私の本棚 歴史読本 2014年7月号(1)特集 謎の女王 卑弥呼の正体
2016/09/18
株式会社 KADOKAWA
基礎史料で読み解く女王の実像
『魏志』倭人伝にみる卑弥呼の足あと 田中俊明
当記事は、以下の誌面で九人の論者が登壇して力説する九人の「卑弥呼」の時代背景を予習するもののようであるが、どうも、うまく書けていないようである。
記事の前置き部分で、記事筆者は、「卑弥呼に関する史料はほぼ魏志倭人伝しかないから、卑弥呼を知るには倭人伝を精査するしかない」、と堅実な所信を表明している。
「ほぼ」と丁寧に語っているのは、ほぼ後漢書倭傳記事を意識したものであろう。また、「精査」するというのは、これまた堅実である。後世人として、史料を尊重しつつ、最善を尽くして検討するという謙虚な姿勢が伺われて、当記事筆者の誠実な人柄がうかがわれるのである。別記事で批判した粗暴な所信と大違いである。所信表明は、かくありたいものである。
と言うものの、このような斯く斯くたる所信を持ちながら、國名論に於いては、魏志の記事を捨てて、「ほんらいの「魏志」によった「後漢書倭伝」など」と憶測を言い立てるのは、誠に不可解である。
「ほんらいの「魏志」」は、誰も論証していない幻覚のようなものであり、従って、そのようなものに「よった」かどうかは、更に誰も論証していない推定である。ちょっと、あまりにあまりではないかと思うのである。記事筆者の理性が疑われて、心配である。
二.卑弥呼の外交 卑弥呼の遣使
卑弥呼は、景初三年(二三九)に帯方郡に使者を派遣した。『魏志』の諸版本では「景初二年」としているが、『翰苑』註所引「魏志」・『太平御覧』所引「魏志」・『梁書』倭伝には「景初三年」とある。『日本書記』神功摂政三十九年条分註に引く「魏志」も「景初三年」とする。ゆえに「三年」の誤りであると考える。
当段落の、大事な切り出しで、このような独断の意見が、根拠を示さないままに飛び出してくると、いくら私見の表明であっても、読者は当惑するのである。
ここまでは、異論はあっても安心して読み続けたのだが、この部分で、論証抜きに史料を書き換えるというのは、困ったものだと思うのである。
いや、古代史学界という狭い業界では、これで当然という風潮があるのは承知しているのだが、学術的な論証は、合理的な判断に基づくしかないはずであり、科学に於いて、合理的な判断とは、証拠と合理的な論理に基づくしかないのである。そして、確実な判断ができない場合は、良心に従い、「ゆえに」などと決定的な裁定を安直にまき散らすことなく、判断を保留すべきと思うのである。
冒頭の所信から推察した、記事筆者の人柄からみると、ここに書き飛ばされている判断は、あんまりだと思うのである。
参考までに、判断を保留すべきだと思われる事情を示すために、ここに、比較されている資料を列記し、信頼性を評価してみるのである。ただし、史料として信を置けない日本書紀は、はなから除外する。また「倭国の使者が魏の都洛陽に到着したのが六月」なる、出所不明、根拠不明の文句に始まる提言は、記事筆者の名誉のために聞かなかったことにする。
もちろん、以下に述べるのは、当ブログ筆者の個人的な感想であり、アプリの使用許諾契約のように、読む人に同意を強いている物ではない。
未完
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