個人的資料批判 神と神を祀る者 ムラからクニへ 9/11
日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者 昭和42年5月10日刊
ムラからクニへ 執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
私の見立て ★★★☆☆ 2016/08/12
以外★★★☆☆
承前
以下、少し余談めいた感慨を述べたい。
概数論~大家の勘違い
執筆者の経歴を拝見すると、若くして工学部系の学問を修められているので、その頃に、理工系の思考を身につけておられたものと思うのだが、考古学の分野に志されて文学部(考古学は、文学部に属する)に転じられたので、理工系の感覚が鈍ったのではないかと、憶測している次第である。
と言うのは、と言うのは、記事中で、中国の史家が、百、千単位の概数で語ることに対して、大雑把であるとの非難を示されていることである。
具体的に言えば、戸数、そして、道里の表記を指しているものと思うのだが、これらの数字は、概数で論ずるしか無いもので有り、言うならば、有効数字二桁程度のデータであれば、概数で語るのが正しいのである。
*概数の正当さ
今日の科学的社会でも、建築業者が住宅設計するときは㍉単位であっても、近所を案内するときは、㍍単位で距離を語るであろうし、例えば、大阪から博多に新幹線で移動するときは、百㌔㍍、十㌔㍍の概数で語るはずである。
元に戻ると、帯方郡から狗耶韓国までの七千里は、東夷伝全体の流れから見て、百里、千里単位の概数であるし、各国の戸数は、見る限り、千戸単位程度の概数となっていると思うのである。いや、韓伝を見ると、百戸単位かも知れないが、それは、元々のデータの精度も関係していのである。因みに、帯方郡管内の戸数は、一戸単位で集計できたことが知られている。
それこそ、今日でも、経理関係の計算、銭勘定は、一円単位の正確さを要求される。例え、一兆円規模(十二桁以上)であってもである。世界が違うのである。
調べれば、新大阪博多間の鉄道路線長は、㌢単位で示せるだろうが、そんな高精度の数字は、普段の生活には意味が無いのである。また目的地までの直線距離は、地図上で㍍単位で出せるとしても、歩いて行く道のりを実測して、そんな高精度では示せないのである。それこそ、道のどちら側を歩くかで㍍単位の差が出る。
つまり、書かれている数字が細かいほど、桁数が多いほど、データの精度が高いというのは、素人考えの誤解であって、工学・実用の徒は学業の一環として適切な判断を習っているはずなのだが、若き日に工学を学んだ執筆者の健全な感性は、学界の世俗の垢に染まって撓んだのだろうか。
いや、現実世界では、実務に長けた技術者ほど、合理的思考をどこかに忘れて、神がかりの思考に陥りやすいのであるが、それは別義である。
僭越ながら、当記事で批判を繰り返しているのは、執筆者の工学の徒としての初心を、執筆者に成り代わって適用したつもりなのである。
未完
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