私の意見 魏朝景初暦異説考 「明帝の景初三年」はなかった(のではないか)? 4
2016/07/26
承前
参考資料
臣松之桉:魏為土行,故服色尚黃。行殷之時,以建丑為正,故犧牲旂旗一用殷禮。
禮記云:「夏后氏尚黑,故戎事乘驪,牲用玄;殷人尚白,戎事乘翰,牲用白;周人尚赤,戎事乘騵,牲用騂。」
〔二〕臣裴松之は考える。魏は五行のうち土行にあたるために、衣服の色は黄色を尊重したのである。殷の暦を用いて、建丑の月をもって正月としたために、犠牲や旗はすべて殷の礼を用いたのである。
「夏后氏は黒色を尊んだ。そのために軍事用には、(黒馬)に乗り、犠牲には黒色の獣を用いた。殷の人は白色を尊び、軍事用には、翰(白馬)に乗り、犠牲には白色の獣を用いた。周の人は赤色を尊び、軍事用には騵(腹の白い黑たてがみの赤馬)に乗り、犠牲には赤色の獣を用いた」と『礼記』(檀弓上)にある。
鄭玄云:「夏后氏以建寅為正,物生色黑;殷以建丑為正,物牙色白;周以建子為正,物萌色赤。翰,白色馬也,易曰『白馬翰如』。」
鄭玄は、「夏后氏は建寅の月(一月)をもって正月とした。〔黑を尊ぶのは〕物が発生するときの色が黑いためである。殷は建丑の月(十二月)をもって正月とした。〔黄を尊ぶのは〕物が芽生えるときの色が黄色いためである。周は建子の月(十一月)をもって正月とした。〔赤を尊ぶのは〕物が萌えいずるときの色が赤いためである。翰とは白色の馬である。『易』(贲卦)には『白馬翰如』とある」と述べている。
周禮巾車職「建大赤以朝」,大白以即戎,此則周以正色之旗以朝,先代之旗即戎。今魏用殷禮,變周之制,故建大白以朝,大赤即戎。
『周礼』(卷官)の巾車の職に、「大きな赤い旗をたてて朝礼を行ない、大きな白い旗をかかげて戦争におもむく」とあるが、これは、周が王朝の正式の色の旗を朝礼に使い、先代(殷)の色の旗を軍事に使っていることを示している。いま魏は殷の礼を用いて、周の制度を改変しているから、大きな白旗を朝礼に使い、大きな赤旗を軍事に使っているのである。
改大和歷曰景初歷。其春夏秋冬孟仲季月雖與正歲不同,至於郊祀、迎氣、礿祠、蒸甞、巡狩、蒐田、分至啟閉、班宣時令、中氣早晚、敬授民事,皆以正歲斗建為歷數之序。
太和暦を改めて景初暦と名づけた。その春夏秋冬、孟(四季の初めの月)、仲(四季の真中の月)、季(四季の終りの月)は、夏王朝の暦(すなわち現在の陰 暦)と異なってはいたものの、郊祀(天の神の祭)、迎気(立春・立夏・立秋・立冬の日に天子がそれぞれ東・南・西・北の郊外において四季の気を迎える儀 式)、釣(夏の祭)、祠(春の祭)、蒸(冬の祭)、嘗(秋の祭いずれも天子が行なう)巡狩(天子の諸国視察、三月に東方へ、五月に南方へ、八月に西方へ、 十一月に北方へ赴く)。蒐田(狩抓、春と秋に行なう)、分至(春分・秋分と夏至・冬至)、啓閉(啓は立春・立夏、閉は立秋・立冬)、年間行事の布告、二十 四節季が各月の何日に当るか、農業・課役など人民の生活に関わる事は、すべて夏王朝の暦の順序とした。
〔三〕臣裴松之は考える。魏の武帝(曹操〕が建安九年八月に鄴を平定したときに、文帝(曹丕)が甄后をはじめて納れたのだから、明帝は建安十年に生まれたはずであり、この年の正月までを計算すると、ちょうど三十四歳になるはずである。
当時暦が改定され、前年の十二月をその年の正月としているから、無理に数えると三十五歲ということはできるが、三十六歳にはならない。
齊王紀:
十二月,詔曰:「烈祖明皇帝以正月棄背天下,臣子永惟忌日之哀,其復用夏正;雖違先帝通三統之義,斯亦禮制所由變改也。又夏正於數為得天正,其以建寅之月為正始元年正月,以建丑月為後十二月。」
十二月、詔勅を下した、「烈祖明皇帝は正月に天下を見捨てられ、臣下や子供たちはいつまでもそのご命日の哀しみを抱きつづけている。それゆえふたたび夏王
朝の暦を使用せよ。先帝がとられた三統(夏・殷・周)の曆を循環させる方針にもとるとはいえ、これもやはり礼制を変更するに充分な理由である。また夏王朝
の暦は暦法において、天の暦と合致している。そこで建寅の月(北斗星の柄が寅の方角をさす月―一月)を正始元年正月とし、建丑の月(北斗星の柄が丑の方角
をさす月―十二月)を後の十二月とせよ。」
以上
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