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2016年8月11日 (木)

私の意見 景初倭国遣使を巡る異説 2

                      2016/08/11
 承前
2.本論 序
*景初遣使の深淵
 以下の議論は、倭人伝に明記されている「景初二年六月」という明確な記載を、何の断りもなしに「景初三年六月」と読み替えている定説に異論を唱えるものである。
 諸論を眺めるに、景初三年と史料を自己流に読み替える定説派の習癖は、倭人伝記事を自在に読み替えたい中和倭国説の弱みがあるのであろう。
 ところが、この議論を掘り下げると、解しがたい難題が浮上するのである。

*遣使の動機
 世上では、倭国が、帯方郡を取り巻く戦況を耳にして、勝手に、つまり、自発的に使節を派遣したように書かれているが、中国への貢献は、制度化されている時期に、半ば臣下の義務として派遣されるものであって、規定外の押しかけ貢献は許されないのである。

 と言うように思い巡らせると、帯方郡の太守交代に伴い、太守から遼東平定を慶賀する貢献を促す指示が出た、それに応じて急遽倭国から貢献したと見るべきであろう。(他の東夷諸国が何も対応しなかったとは思えないが)

 倭国使節団には、帯方郡発行の身分証明書があるから、途中の韓諸国も、貢献物の没収、課税を控え、倭国使節の通行を許可し、安全を保証したと見られるのである。

*帯方郡と筑紫倭国の応酬
 簡単な議論から先に片付けると、まずは、帯方郡と筑紫倭国の間は、概算して、片道二カ月程度の行程と思われる。概算しているのは、移動経路や手段が明確になっていないからである。

 魏朝の実質的な創業者曹操が制度整備した中国魏朝管内のように、陸路の街道が縦横に整備され、緊急の公務としての乗馬急行を支援する体制が確立されていれば、騎馬で疾駆、急行することにより、かなりの旅程短縮が可能と思われるが、諸韓国は、あくまでクニ分立状態であり、国家の体を成していなかったと見られ、諸韓内の街道には未整備の箇所があり、中国国内ほどの「急行」はできなかったと思われるが、仮に、半島南端の狗耶韓国までと限定すれば、献上物を担った使節団よりは、随分快速に移動できたと思うのである。

 とは言え、この経路の倭国側ではクニからクニへの短期日程の移動であり、道路網も、そこそこ整備されていたであろう。概して言えるのは、この間の行程は、通常の交易輸送路、文書通信路であり、水陸の便も多く、所要日数が確実に読めるのである。そして、そのような所要日程ないしは里程は、倭人傳記事にもなっているので、帯方郡側も、承知していたものと思われる。

 

 因みに、倭人伝で、里程だけでなく日数表示があるのは、未整備の道路事情、交通事情から、一律に里数から所要日数を算定できないのも一因であろうと推定する。

 

未完

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