私の意見 景初倭国遣使を巡る異説 3
2016/08/11
承前
2.本論 結
*帯方郡と中和倭国の応酬
三世紀当時の筑紫―中和間の交通事情が不明であるため、概算が一段と概算になるのだが、帯方郡太守が中和倭国に使節派遣と貢献を指示する文書を発信したとして、遠隔地である中和に知らせが届くまでに六カ月、使節派遣の決定、使節人選、献上物準備に二カ月、中和から帯方郡までの移動に六カ月、ということで、往復に一年以上かかるという推定になるのである。
この推定は、先ほど帯方郡と筑紫倭国の間を、概算して、片道二カ月程度の行程と推定したのに比べると、大変不確かな推定である。
何しろ、帯方郡側は、筑紫―中和間の直線距離を知らず、また、実際に往復したものの報告もないしで、大胆な憶測と言わざるをえない。
いや、現代人の特権で、中和の箸墓あたりから筑紫の博多湾岸まで五百㌔㍍(現代中国語で、公里)程度、つまり、帯方郡から博多湾岸までの直線距離と大差ないと知ったとしても、三世紀に、この間に街道があったのかなかったのか、航路があったのかなかったのか、まるでわからないし、具体的な移動手段もわからないので、所要期間を自信を持って推定するすべがない。
まあ、ここでは、公式な道里報告をしているのではないので、遙か後世人が、勝手に、つまり、自主的に四カ月程度、全体が六カ月程度としているのである。ここを、三カ月程度と見ても、全体で十二カ月となる。ということで、概算の精度は、以下の議論の大局にほとんど響かない。
復唱すると、所要日程を目算で概算するのは、なにしろ当時の交通事情に関して、街道や航路の整備が進んでいたとする信頼に足る史料が、寡聞にして見当たらない上に、仮に何らかの史料があったとしても、発展途上の街道や航路であれば、実際の所要期間は大きくばらつくと予想されるので、月単位の概算と見るのが順当だとみるのである。
*景初遣使の年次と「帯方郡早期攻略」説
ここで、三世紀当時、帯方郡と中和倭国の間を概算で往復十二カ月程度と見ると、『景初三年六月』に間に合わせるために、逆算して、『景初二年六月』に、帯方郡からの指示が出なければならない。往復十四カ月程度と見ると、『景初二年四月』である。
つまり、従順に定説に従うのではなく、正使に明記された『景初二年八月』の遼東攻略の数カ月以前に、帯方郡が魏朝の支配下に入っていたとみる「帯方郡早期攻略」説を見直さなければならないのである。
遼東攻略、鎮定強行の後、おもむろに帯方郡を魏朝が支配下に置いたとすると、『景初二年八月』どころか、『景初二年十月』とも思われ、『景初三年六月』の倭国使節到着までに残されたのは、九カ月ないしは十カ月(途中に閏月があった場合)となる。つまり、景初三年六月の中和倭国遣使は無理である。
このように、二つの議論は、動かしがたく連動するのである。
と言うことで、「中和倭國」説を採用すると、ほぼ必然的に「帯方郡早期攻略」説を採らねばならないように見えるのであるが、それでも、かなり無理のある仮定が必要となるのである。
つまり、そこで推理を終えては、「中和倭國」説の無理は解消しない。
未完
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