私の本棚 歴史読本 2014年7月号(3)特集 謎の女王 卑弥呼の正体 翰苑、太平御覧、梁書の乱脈
2016/09/18
株式会社 KADOKAWA
承前
*後進資料評価
翰苑(現存写本)
翰苑の現存写本が、明白な誤記が訂正されていない、つまり不正確な書写に対して責任校正のされていない、いわば、結果に責任のとれない成り行き状態にあることは、既報の通りである。
明白な誤記が訂正されていないというレベルには、例えば、倭国冠位の列記に「大徳」とあるべき所が、「六徳」となっている点が例示できる。およそ、漢語の初心者であっても、しかるべき常識のある知識人であれば、前後記事と整合しないことから、書き写す際に誤りに気づくものである。
原本からここに到るいずれの段階で書写の誤りによる誤記が起こったにしろ、例えば、引用されている史書の信頼できる写本ないしは刊本と対峙させて、異同のある記事の信頼性を比較するのであれば、即座に、翰苑記事を却下すべきであると考える。
念のため言えば、以上の評価は、写本としての機械的な精度を言うのであって、当写本がもつ、芸術的意義、及び、多年に亘る文化財保護の偉業を批判しているものではない事をご理解戴きたい。
太平御覧
翰苑記事で既に片鱗が現れているのだが、これら『百科事典』的大冊の編纂過程で、史書の原本を直説参照することは不可能である事は、自明と思われる。
なぜなら、全正史の全巻を同時に参照することの物理的な困難さは別に置くとして、その時点の各正史の「原本」(最高写本)は皇帝所蔵の国宝であり、皇帝自身すら、まれに機会を得ない限り閲覧不可能であり、実際の閲覧が可能な、原本から作成された一次写本すら、特別な許可を得て、始めて閲覧できるものである。(そのように厳重に管理したはずである)
「太平御覧」の編纂者は、正史の参照を所望しても、一次写本については、帝国の書庫に臨んで、所望の記事を抜き書きして持ち帰ることができるだけであった思われる。このような貴重書は、所謂、門外不出、禁帯出の貴重書だったはずである。
それでは、編纂の実務が進まないので、或いは、編纂者は、一次写本でなく、そこから派生した二次以降の低級写本、さらには、市場で流通していたかも知れない、更に低級の「通用」写本を入手して、編纂者の書斎に常備していたかも知れない。
それでも、太平御覧の編纂に際して参照される原資料は膨大であるから、結局の所、写本をもとに、抜き書きを作成して、参照していた可能性が高い。抜き書きとなれば、機械的な転記でなく、当代の知識に基づく、推定が加わる可能性が高い。何しろ、「太平御覧」は、皇帝をはじめ、高位の読書人の読むものなので、当代の語彙に合わせて書き換えた方が、読みやすくなるのである。
大冊の編纂者は、当然複数のものが、責任担当分野を決めていたろうから、同時に複数の部署で正史写本が必要となることも、予想できるのである。
してみると、編纂者が引用した写本や抜き書きは、何かしら誤記や誤写の避けられないものであったことが推定できる。
そのような過程を経て、遙か高みの原本から伝来した抜き書き記事と、国宝原本の高精度写本で継承された系列の記事とどちらが信頼性が高いか、は容易に推定できることである。
別記事で論評しているように、国宝級原本の高精度写本は、楷書系の明確な字体で、速度を問わない徐行で行われたであろうが、『通用」写本に到っては、速度重視の草書系で行われたと推定される。
所謂「達筆」の草書系の略字を介した写本では、誤写が格段に発生しやすいのは、書家の説くところである。国宝級の写本では、繰り返し、写本と書写原本との照合・校正がなされるが、本字で書く気になれないほど先を急いだ写本であれば、文字の確認も甘くなろうというものである。
ちなみに、草書を介した写本が誤写多発と決めつけるのは早計であり、古田武彦氏は、紹凞本が北宋刊本を基にした草書(達筆)写本を本字に書き戻した可能性が高いと見ている。俗字や固有名詞のつまらない誤写は、草書写本由来によるとみていたようである。
記事筆者も、「共立」の「共」が脱落していることから、太平御覧の引用には、誤写があることを認めている。
梁書
梁書は、建前上は、裴注の行われた劉宋の後継である南朝梁の『正史』であるが、後続の陳朝が、国家事業として編纂した物ではない。
また、梁朝は、末期の戦乱で首都が叛徒に包囲されて、飢餓地獄に陥るほどの窮地に落ちた上に、引き続く動乱で、首都を叛徒に蹂躙され、内部資料の多くを失ったと思われる。
加えて、陳朝は南朝最後の王朝であって後継されず、北朝隋に征伐され、亡国となったのである。隋朝は、東晋朝以下の南朝歴代王朝を王朝として一切認めず賊徒・叛徒として扱い、南朝が歴代継承した公文書類の多くを焚書、廃棄したのである。
そのような状態での編纂なので、正史の基となる史料に欠落が多く、正史といえども信頼を置くことのできない記事が多いのである。
また、記事筆者も、梁書記事には、後世人の推測による書き換えが多々あることを認めている。
以上のように、信頼性の乏しい資料の記事と三国志の記事とをつきあわせて、いずれを採るかと言われれば、論議の余地無く三国志に分があると言わざるを得ない。(分があるというのは、絶対という意味では無いのは言うまでもない)
古代史学界にはびこる合理的でない資料観を、別記事で、まるで、盆栽の丹精のようだと歎いたことがある。史料を史料として客観的に精査するのではなく、言うならば、自身の所信に合わない枝は剪定して摘み取り、或いは、枝振りを矯めて自身の所信に合うように手入れして、丹精の結果出来上がった史料を基にした見解を提示するのは、科学的な史料批判ではないと思うのである。
当ブログ記事筆者の、記事筆者に対する敬意は、この下りのあまりな扱いに、大分傾いたのである。
読者が、本書の記事に求めているのは、盆栽の美術性ではなく、科学的な精査の成果である。
未完
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