個人的資料批判 神と神を祀る者 ムラからクニへ 2/11
日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者 昭和42年5月10日刊
ムラからクニへ 執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
私の見立て★☆☆☆☆ 2016/08/12
以外★★★☆☆
承前
*陳腐な不興
以下引用した冒頭囲み記事「『魏志』倭人伝の信頼度」を、「魏志倭人伝」と言う史料の紹介でなく、タイトルに対する口吻で始めている。
世間に通じている「魏志倭人伝」なるタイトルは、遙か後世の、多分日本人が、便宜上付けた通称であって、いくら刊本に記載されていても、陳壽が編纂した本文ではない。よって、この通称は、倭人伝の史料としての信頼性には関係ない。
因みに、遙か後世の南宋時代の版本である所謂紹凞本では、倭人記事の直前に、一行を費やして、「倭人伝」と書かれていて、世に「倭人伝」と通称される一因と見られる。
また、各種資料に引用される際、「魏書」、「魏志」の両様であり、別に「魏志」と呼ぶのが間違っているわけではない。
念のために言うと、史官である陳寿は、三国志を「編纂」したのであり、紀行文学を「創作」したのではないから、オリジナリティー(創作性)を狙ったものではない。。
このような余談めいた書き出しは、以下の展開と相俟って、執筆者の先入観というか偏見を押しつけるものである。
ついでにダメ出しすると、当時の言葉で、「中国」とは、魏の統治していた中原のことであり、呉、蜀は、中国に割拠していたのではなく、辺境を支配していたと見られているのである。これは、かなり深い内容であり、あるいは、執筆者は承知の上で、現代語として使用したかも知れない。
また、魏と呉が影響を与えようとしていたのは、北鮮ではなく、中国の北辺、戦国時代の燕の故地への入り口である遼東である。ご専門ではないので、地理認識がずれていたようである。
いや、議論の本質ではない揚げ足取りに迷い込んだようで、反省する。
未完
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