私の意見 景初倭国遣使を巡る異説 6
2016/08/11
5.余談
*中和「古代国家」の実質
行政機構の整備された中国では、特に、魏朝の基礎を築いた曹操の治世下、地方機関から中央政府への文書提出は、定期報告の時期と所要日数、そして、緊急報告の所要日数が厳格に整備されていて、各街道には、定例報告対応以外に、緊急報告に備えて、替え馬や食料、水分の備蓄がされていたという。
これに対して、文書交信の出来ない後進の倭國では、このような重大な報告と提案を、筑紫から中和にどのように伝えて、中和の統治者が此にこたえて遣使対応を決裁、実行できるだろうか。
おそらく、このような規定外の、異例の事態では、筑紫の責任者、つまり、最高位のものが、自身で中和に乗り込んで統治者を説得しなければ、使節団を組織できないであろう。
それとも、筑紫の責任者は、中和古代国家の統治者の指示や許可なしに、自己裁可でで「国書」を書き出して「国王印」を押し、自己裁可で筑紫の国庫を開いてから献上物を出し、自己裁可で「国使」を人選し、自己裁可で国庫から国費を支出して派遣する絶大な権限を与えられていたのだろうか。
通常、独立した外交権を有し、独立した行政権を有し、独立した財政権を有するものは、統治者と呼ばれるのである。
*中国の窮乏
曹魏三代皇帝明帝の治世も末期である二年の景初年間は、長年の戦乱による軍事費負担に加えて、明帝特命による大々的な宮殿造営のために、人件費節減として官吏の俸給を半減、四半減させた上に、課税強化の方策に窮して、通常薄給故に免税とされていた下級官員、はては吏員にまで課税するなどの課税策、そして、(通いで動員できる範囲の)首都圏周辺住民の当年内に収まらず翌年に及ぶ長期間強制動員など、過去に例を見ない行政破綻、財政破綻の窮状にあった。(國志魏書
高堂隆伝 高堂隆および棧潜の上申に云う。つまり、生前の明帝は、諫言を目にしたが耳を貸さず、但し、これほど苛烈に諫言したものを殺さなかった)
明帝は、皇帝手ずから、工事の鍬を取る仕草を見せたというが、戦時の皇帝に相応しくない自らの悪政に目を向けず、天子として君臨すべき皇帝の手を汚す振る舞いで、高貴たるべき品格を傷つけただけであり、事態を悪化させたのである。
明帝が急逝し、遺詔の名目で宮殿造営は差し止められたのであるが、明帝の過酷な放漫財政から受けた被害から回復期にある魏朝には、蕃夷の貢献に対して見栄を張るにも限度があったのである。
遡ると、倭国使節を厚遇するにしろ、例えば、大量の銅鏡を新作する素材として、大量の銅材を敵国である呉から新規に輸入し、宮廷付きの工房として再興を計っている尚方の名工を動員して、新種の意匠で鋳型を起こし、画期的な銅鏡百枚を新規に作成するという事業は、到底想定しがたい状況だったのである。
完
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