私の意見 魏朝景初暦異説考 「明帝の景初三年」はなかった(のではないか)? 2
2016/07/26
承前
7.旧暦復活
さて、齊王政権の初期の決定事項として、景初暦を廃して青龍年間まで行われていた暦制に戻し、従って、景初三年二月を太始元年正月とし、景初三年正月を景初二年12月(後12月)とする改暦を行ったとされる。
これにより、先代皇帝の「命日」(現代日本語)は12月1日となり、目出たかるべき正月元旦に先帝を供養する不都合が避けられたというのである。ただし、附記明帝紀引用のしたように、明帝の改暦改元が、堂々たる威容を以て書かれているのにもかかわらず、逝去するやいなや、 すかさず、先帝の意志に反する(逆)改暦が公布され、それに伴う記事は、そのような改暦に相応しい大義名分を伴わず極めて簡略であるたと言うことは、異様なものが感じられるように思う。
あるいは、元々、明帝による暦制変更には、史官を含め、政府高官に反対が大変多かったことの表れのよう に見える。あるいは、明帝による暦制変更を強行させた『太史』などの関係者は、更迭されていたと言うことのようにも思えるが、魏略の編者である太史魚豢の処遇などは、記録されていないので、不明である。
8.「明帝の景初三年」はなかった(か)?
くれぐれも、あわてて「景初三年」はなかった、と読まないように。
と言うことで、正史の記事を信頼する限り、景初年間は、景初二年の後の12月で終了していて、景初三年は、存在しないことになるとの勝手読みを否定しきることはできないように思う。
ただし、そんなに簡単に、一旦開始した年をなかったことにできたかどうかは不明であり、一部には、そのような取り扱いは魏朝内部のことであり、民間では、後々まで景初暦が通用し続けていたとも言われる。
まして、先帝は前年12月に世を去って、年が改まって新帝が即位しているのであるから、景初三年を「明帝景初三年」と呼ぶことは「軽率」と感じる次第である。
9.日本書紀編者の軽率
以上のように、丁寧に追いかけると、一見、正史に書かれている景初三年は確実に存在したかのように見えるが、元来僅か一か月
だけであり、それすら、新帝即位と共に改元と暦制変更が施行されて景初二年に押し戻されたようなので、「明帝の景初三年はなかった」と見る事も考えられる
というべきである、と言う主張も、取り上げた明帝紀、斎王紀などの魏志資料の範囲では否定しがたいのである。
つまり、日本書紀の(別の?)編纂者は、三國志明帝紀の字面か ら適当に引用しているものの、編纂者全体として、こうした暦制の変化については、全く理解できていなかったという批評であり、斯界の最高権威たるべき正史 編纂者に相応しくない、不用意な態度と非難してもよいとみるのである。と言うものの、誹謗、中傷するほどのものでなく、軽率と叱りつける程度である。
先賢によれば、「晋起居註」は、日本に将来されていたようであるが、起居註は、その一年が終わってから編集され、然るべき高官の決裁を得てから配布される のであり、少なくとも、その翌年にならないと発行されないものであるから、当の使者が購入、帰国できないことは明らかである。
この事跡に限らないが、国内史料に、遣使の事実が記載されていないのは、不可解である。
「六十六年 是年。晉武帝泰初二年。晉起居注云。武帝泰初二年十月。倭女王遣二重譯一貢獻。」と書いているが、泰始(泰初)二年の起居註は、単年度版と見れば泰始三年の発行である。
舊唐書に(劉宋)宋 劉道會撰「晉起居注」三百二十卷とされているが、余りに大部であるので、多分、将来されたのは、武帝年間の分冊など20巻程度であったと思われる。劉宋に至るまでに、西晋壊滅の事件があったが、諸資料根こそぎ喪失という事態では無かったようである。
それにしても、神功記の六十六年が、晉武帝泰始二年に相当するというのは、晋起居註の記事ではないので、書紀編者の見解であり、裏付け史料は見当たらないようである。
ちなみに、晋書武帝紀には、「(泰始二年)十一月己卯,倭人來獻方物」とあり、一か月ずれているが、書紀の誤記かどうか不明である。
10.お断り
さて、言うまでもないが、以上は、当ブログ筆者が、三國志の明帝紀と斎王紀の記事を読んで、極力先賢の高説を頼りにせず、その範囲で自力で解釈した意見なので、自分なりに最善を尽くしたとは言え、これが絶対正確というものではない事はお断りしておく。
また、話の運び上、当分野の諸兄には自明のことまで、得々と説き立てていることは、ご容赦いただきたい。何しろ、どこまで自明、衆知なのか、よくわかっていないものの意見なのである。
いや、高名博識な裴松之ですら、豊富な資料を漁り尽くしても、景初暦についてはよくわからないと首を振っているのだから、遙か後世の素人には、こうではないかと、あて推量することしかできないのである。
史料解釈が揺れ動いている状況で、一段と、簡単に他人の主張を排斥するものではないと言うことだけでも理解いただければ幸いである。
もちろん、素人の浅知恵で騒いでいるのかも知れない。当方は、「グシャ」(愚者)かも知れないが、詐欺師でもなければ嘘つきでもない、これは断言しておく。
以上
未完
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