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2016年7月28日 (木)

私の意見 魏朝景初暦異説考 「明帝の景初三年」はなかった(のではないか)? 1

                                                                2016/07/26
 根拠薄弱な自説を書き連ねる「倭人傳の散歩道」の記事のタイトルに対して、手厳しい批判が寄せられたので、断定表現のタイトルを訂正すると共に、個人的論評と題して、別系列、別の位置付けの記事として公開するものである。

 とは言うものの、折角、恥を忍んで、考察に向いた課題を提起したのに対して、真っ向から、筋の通った議論が聞けなかったのは、残念である。 

 1.太陽暦と太陰太陽暦
 以下、太陰太陽暦を太陰暦と短縮略称するが、単純な太陰暦を論じているのではないことは理解戴きたい。
 古代ローマ(共和制)の時代に、太陽暦であるユリウス暦が施行されて以来、途中、閏年の回数について改善されたグレゴリオ暦に切り替わったものの、太陽暦としての基本構造は、一年365日、ただし、閏年あり、と言うルールであり、計算しやすいので、現代は広く行われている。
 これに対して、太陰暦は、月の満ち欠け(朔望)を1カ月としているので、概して言えば、19年に7回、13カ月ある年を造って、1年365日に近い運用で、季節のずれを軽減している。
 従って、例えば、魏の景初二年が西暦何年に相当するというのは、極めて大雑把な言い方であって、いわば景初二年が閏月のある年であるならば、その一部が、ほぼ確実に西暦何年の365日からはみ出しているのである。いや、年によっては、西暦の365日が太陰暦の一年を呑み込んでいるときもあることだろう。要は一年対一年で一致していないと言うことである。

 一々暦を計算して書き出すのも面倒だと言うことなのだろうが、こうした食い違いは計算誤差などと言うものでなく、単に古代「暦」論者の怠慢なのである。

 では、國の異なる太陰暦同士で、月日が一致していたかどうかである。
 一方の、先進の國が交付した暦を他方の後進の國が忠実に実施していれば、一致するだろうが、特定の時点では、後進の國に、暦どころか文字を持たず、日々の干支を知らず、また記録できず、暦の実務に不可欠な天体観測もしていないとすれば、後進の國には、暦が無いのである。

 後年、先進の國の暦を知り得てから、遡って記録を『復元』せざるを得ないが、その際、先進の國の諸資料を利用すれば、先進の國の暦制が転写されるというだけである。

 少なくとも、曹魏明帝の時代、後年、日本と呼ばれることになる地域には、文字も暦もなく、文書記録は残っていなかったのであるから、後代資料で一致すると言っても、それは、はるか後世人たる編者が、一致するように後代資料を書いたと言うだけのことであるように思える。
 これは、当ブログ筆者の私見であり、従って当ブログの「ポリシー」であるから、誰かの意見でそそくさと撤回すべきものではなく、自身の意見が変わらない限り、変わらないものである。 

 2.太陰暦の運用
 太陰暦を実施するに際しては、19年に7回の閏月をどの年のどの月に置するか、それでなくても、毎月の大の月と小の月をどう組み合わせるかで、月々の日々と24節気で表される季節推移のずれを緩和するなどの効果が異なるので、毎年毎年取り扱いが変わるものであり、暦の専門家以外には、翌年の暦を確定できないものとなっていた。

 つまり、暦をどのように決めて、それを広く公布すると言うことは、国家権力の現れになっていたと思うのである。

 3.景初暦の始まり
 さて、問題の景初三年であるが、景初年間は、独特な暦制が施行された年間であり、これは、魏書明帝紀に明記されているように、関係資料を読み進めれば、当然理解を迫られる事項なので、いわば衆知の事項と思うのだが、素人の特権で、一席ぶたしていただくことにする。

 明帝紀景初元年記事として、青龍五年になるはずだったこの年の三月(いや、青龍五年二月か)、魏帝曹叡は、青龍を景初に改元すると共に、新たに、この月を新元号景初の四月とする景初暦と呼ばれる暦制を公布した。「其改青龍五年三月為景初元年四月。」

 4.移行期の混乱
  ここで戸惑うのは、この項が景初元年春正月と書き始められていることであるが、景初暦を遡及させて適用すれば、これは、旧制で青龍年間であったはずであり、案ずるに、青龍は早々に終わり、続いて、改暦、改元の詔勅以前に、景初元年正月となることが、魏朝内部では公式か非公式かに行われていたものではないかと思われ る。
 いや、これだけでも、現代人は頭がこんがらかってくるのである。

 5.「烈祖明帝」願望
 因みに、魏朝皇帝曹叡の 改元の抱負は、曹操を太祖武帝、曹丕を高祖文帝とし、創業の徳を受け継いだ曹魏第三代皇帝たる曹叡は、烈祖*帝(諡は未定だが、明帝を希望していたかも知 れない)となって、創業三代それぞれが霊廟を持ち、曹魏が続く限り永代尊敬されることを望んでいて、それにふさわしい偉業として、後漢の後継王朝でなく画 期的な創業王朝として、相応しい暦制の施行を図ったもののようである。

 曹叡は、現代風の満年齢で言うと30歳を前にした血気盛んな若者であり、 それこそ、二,三十年は頑張って、天下を統一拡大して、天下太平とし、引き続き、封禅する前提であったと思われ、数年後の夭逝は、当然ながら想定していな かったのである。
 と言うものの、祖父、父と並べての『烈祖』生前自称は、当代皇帝として、不孝、不遜というものではないだろうか。

 6.景初暦の終わり
 さて、景初暦の終わりは思いがけなく早かった。
 景初二年12月、と言っても、この年は、11月に閏月があったようだから、実際は「13月」なのだが、その月の初旬に魏帝曹叡は発病し、病臥のままで翌年正月の一日になくなったのである。
 当時の数え年齢では、一月に亡くなるか、12月の内に亡くなるかで、一歳の違いがある。

  裴松之注によると、魏朝の建前では、大行皇帝曹叡は、景初二年12月(後12月)に亡くなったのであり、魏の武帝(曹操〕が建安九年八月に鄴を平定したと きに、文帝(曹丕)が(大敵袁紹の次男袁凞の妻)甄后をはじめて納れたのだから、大行皇帝は建安十年に生まれたはずであり、計算すると34歳で亡くなった はずである。暦制の関係で、建安十年に生まれ35歳で亡くなった可能性もある、と言うことであるが、それでも、明帝の生年を考証して追いかけた年齢と一年 の差異があると、裴松之が首を傾げているのである。

 陳壽や裴松之の書けないことを後世人の特権で推定すると、一つの解として、明帝は、建安九年に生まれたのであり、従って、袁凞の子であって、曹丕の実子ではないことになる。

 曹丕が、後漢朝の禅譲を受けて、新王朝魏の創業者皇帝として即位しても、甄后は、皇后として立てられず、嫉妬深いことを理由として誅殺されている。母を殺された曹叡が、密かに皇帝を恨んだとしても、不思議はない。

 それはさておき、大行皇帝曹叡の葬送が終わらぬうちに、新帝が率いる魏朝の建前で改暦と景初三年正月のずらしを言い立てていながら、続く齊王紀では、「景初三年正月丁亥朔」--「即皇帝位」と書かれていて、ここでも、頭が混乱しそうである。

 もちろん、素人の浅知恵で騒いでいるのかも知れない。当方は、「グシャ」(愚者)かも知れないが、詐欺師でもなければ嘘つきでもない、これは断言しておく。

未完

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