける必要はない。何か、著述の視点が混乱しているのではないか。(初回公開時書き漏らしたが、著者に「タイムスリップ」ができるのであれば、仮説提示などしなくても、全篇タイムスリップして、歴史の現場を実地確認して書けばよいのである。)

  つまり、古代史書に場違いな、時代錯誤の空想談は勘弁して欲しいのである。著者が夢想しているのは、劇画か映画/テレビドラマの「演義」像であれば、まじ めな読者の不信感を買うだけである。筆者は、個人的な夢想談を書き上げているのだろうか。それであれば、ご勘弁いただきたい。

 それにしても、PHP新書は、編集も校正もなしに、著者原稿のまま「書いて出し」しているのだろうか。ちゃんと編集・校正したら、無駄口や誤解を刈り取って、1/3ぐらいの誠実な、読み応えのある書籍になっていたはずである。
 これでは、商業出版物として信用して買っている読者に失礼というものである。
 また、著者には、中身を読んで苦言を呈してくれる僚友はいないのだろうか。大半の書き損ないは、原稿段階で削れるはずであり、ここまで赤の他人が、いやな思いで素人考えを連ねて批評しなくても良いのである。

 書いていて切なくなる批評である。

 いやいや、当ブログ筆者は、別に購入した読者でなく、また、著者の上司でもなければ、学問の師でもないので、何を言っても無視していただけるのであるが。

以上

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コメント


 ご丁寧なご返事、まことに痛み入ります。

 ご主旨は商業本の課題であることは十分に理解できますし、川船と海船と言う違いの部分は
 本論で無いのは良く分かっております。
 本論についての分析や論理性は、本当に、その通りで、現在は、いい加減な古代史が
 邪馬台国の混迷などもあり、巷に溢れていると、私も憤りや情けなく感じています。


  船については私は「川船に毛が生えたもの」と言いましたが、貴方様が述べた改善程度の
 ものくらいの意味で、述べたものです。
 当時は、中国の船は多くは川船の製造で、これらが赤壁の戦いなどで使われたと思います。
「南船北馬」という文句は陸上の交通を述べたもので、この点を補うものだと考えております。

 ですから、三国時代の海洋交通は、川船の構造に改良を加えてはいるが、沿岸航行と違い、 相当に難しかったのではないかと思案しています。

 ですから、当時の呉国が、沿岸で行ける海南島は行き来しよく知っていたが、現在の台湾をほとんど知らなかったのは、このような背景があったと思われます。「三国志」にも台湾は出てこない。
 東方なら、台湾も当方だが。

 おそらく、朝鮮半島から日本列島の間は、対馬や壱岐島など小島があったので、当時は
 渡れたけど、台湾と中国本土の間は最短で120キロメーターほどありますが、この間には島も無く
 まともには、当時は渡れなかったようです。難破船はたどり着いたようですが。
  当時は、この間には大きな潮流が流れていたことは、木華だったかなの「海ふ」から
 もよく分かりますが。

 ですから、三朝間も、直接に黄海をまっぐに過って行くというよりも、安全を見て、ほとんどが沿岸航行だったのではないでしょうか。

  三国時代の海洋交通は、この程度と考えている次第です。

 今回は楽しくブログを拝見させていただきました。 ますますのご発展を祈念しております。
   

 福島健様
 貴重な時間を割いて、コメントを提供いただき、まことにありがとうございます。
 当方の趣旨は、「商業出版物で自説を滔々と述べている著者が、長江の川船が遼東攻撃の海戦の軍船に易々と転用されたとでもいうように書き飛ばしている」のに一矢報いたものです。
 以下、現代語混じりで恐縮ですが、当方の意見を述べます。
 山東半島付近と朝鮮半島西岸(以下、山朝という)を往来する海船は、それまでの平時にも山朝交易に多用されていたものと思います。
 山朝の航海は、沿岸航行に近い航行とは言え、途中に黄海航行が挟まれているので、川船では想定されていない強固な船腹が必要であり、勅令で沿岸諸郡に造船を指示する以上、それは、海船となります。
 まずは、海船は、例えば、おそらく、荒天に備えて甲板を備えていたものと思います。また、漂流に備えて、相当量の飲料水と非常食を積み込んでいたはずです。直接は船体構造に関係しませんが、海船が大型化される背景となります。
 また、海船は、荒天に備えると共に、船虫による蚕食に耐える船殻の厚さが必要であり、相当強固な船体「構造」を備えていたものと思います。船体構造と言っても、竜骨や防水隔壁までは備わっていなかったとしても、船荷を失い、船員を失う難船の可能性は、山朝の短い航行でも、河川航行や沿岸航行に比較して膨大なものがあります。
 当時は、造船に関する工業規格はないので、明確な差は文書化されていなかったでしょうが、長年の経験で、海船に対する造船技術の安全基準は、出来上がっていたものと思います。
 ただし、内陸水路の航行や沿岸航行は、川船でも用に耐えていたと思われるので、川船も大いに活用されたでしょうが、だからといって、海船として、川船に大差ない構造の船が用いられていたとは考えにくいのです。もちろん、沿岸諸郡が、わざわざ長江川船仕様で、新造船に応じたとも思えないのです。
 当方は、全くの素人なので、テレビ番組や書籍による耳学問ですが、物事はそんなに簡単ではないという人生訓に従って、以上のように推定しています。
 と言うことで、お説に全面的に反対するものではありませんが、自説を否定する仮説としては賛同できません。
 ここまで書いてしまってお説を再読すると、青洲の内陸部の川船で(水路開鑿無しに)海洋に出たと言うことですから、当時、青洲では、海洋航行に耐える川船を、内陸の河川航行に常用していたと言うことではないでしょうか。
 そうすれば、山朝交易の際に海船への船荷積替えが必要ないので大変便利になります。また、普段は淡水航行と言うことであれば、その間に船虫を駆除できるので、船殻の寿命が大幅に延びるわけです。
 こうしてみると、ご紹介いただいた記事は、まことに味わい深い史料と思います。このように、僅かな文字数でも、よくよく読み込んで噛みしめて吟味すれば、「現場」の光景が見えてくるように思います。
 もっとも、この点は、当記事の問いかけである、「余りに軽率」な単純化という論点には影響しないと思います。商業出版物として、他人様の財布から貴重な「金子」をいただこうというのですから、「商品」の信頼性向上に努め、余談に字数を費やすより、本筋の記事を、念入りに自問自答して推敲して欲しかった(手厳しく言うと、職業人の最低限の責務である)というものです。
以上

書評における分析と客観性のある内容は大したもので、その通りだと思います。

 但し、「志明帝紀に依れば、曹魏明帝は遼東攻めに先立って、沿岸書軍に造船の指示を出したと言うが、それは当然、海船である。川船とは別物であることは言うまでもない。」の箇所ですが、
 川船とは別ものと述べていますが、

 「三国志」には、将軍○○(名前は覚えていません)が、内陸で船を集め青洲から渤海国、すなわち内陸の運河や川を使い経て黄海に出たと記しており、船は川船に毛が生えたもので、沿岸だけを航行できるものと 思います。
 当時、明確に川船と海船の差は余り無かったと考えた方が良いと思います。

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