私の意見 魏朝景初暦異説考 「明帝の景初三年」はなかった(のではないか)? 3
2016/07/26
承前
参考資料
(無料で利用可能な)三国志原文では意味がわからないとの意見があるので、急遽、筑摩書房世界古典文学全集の24 A,B,Cの正史三国志ⅠⅡⅢ(日本語訳)、(以下、筑摩三国志という)を購入して、できるだけ並行して参照するようにした。
但し、当然の理屈として、筑摩三国志に込められた理解に依存して所論を展開するのは、少なくとも、筑摩三国志の解釈に依存することでもあり、時として、正史の解釈を誤る可能性があることに留意して戴きたい。
いや、「依存」して仮説を立てても、そこからまっしぐらに結論に飛びつかなければ良いし、併せて、自説に酔って、性急に自画自賛して異論(異教徒、異宗派)を排除しなければ良いのであるが。
いや、当方は、筑摩三国志の訳業を成し遂げられた今鷹真、小南一郎、井波律子の三氏に誤訳があると言っているのではない。
また、筑摩三国志は、空前、そして、残念ながら絶後の偉業であり、「現代文化資産」に計上すべきものと思うのだが、それはそれとして、翻訳とは、原文解釈によって、その意を察して、古代史に関しては表現に限りある現代日本語によって記述するものであるから、いかなる手段を尽くしても、幾ばくかの不確かさを伴うのが避けられないと言う普遍の真理を復唱しているのである。
近来の、言葉に無頓着な俗書籍に比べて、用語の時代錯誤は可能な限り避けられているが、所詮、当時の中国語は、今日の日本語とは、別時点、別文化背景の言葉であるから、不整合は絶無とは行かないのは、仕方ないところである。
現に、筑摩三国志には、「景初二年(二三七)六月、倭の女王は、大夫の難升米らを帯方郡に遣わし、天子に朝見して献上物をささげたいと願い出た。」とあるので、日本書紀の「(明帝)景初三年」は、単純な誤記と確認できるのではないか。
それとも、論客の意に沿わないものは、排除するのだろうか。もし、そうなら、その論客は、史料批判の名を借りて、個人の持論を押しつけているであって、それは資料に基づく考察ではないのである。
人それを、ダブルスタンダードという。
以下、極力忠実に資料を引用しているが、だからといって、当プログ筆者が、筑摩三国志に全て賛同しているとは限らないことをお断りしておく。時に異議を挟む権利を留保したい。
また、こうした引用資料の常として、誤記や脱落が絶対ないとは保証できないことをお断りしておく。
-記-
明帝紀:
景初元年春正月壬辰,山茌縣言黃龍見。茌音仕狸反。於是有司奏,以為魏得地統,宜以建丑之月為正。
景初元年(二三七)春正月壬辰の日(十八日)、山茌県から黄龍が出現したと報告してきた。このとき担当官吏が上奏し、魏は地統を得ているゆえ、建丑の月を正月とすべきだと主張した。
三月,定歷改年為孟夏四月。
三月に暦を改定し年号を改めて孟夏(初夏)四月とした。
魏書曰:初,文皇帝即位,以受禪于漢,因循漢正朔弗改。
〔一〕『魏書』にいう。そのむかし、文帝が即位して、後漢から禅譲を受けたとき、漢王朝の暦に従って改定しなかった。
帝在東宮著論,以為五帝三王雖同氣共祖,禮不相襲,正朔自宜改變,以明受命之運。
明帝は太子であったころ論を著述し、五帝三王は同一の霊気を有し先祖を同じくする(黄帝を先祖とする)とはいっても、互いに礼を踏襲することはない、したがって、暦は当然改変し、そのことによって受けた天命がいかなるめぐりあわせに当るかを明らかにすべきだと主張した。
及即位,優游者久之,史官復著言宜改,乃詔三公、特進、九卿、中郎將、大夫、博士、議郎、千石、六百石博議,議者或不同。
帝に即位するにおよんで、のんびりとそのままの状態にしていたので、史官がふたたび暦を改定すべきだとはっきり申しあげた。そこで、三公・特進・九卿・中郎将・大夫・博士・議郎・千石・六百石に詔勅を下して、広く論議させたが、意見が一つにまとまらなかった。
帝據古典,甲子詔曰:「夫太極運三辰五星於上,元氣轉三統五行於下,登降周旋,終則又始。故仲尼作春秋,於三微之月,每月稱王,以明三正迭相為首。
明帝は古典に依拠し、甲子の日(三月二十六日)、詔勅を下して述べた、「そもそも、太極(天地を生み出す根源)は、上に三辰(日・月・星)と五つの惑星を
めぐらせ、元気(太極に含まれる根源的エネルギー)は、下に三統と五行(木・火・土・金・水の五つの元素)を転回させて、上下させ循環させ、終ればまた
〔元に戻って〕始まる。だから孔子は『春秋』を作ったさい、万物がめばえる月において毎月『王』と称し、夏・殷・周の三代の正月が、かわるがわる年の初め
となることを明らかにしているのである。
今推三統之次,魏得地統,當以建丑之月為正月。考之羣藝,厥義章矣。其改青龍五年三月為景初元年四月。」
いま三統の順序を推しはかると、魏は地統にあたるゆえ、建丑の月(十二月)をもって正月とすべきである。このことを諸経典とてらしあわせて考えれば、そのたてまえは明確にあらわれている。よって青龍五年三月を景初元年四月と改める。」
服色尚黃,犧牲用白,戎事乘黑首白馬,建大赤之旂,朝會建大白之旗。
衣服の色は黄色を尊び用い、犠牲には白色の獣を用い、軍事用には頭部が黒の白馬に乗り、大きな赤い旗をたて、朝廷の会合には大きな真白の旗をたてた。
未完
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