私の意見 景初倭国遣使を巡る異説 5
2016/08/11
承前
4.まとめ
*所見
綜合して、景初の倭國初遣使の想定される三世紀前半の時点で、以上に述べた時間的な制約と交通事情を思うと、遠隔地に本拠を置いたと仮定される中和倭国が帯方郡に『景初三年六月』に到着するように倭国使節を派遣するのは、事実上不可能であったと見られるのである。
この点を解明する合理的な議論を提示頂ければ、感謝する。
*所見の効力
以上は、あくまで論証の根拠を得られない概論で有り、定説を否定する効力は無いのは自明であるが、逆に、作業仮説としての存在意義を根本的に否定するのは不可能ではないかと思うものである。
わかりやすく言うと、一理ある、一読吟味に値する異説と思うからここに公開するのである。
一介の私人としては、以上の素人考えに反論されるかたは、いずれの目的で反論するか、主旨を明らかにした上で、ご高説を開示頂きたいと切望するのである。
ネットでまま見られる論客の常用する「嘘つき」とか「詐欺師」とか非難して、犯罪者呼ばわりしたいかたは、当方の目と耳の届かないところでお願いする。やっつけないと気が済まないときは、「ほら吹き」程度にして頂きたいものである。以上、ささやかなおまじないである。
以上
未完
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