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2016年8月15日 (月)

私の意見 東呉孫権 景初三年公孫氏支援の謎

                      2016/08/15
 倭国の景初遣使について調べていると、関連している景初二年の曹魏太尉司馬懿による遼東征討について、呉主傳に奇妙な関連記事がある。

 呉主傳は、陳寿が、東呉史官が公式文書を集成した「呉書」を忠実に収録した史書であるから、皇帝孫権の事績であり、正確なものとして扱いたいところなのだが、筋の通らないものである。

 以下、二回にわけて、手短に筑摩書房刊 三国志の日本語訳を謹んで引用させていただく。(下線段落である)

 赤烏二年(二三九)の春三月、使者の羊衙と鄭胄、将軍の孫怡とを派遺して遼東におもむかせ、魏の守備の将の張持・高虛らを撃って、その配下の男女を捕虜とした。

 ここで東呉の赤烏二年は曹魏の景初三年という扱いであるが、魏書によれば、前年景初二年の九月に遼東の公孫氏は滅んでいる。その際、公孫氏の関係者が悉く亡ぼされていて、遼東には曹魏の占領軍しかいない。

 とういうことで、公孫氏が滅んだ後の景初三年の春に、東呉が使者や援軍を派遣するはずがないのである。

 三国志本文ではないが、裴松之の注で、「文史伝」を引用してさほど重要人物とも思えない使者鄭胄の事歴を紹介しているのは、この派兵記事の紀年に首を傾げた裴松之の異議を示唆しているのではないかと思われる。

 『文士伝』にいう。鄭胄は、字を敬先といい、沛国の人である。(中略) のちに宜信校尉に任ぜられ、公孫淵の救援にむかったが、結局、魏に破られ、帰還したあと執金吾の任にうつった。

 と言うことで、東呉が使者や援軍を派遣したのは、景初二年(二三八)の春と言うことになる。斯く斯くたる戦果は、いわば、皇帝の偉業を頌えるための文飾であり、まともに司馬懿配下の大軍と戦っていれば、命からがら逃亡したであろう。何とか、数人の名もない兵士を連れ去ったと言うことのようだ。当時、司馬懿が女兵を帯同していたかどうかも不明である。
 因みに、その時点、楽浪・帯方の両郡も、既に魏の早期制覇で公孫氏の勢力圏を離れていたのである。

 なぜ、この事件に関して、東呉と曹魏の暦が一年ずれたのか、わからない。わからないことは、わからない

以上

 追記
 当事件については、例えば、
 「ここまでわかった邪馬台国」「歴史読本」編集部編 新人物文庫
   世界の中の邪馬台国 (森 公章) 公孫氏の滅亡と魏のまなざし

と題した記事で、公孫氏討伐の余燼、遼東を騒がせた事件として肯定されていて、だから、景初の倭国遣使は、景初三年だとする根拠とされている。

 前記したように、当記事の直後に裴松之が親切に注釈を入れているだけに、いささか、粗忽ではないかと思われる。

 同段落以前には、「公孫氏の帯方郡攻略は二三八年の早い時期に完了」(公孫氏が帯方郡を攻略した??)などというトンデモ表現もあり、全体として書き飛ばしをされるかたではないかと思われる。商用出版物にこの手の不出来な記事を載せていては、後々まで、悪しき定評がつきまとうのではないかと懸念される。

 改めて書評を立てることになるかどうか不明だが、本書全体として、一連の新書、文庫の参考書の一冊として買いはしたが、「やっぱり」という文庫本ではあった。

以上

 

*若干補充説明したが、主旨は変わっていない。(2016/09/16)

 

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