私の意見 「魏志倭人伝に見る春秋の筆法」サイト記事批判の試み
今回の題材は、下記サイトの記事であるが、「管理人」から批判を依頼された感じなので、頑張って、書き募ったものである。
冒頭部分を引用すると次の感じである。以下、ベストアンサーとそれに対する管理人さんのコメントが掲載されているが、ここでは割愛した。
「魏志倭人伝」の「景初2年」と「邪馬壱国」
「中国史書 邪馬台国」で検索すると、2番目に、「閲覧数:3,492 回答数:9」とある、
次のような「ヤフー知恵袋」の質問とそのベストアンサーが載っていました。
「邪馬台国のことが書かれた中国の歴史書は何ですか?」 2011/6/24 16:03:54
サイトで全文引用されている問答自体は、(「回答」と題して展開される論説の「余談」に近い脱線ぶりは別として)質問に対する回答として特に非難すべき点はない(度を過ごしていると思えば、ベストアンサーに選ばなければ良い)と思いますが、気になるのは、ここで「管理人」が難色を示して、サイトに引用掲示し論難している点であり、当ブログの見当違いの記事に対するコメントで、「景初二年遣使」仮説に対する見解を公開したので、として当方の意見を求められているので、ここに、誠意を持って意見するものです。
率直に言って、論旨とその前提が簡単に読み取れないので、大変困らされるものです。
まず、引用記事の質問は、歴史書名を問われているので、これに対する回答は端的で良いと思うのですが、ベストアンサーに選ばれた回答は、当然ながら、三國志に「邪馬臺国」(邪馬台国)はない、定説は間違い、という史料批判に始まって、「定説」による魏志倭人傳の誤記訂正に対する(自発的)反論が始まり、言うなら、本筋を外れた自問自答めいた文句が脱線状態で続いている次第です。
そして、魏志倭人傳に景初二年と明記されているにもかかわらず、定説(俗論)は、自明な誤記として排除しているのは、何か、具体的に問題があって、景初二年説が排除されているのかという仮想的な問いに対する回答が、「長大」な回答文の最後になっているのです。と言うことで、言うならば、脱線続きの回答の果ての迷言であり、ここに噛みつくのはどんなものかと感じます。
つまり、「景初二年で全く問題ありません」とは、景初二年説には仮説として問題となる点がないから排除したらダメだ、と根拠のない予断に黒々と煮染められた俗論の非科学的な態度を批判しているものであり、「景初二年が絶対正しい」と、別の予断を持って景初三年を否定する非科学的な態度をとっているわけではないのです。
ベストアンサー自身が明言しているように、「仮説は結論ではない」のです。
一般論として、質問者と回答者の問答に横合いから第三者が口を挟むのか好ましくないのは、回答の文脈から切り離された片言に対する攻撃(揚げ足取り)になっていろいろ具合が悪いと言うことが通例だからです。
「管理人」さんにベストな対応としてお勧めしたいのは、ベストアンサーの用語に噛みつくのではなく、自分なりにベストアンサーを越えるベリーベストアンサーを書き上げて、質問者に提示することではないかと思います。
頑張って、全文引用までした管理人の論難(激怒)の趣旨を推定してみると、そもそも、質問の回答の形を借りた論説展開であり、特定の学説の普及を図った「ステルスマーケティング」ではないかと憤っているようにも見えますが、表面上は、芸のない揚げ足取りのように見えています。
主旨としては、倭国使節の京都洛陽到達時に使節の皇帝謁見を上申した司馬懿は洛陽未帰還、不在であり、皇帝の制詔を伝える手配もできなかったのではないか、おかしいではないかとの設問と読み取れますが、それは、ここで行われた問答の埒外であり、別途想定される景初二年説と景初三年説の論争対峙の際に提示されるべき論点の一つとなり得るかという程度の軽微些細な事項の指摘と思います。
思うに、景初二年説と景初三年説のいずれの仮説を取り上げても、当該仮説の全面否定には、その論拠をことごとく絶対否定することが必要であり、とても、人間業ではないと思います。まあ、元々の質問からここまで離れているのでは、関連質問として論議するのがおかしいのですが。
最後は、形式上質問文になっていますが、文意が通らない不明瞭な文になっている点は別としても、そもそもが場違いな捨て台詞であり、大変悪い印象を与えています。ベストアンサーにこの質問が届いたとしても、「主張していないことに対して質問されても、回答の義務はない」と無視されるべきものです。質問形の捨て台詞は、論議をかき立てたいという際には、どちらかというと禁句に近いものであり、むしろ。私見を吐露する断言調で論難していれば、まだましです。
わざわざ批判の機会を与えていただいたことに感謝します。
以上
追記
1. 当ブログ筆者も、時として場違いな論議をすることがあるので、えらそうなことは言いにくいのですが、それを気にして批判を「遠慮」しては、率直な批判にならないので、気にしないことに決めています。
2. これは、単なる感想ですが、引用されている曹魏明帝の臨終時の言葉は、あまりに劇的であり、ほんまかいなと首を傾げるものです。
三國志の読者であれば、誰でも、白帝城での蜀漢皇帝劉備の臨終の際の丞相諸葛亮に対する言葉と対比すると思うのです。つまり、皇太子が皇帝に相応しくないと思ったら、君が皇帝となって国を支えてくれとまでいわれながら、最後まで丞相の分を越えなかった諸葛亮に対して、幼帝曹芳を父親代わりに補佐してくれと頼まれたにもかかわらず、曹魏の最高権力者として帝國を壟断し、ついには、司馬氏が曹魏を横領して中原王朝を司馬氏の私物化してしまう流れを作った司馬懿であり、その対比は、ある意味あからさまに、司馬氏に対する(熾烈な)非難になっているように思うのです。
これは、史家陳寿の真骨頂(この記事が原因で斬首されても、正史として残れば、史官として本望である。悔いはない)の吐露と感じます。
3.言うまでもありませんが、当方は、当該質問とベストアンサーには全く関係のない局外者です。
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村上通典様
当方コメントで、当方のブログ記事の枝葉にまつわりついて、「独創的な」自説を押しつける手際について、前便で苦言を呈しているので、再読ください。貴サイトで貴サイト記事の批判をしたのなら、貴サイトの(ローカルな)論理を踏まえて議論するのが「仁義」と言うものでしょうが、ここは小生の小ブログなので、布教活動はご遠慮戴きたいのです。
事のついでとばかり、当方の議論を『粗雑』だと批判されていますが、推測の表明を粗雑と言われたら、およそ、「古代史業界」に飛び交う議論の90%以上は粗雑と評価されるでしょう。不確かな史料の自己流解釈を禁じられたら、何も言えません。
こうしたお互い様の粗雑さについて、特にご意見を承る義理はありません。
そもそも、原点に戻ると公的史書の編纂にあたるものが、引用原典の正確な引用ができず、王朝の大義名分に関わる記事時点の当代皇帝の生死について、間違えていることは、単なる、誤記であって合理的な弁明の余地はないと思います。
当方が、正史の写本云々と、編者の素人くさい逃げ道(言い訳)を用意したのに対して、当人の事情を知らない第三者がとやかく言うのは不適切です。
貴兄が繰り返している反証というか、批判の根拠として推測し、提示されているのは、編者が、別の部分の抜き書きを手元に持っていたとしても成立する意見であり、その部分の編者が同一人物と証するには不十分であり、同一時代の書き込みと言うことすら保証されず、書紀原本編纂の際、編者は「正史写本(全巻)を参照していた」との証拠になどならないのは言うまでもないと思うのですが。繰り返しになりますが、古代史学は、『一説』の提示が大半であって、それを以て定説を排除する力を持たないのが大抵です。
まあ、道草、枝葉の議論は『かも知れない』で締めるとしても、上記した元々の論点は、健在です。
そもそものそもそもは、古田氏の指摘は、そのように一理ある論説と見えるのですが、貴サイトでは、貴兄の個人的な嗜好に大いに反しているとの趣旨なのでしょうが、「独創的」な自説を絶対視して、第三者に累を及ぼす暴言まで賑々しく公開しているのを、「それは御損ですよ」、とたしなめる主旨だったのです。以上は、個人的な嗜好ですから、表だって押しつけるものではないので、気づいて戴けるように色々といていたものです。
他人が何を言おうと、天に恥じない正義の論難だというのなら、これもまた、個人個人の好き好きと言えるかも知れませんが、私見は、その程度の不確かな論拠で「嘘つき」と言い募るのは、健全な批判ではないよ、と窘めているのです。論議に説得力があれば、淡々と書き綴られていても、天下に認められるものです。
ここまでの議論は、脇道に逸れていくばかりなので、当ブログのコメント対話は、お開きにしたいものです。批判は批判として受け止めますが、話の成り行きで、時には、人まねで受けを狙って転んでみせることもあるのです。
引き際は、貴兄にて判断してください。
投稿: ToYourDay | 2016年7月27日 (水) 14時37分
ToYourDay 様
「万代に語り継ぐべき倭王の名」 http://www.geocities.jp/yasuko8787/150310.htm
の「景初3年=西暦239年を割り出すための資料」に引用しているように、年号に関する資料が揃ってなければ、景初3年=西暦239年は割り出せません。
これとは別に、小生は、岩波の「日本書紀」に基づいて、年表を作成し、年100歳の神功皇后の紀の年代は、200を加えると西暦に一致することを割り出しました。
この法則によれば、神功39年は西暦239年に相当することになります。
ここで問題になるのは、神功紀が「39年。是年、太歳己未。(以下小文字)魏志に云はく、明帝の景初の3年の6月、……」と、魏志倭人伝の「景初2年の6月」を書き換えていることです。
日本書紀が各天皇の元年を「太歳干支」で表していることから、この書き換えの意図は、天皇家の元祖である親魏倭王卑弥呼の元年を正確に伝えることにあります。
それはさておき、神功39年の条に景初3年の記事を引用していることは、景初3年が西暦239年に相当する年であることを、書紀の編者が正確に把握していたことを意味します。
それゆえ、「(神功)40年。(以下小文字)魏志に云はく、正始の元年に、……。「(神功)43年。(以下小文字)魏志に云はく、正始の4年に、……。」とあることからも、「書記編者の手元に魏志当該部分の写本はなく、……」というとらえ方は、粗雑といわざるを得ません。
なお、参考までに書き添えれば、岩波の日本書紀には、欽明32年4月15日の「天皇、寝疾不予したまふ」に関して、「魏志、明帝紀、景初2年12月条に「帝寝疾不予」とある。不予は天子の病気をいう。」とあり、
「駅馬……」に関ししては、「以下は景初三年正月条の文「太尉宣王還至河内。帝駅馬召到、……」による。」とあります。明帝紀を見ずに、こんな作文が出来るでしょうか。
最後になりますが、「景初三年は、存在しないことになる。」とのご発言が、誤解に基づくものであることは、認めて頂けたのでしょうか。
投稿: 村上通典 | 2016年7月27日 (水) 11時26分
村上通典様
まず、当方のブログ記事が、論議の口切だけで、中身のない序章で終わっていることをお詫びします。ただし、当記事のコメント対話の一部ではないので、ご了解いただきたい。
さて、貴コメントに触発されて、景初暦について、いろいろ資料をあさっているのですが、資料収集に時間と費用がかかり、また、正史の暦制関連記事に不可解なものが多くて、つじつまの合う説明がつかないままに日数が経過しているものです。
さて、当コメント対話の流れでいうと、今回の貴コメントは、いろいろ高度な算術で、書記編者の脳内の成り行き(推定だけで、遺物も文献もなく、実証しようのないもの)を考察されていることがわかりますが、当方の考えでは、これらはすべて貴兄の個人的な思考実験であって、提示いただいた諸仮説の成否は判定不可能と思います。(賛成しないが、下記理由により、否定、批判もしない)
従って、当方の歴史解釈論議に利用するのは、謹んで遠慮させていただきたいものです。(他人の「所説」は、まずは尊重し、その趣旨を理解した上で、「丁寧に」批判しなさい、という古田氏の遺訓に同意していますので、貴兄の所論の核心部には立ち入らないように努力していますが、手元、足元が狂ったら、ご勘弁いただきたい)
当方の意見は、平凡そのもので、書記「明帝景初三年」記事に対する合理的、論理的な解釈としては、人名誤写以外の何物でも無い、単なるミスと考えます。案ずるに、当記事を担当した書記編者の手元に届いた魏志引用(簡牘?)がそのように書いていたとすると、編者にはそれを校正するすべがないので、とがめられないものと思います。つまり、書記編者(全体)の手元に、人名を校正するための根拠となる、倭人伝(少なくとも)全体の写本は無かったのだろうと言うことです。
これに対して、明帝は、明帝紀では景初三年正月、そして、少帝紀の改元、改暦記事に従うと、景初二年の後の12月に亡くなったと年月が変更されているので、これら正史記事を、書紀編者が史家の史眼で読んで、しかるべく考察していれば、景初三年は年頭から新帝の治世になっていたと読み取れるのであり、先帝明帝が冠された「明帝」+「景初三年」と言う書き方は、名分が通ら無いものであり、国史編纂者として不用意と言うしかないものと考えます。
国史編纂していてそんなことも知らんかったのか、と非難されても仕方ない不始末と考えます。たったそれだけのことです。
おそらく、ここでも、書記編者の手元に魏志当該部分の写本はなく、引用利用した断片的な抜き書きを書き取っていただけと考えます。
と言うことで、話の振り出しに戻ると、貴兄が、貴サイトで書紀編者の不出来な書きぶりに対する古田氏の批判に触発された反論で、方向違い(と見える)の論議を展開しその自己流の論議を根拠に、古田氏を個人攻撃しているのが、当方の不信を買ったところに始まっているのです。
正し、貴サイト関連記事で自己流の計算式による書記年代考を滔々と説いているのは、もともと貴サイトの基本方針と思われるので、当方がそちらに乗り込んでいって批判的に議論することは、はなから避けています。貴サイトは、貴兄の知的財産、ないしは、知的な縄張りであり、その全体像が理解できないままに、踏み込んで批判するものではないと考えたものです。そういうことで、他サイト記事の批判も、当方の縄張り内で、当方の方針に沿って批判しています。
従って、逆に、当方の議論に関わりない思考を前提に「お考えになった」、「ありえない」、つまり、そんなこともわからんのかと、丁寧に「自己流」思考方式を当ブログに押しつけるのは、ご勘弁いただきたいのです。
景初暦にまつわる疑問については、引き続き追いかけていきます。
最後になりますが、貴兄が良く言われる筑摩書房版三国志(中華書局版準拠)日本語訳の論拠引用を、単純に真似させていただくと、同書の倭人伝記事日本語訳には、「景初二年六月」と明記されているのですが、これは、書記記事の誤り、つまり、書記編者が依拠した引用資料の誤記を証するものではないのですか。
以上
投稿: ToYourDay | 2016年7月21日 (木) 12時45分
ToYourDay 様
前回は、「正史の記事を信頼する限り、景初年間は、景初二年の後の12月で終了していて、景初三年は、存在しないことになる。」とあったので、〔斉王紀〕の景初3年の記事を拾い出してみたわけです。
日本書紀の年代には色々仕掛けがしてあります。例えば、紀元前n年を- n、延長によって紀元前となった日本書紀の年代をY、実年代をXと置けば、年代延長式
Y=3X-831が成立すると仮定してみます。
すると、倭奴国王が後漢に朝貢し印綬を授かった建武中元2年X=57は、
Y=3x57-831=-660 すなわち、神武天皇が即位した紀元前660年になります。
次に、倭国王帥升らが、後漢の安帝に生口160人を献じた永初元年X=107は、
Y=3x107-831=-510 すなわち、第4代懿徳天皇即位の年、紀元前510年になります。
今度は、年代延長式をXについて解いた、X=(Y+831)/3 を年代復元式としてみます。
すると、箸墓伝説が載る崇神10年Y=-88は、X=(-88+831)/3=247.7より
西暦247年、すなわち、卑弥呼が死んで径100余歩の塚をつくった正始8年になります。
また、 第10代崇神天皇をほめてハツクニシラス天皇と称するとある崇神12年
Y=-86を代入すると、X=(-86+831)/3=248.3 より西暦248年、
すなわち、卑弥呼の宗女台与13歳が、倭の女王に立てられた正始9年になります。
ところで、景初3年が西暦239年に相当することを導き出すためにはどうすればよいかをお考えになったことはおありでしょうか。
もしそのことをお考えになったことがおありならば、神功39年を景初3年(西暦239年に相当)と捉えている書紀の編者が、景初3年正月1日に明帝が逝去したことを知らなかったなどとお考えになることありえないはずです。
投稿: 村上通典 | 2016年7月18日 (月) 22時39分
村上通典様
提示された部分引用を日本語文として解釈するとして、書かれているのは、襄平城の落城によって最終的に四郡がことごとく平定されたと言っているものの、帯方郡・楽浪郡がいつ平定されたか示されていないので、「「帯方郡・楽浪郡」はすでに6月に平定されていた」とする仮説と相容れないものではないと考えます。
ただし、言うまでもないですが、ここには、帯方郡・楽浪郡が事前に平定されたとは書かれていないのは言うまでもありません。
再三言いますが、仮説は結論ではないので、そのように取り扱うべきです。
投稿: ToYourDay | 2016年7月11日 (月) 09時45分
筑摩書房の『三国志Ⅰ』の「公孫度伝」には、次のようにあります。
「(景初二年)八月丙寅の日(七日)夜、長さ数十丈の大流星が、首山の東北から襄平城の東南に落下した。壬午の日(二十三日)、公孫淵の軍勢は総崩れとなり、〔公孫淵は〕子の公孫脩(しゅう)ともに数百の騎兵隊をひきいて包囲を突破して、東南に逃亡した。〔司馬宣王の〕大軍はこれを急襲し、ちょうど流星の落下した地点で、公孫淵父子を斬り殺した。城は陥落し、相国以下を斬り殺し、数千の首級をあげた。
公孫淵の首を洛陽に送りとどけ、遼東郡・帯方郡・楽浪郡・玄菟郡はことごとく平定された。」
この場合も、「帯方郡・楽浪郡」はすでに6月に平定されていたと読むべきでしょうか。
投稿: 村上通典 | 2016年7月 7日 (木) 02時04分