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2016年9月

2016年9月30日 (金)

今日の躓き石 フットボールのフィジカル面とは?

                                 2016/09/30
 今回の題材は、またまた、サッカー日本代表監督の談話である。主として、毎日新聞大阪朝刊13版スポーツ面の記事での、監督談話の引用に対する指摘なので、一応、日本サッカー協会の広報担当の翻訳の責任と言うことになるのだが、毎日新聞記者が、主旨確認せずに談話の引用をそのまま載せているので、新聞の報道の責任とも言える。

 さて、今回の記事で不満なのは、日本代表の戦いぶりに対する、整理されていない記者感想が、延々と続いていることである。ここでは、細かいことを書き連ねても、読者はそんなことを聞きたいのではないのである。

 肝心の監督談話であるが、総括として、全国紙の記事という位置付けでは、「日本と海外のフットボール」と書いているのは、まずは、不親切である。

 一般読者にとって、「フットボール」=「サッカー」と理解している人は多くないのではないかと思う。説明無しに「フットボール」と言われると、アメフットが念頭に来るはずである。つまり、日本国内には「フットボール」は普及していないのであるから、引き合いに出されても、引き合いにならないのである。
 これでは、読者に意味が伝わらないから、監督として不用意だと思うし、全国紙の報道としても、不合格ではないかと思われる。(サッカー)と付け足すくらい、一般読者に歩み寄ってほしいものである。
 そして、「差がある」というのは、どこがどう違うのか、聞き取ってほしいものである。欧州には欧州の行き方があるので、南米とは違うし、アジアとも違う。それは当たり前であるが、記者の意見ではなく、監督の分析を聞かせてもらいたいのである。

 そして深刻なのは、「フィジカル面」との言い方である。
 この言葉は、辞書に載っていない、意味の定着していないカタカナ言葉なので、ある意味、一般読者の理解を拒否した言葉遣いと思える。
 今回は、ワールドカップ最終予選での不振について、ファン/サポーターに対する「言い訳」の場と思うのだが、そこで、いつもながら意味の通らない言葉を使うのは、どういうつもりかと思うのである。

 もちろん、監督自身が、日本語のカタカナ語で喋っているのではないから、先に書いたように、協会広報担当の翻訳に責任があると感じるし、それを、そのまま通す記者の姿勢にも疑問を感じるのである。

 思うに、関係者は、誰も、一般読者がどう受け止めているかなど気にもしていないのだろうが、一般読者の理解があってこそ、熱心なサポーターが育つのであり、そうした支持に対して潤沢な資金が提供されるのである。そうした資金は、それぞれの名目で由来が語られるだろうが、大河のように流れ込む資金の最初の一滴は、一般読者の財布の些細な資金なのである。誰が最大の「顧客」であるか、勘違いしてほしくないのである。

 フィジカルのスポーツ界での用法を見ていると、大別して、
1.体格   背の高さ、体重
2.体力   速度、瞬発力、持久力
3.闘争力  当たりの強さ、ボールへの食いつき
 の意味で使われていると思われる。一言で、どの話かわからなければ、読者も理解のしようが無い。
 また、サッカーのスポーツとしての用件と思われるボールコントロールやシュートの技術はどこに入るのだろうか。単に、当然備えている「スキル」で片付けるのだろうか。
 依然として、どんな意味で使っているのか疑問が残るのである。

 記者は、最後に、監督の総括の言葉に続いて、どう関連しているのか不明な「正攻法」と反論の少なそうなきれい事(使い古した言葉だが、無策で行くという、大概失敗する守旧論と思う)でくくっているが、そもそも監督の本意を理解しないまま「及び腰」(へっぴり腰)などと意味不明な言葉でくさして、これに対してJリーグ流を押し立てて、監督の所信を伝えるという報道の役をなしているのだろうか。

 読者は、賢そうに高所から理屈をたれている記者の意見ではなく、現場で戦っている監督のプロ指導者としての分析を聞かせてもらいたいのである。

以上

2016年9月29日 (木)

今日の躓き石 藤原京元日朝賀の虚報、誤報

          私の見立て☆☆☆☆☆                2019/09/29

 今回の題材は、毎日新聞の責任というわけではないが、記事にして紙面に乗せたのだから、ある程度の責任は避けられないと思うのである。
 記事は、『「続日本紀」は、701(大宝元)年の元日朝賀』と引用しているが、この引用は「引用」ではなく、誤解としか言いようがない。

 「続日本紀」の時代には、西暦(ユリウス暦)は知られていなかったから、701年の元日と言われても、何のことかわからないのである。

 701年は、大体の所は大宝元年としても、太陽暦と太陰太陽暦(旧暦)とでは、元日が、一カ月あまり、約四十日程度違う。つまり、701年の二月十日あたりが、大宝元年の元日である。
 特に、彩色画には、「701年の元日朝賀」と完全に架空の日付を付けているので、誤解は、深刻である。

 そうした食い違いは、古代の歴史を学ぶ上でのイロハ、常識であり、うるさいことを言われないためには、「大宝元(701)年の元日」と書くものであるが、今回は、なぜか間違いを言われかねない書き方になっている。

 いい年をしたおとなが、「常識に一石を投じた」つもりなのだろうか。学問は、地道な論証の積み重ねであり、悪ガキが窓ガラスに石をぶつけるような破壊的なものではないと思うのである。

 発表元の奈良文化財研究所は、素人(全国紙の一般読者)相手だから、この(ごまかした)言い方で良いと思ったのであろうか。それにしても、この程度の続日本紀記事を正確に引用できないようでは、それ以外の引用や援用も、原典を勝手に書き換えた、いい加減なものではないかと危惧されるのである。

 今回、馬脚を現した大宝元年論は、本来些細なことではあるが、「虚報、誤報」は、小さな事で、全体の信用をなくすと言うことである。誠に余計なお世話であるが、組織としての「校閲」活動が必要ではないかと危惧される。

以上

今日の躓き石 ブラタモリの「リベンジ」汚染荷担

                                2016/09/29
 今回は、何日か遅れで留守録した番組を見たので、大分出し遅れであるが、見ていた証拠を出すことにする。

 NHKの名物番組の感がある「ブラタモリ」の広島編は、例によって、仕掛けのあるご当地紹介を見事にこなしていく、当代随一の役者ぶりであったが、(当人の責任ではないのだが) 番組にドロを塗るつまらない失言が出て、がっかりであった。
 番組の締めくくりに近くなって、シジミトリの川船で、腕試しとばかり、長い竿の先のかごで川底のシジミを「突いて」いくのだが、一度目は、上がりが空かごで、いや「もう一丁」という所で、字幕と語りで「リベンジ」がぽろりと出たのは、NHKにしては、何とも情けないと思うのである。

 ご当人の失言であれば、そのまま流すしかないかも知れないが、こんなつまらない失言はしない人が失言していないのに、NHKが勝手に場違い、手違いの失言を付け足しているのは、カタカナ語汚染(公害)に手を貸したことになり誠に残念である。

 大体が、今回は、別に邪魔する相手があって、失敗させられたわけではないから、やり返しも無いのである。単に、うまくいく手さばきの要領が手についてなかっだけであり、さすがに、何でも一回でこなすまではいなかっただけである。
 誰かを恨むとしたら。おおぼけのコメントを付けた、NHKスタッフであろう。

 と言うことで、NHKの社員教育が行き届いていないことを知ったのである。

 言うまでもなく、今回も、過不足無く、行き届いた番組であり、貴重な一時であったのだが、一つの小石で躓いて倒れ込んだのが残念であった。

以上

2016年9月19日 (月)

今日の躓き石 言葉のもてなし-ゴルフ界

                                2016/09/19
 今回の題材は、毎日新聞大阪13版スポーツ面の女子ゴルフ記事である。
 優勝した台湾選手の談話で、日本語が乱れているのに、そのまま掲載しているのに不満を感じたのである。

 随分昔だが、台湾滞在中に、現地の友人の母親、つまり、一世代上と思われた台湾の人と話していて、言葉遣いが、正しい日本語でないことをたしなめられた経験をした。
 確か、すでに戦後30年近く経っていて、台湾の人たちは、長く台湾で話されていて身に付いていた中国語(福建地区の言葉、つまり母国語)をやめて、聞き慣れない、普通話と呼ばれる公定中国語(つまり、実感としては外国語)を「国語」とされ、三つの言葉の混沌とした時代を随分苦労して過ごしたはずなのに、昔、子供時代に学校で習った、毅然とした日本語を覚えていて、行き届かない日本人に伝えてくれたことに、今も深く感謝している。

 さて、選手の談話(と思う)で具合が悪いのは、ゴルフ界の古い世代が言い崩した業界語で、ぼちぼち、止めたらどうかと思う端折ったカタカナ言葉であり、外国人にそれを押しつけるのは失礼だと思うのだが、ゴルフ業界の人たちは、どう考えているのだろうか。

 ここまで言えば、おわかりのように、「ドライバーが曲がる」、「アイアンの距離感」 と続いた、不適切な言葉である。ゴルフがマイナーなスポーツの時代、仲間同士の符牒(隠語)で、こうした言い方を作った世代があるのだろうが、それぞれ、クラブそのものが、曲がったり、「距離感」(この言葉自体は、現代に蔓延るぼやけた言い回しだが、この記事の趣旨からそれるので言わない)を持ったりするのは、怪談のようではないか。この記事では、出てこないが、時に、「パター」が入ったりするのである。

 折角、外国からのお客さんが、日本語を習おうとしてくれているのだから、崩れた日本語でなく、毅然として日本語を持って帰っていただいたらどうだろう。それが、一時代同胞として過ごし、今でも古い友人である台湾の人に対するに対するおもてなしではないだろうか。

 咄嗟に思い出せないのだが、「わたし、頭が(?)それとも気が(?)弱いんです。」のようにどちらともとれる発言を報道されていた選手がいたのが、うっすらと気にかかっている。
 台湾から来日すると、日本語で談話できることを期待されるのだろうが、なかなか、ちゃんとした談話が出せるように指導してくれる人がいないのだろう。それどころか、言い間違いを、殊更報道されるもののようである。

 以上、くれぐれも、毎回の記事であるように、プロの報道人である新聞記者を責めているのであって、選手当人をしかっているのでは「一切」ないので、誤解しないで欲しい。
 後々まで残る言葉の領域で、「業界」の悪習に染まらないで帰って欲しいものである。

以上

2016年9月18日 (日)

私の本棚 季刊「邪馬台国」 130号 時事古論 第4回

 再論詳説・洛陽で発見された「三角縁神獣鏡」 連載(1)
                                      安本美典
          私の見立て★★☆☆☆                2016/09/18        

 最初にお断りしておくが、本ブログ記事は、安本氏の論説全体の主旨についてとやかく言おうというものではない。枝葉の部分で、不適当と思われる発言があるので、指摘したいというものである。

*名画の再現-複製画
 今回の記事の末尾で、中国に実在する油画村について、中国に於ける偽物造りの議論の中でさらっと紹介されているので、否定的な印象を期待しているように感じてしまうのだが、名画の複製品(レプリカ)の販売は、中国美術界の周辺で成立している、堂々たるビジネス形態であり、褒めるべきであっても、非難すべきものではないのである。無名の画家にとって、貴重な収入源であろうし、よほど名声を博しない限り、複製品販売の収入で喰っているのだろう。

 例えば、ゴッホの「ひまわり」は、特定の作品の本物は世界に一枚しかないし、売りに出たとしても買うには莫大な費用がかかる。仮に、十分な資金があって買うことができたとしたら、どこかの金庫室にしまい込むしかない。

 これが複製品であれば、それこそバーゲンの時期を狙えば1万円としないものだし、その程度の値段であれば、汚しても怖くないから、自宅の部屋の壁に吊して、日々名画そのものに親しむ気分になれる。

 実際、当ブログ記事筆者の書斎(ぼろ屋の中の6畳間の和室)には、ゴッホの「ひまわり」の複製品(レブリカ)が架かっている。念のため言うと、このレプリカは、原画の写真を、大型プリンターでキャンバス地に印刷したものでなく、画家が、実際に、キャンバスの上に絵筆で描いた複製画であるから、絵の具の盛り上がりや筆運びがわかるし、署名入りでもある。と言って、ゴッホの筆運びは、さほど緻密ではないから、おそらく2―3時間で描けたと思うのである。そう思えば、複製品の値段はそこそこである。もう一つ念のために言うと、ゴッホの描いた絵画は、すでに著作権が消滅しているので、複製して販売しても、知的財産権の侵害にはならない。

 概して言えば、欧米の美術館は、画学生が、館内で展示品の模写をするのを認めている。
 と言って、別に当ブログ記事の筆者は、自身で画家を気取っているわけでもない、まして、これを本物として売り出すことなど考えていない。ただ、気分として、ゴッホの画を見ていたい気分になったとき、その程度の資金があったと言うことである。

 続いて、本記事は特に区切りも無しに、「贋作」村の話に続けるから、偽物造りと関係ない複製画(レプリカ)が、偽物造りの類いと誤解されそうで危ういのである。

*書聖王羲之の模倣
 「贋作」村の話の後に、王羲之の書の模倣が出回っていると紹介されているが、偽物造りと関係ない話である。
 書聖と呼ばれる王羲之の真筆は手に入らないとされているのは、衆知も良いところである。中国唐王朝の皇帝が、最後に残った王羲之の真筆を遺言で墓に埋めろと指示したので、いつの日か発掘されて、地上に持ち出されない限り、だれも見ることはできないのである。
 そもそも、王羲之の真筆は、唐時代に既に貴重であったから、いろいろな技法で複製することが普通であり、そのためには、王羲之と同じ筆、墨、紙を使用し、王羲之と同じ筆の運びをすることで、殆ど見分けのつかない状態で再現する試みも幾度となくなされたし、別の技法として、王羲之の真筆の下に用紙を敷いて、文字の要所要所に針穴を打って、敷いた用紙の針穴の作る輪郭線の中を極めて細い筆で緻密に埋めて再現する複製技術もあったとのことである。

 それ以外にも、中国で一流の書家を目指す無数の子供達は、王羲之の書の複製品を臨書して、王羲之と同じ書を書くことを人生の究極の目標としているのである。
 このようにして、王羲之の書の「複製」は、それこそ山のように書かれていて、中には、指摘されているように「時代錯誤」の書まであるが、どこにも、本物と称して売ろうとするものはいないのである。この話も、偽物造りと関係ない話である。

*複製品(レプリカ)の意義
 安本氏ほどの知性の持ち主が、犯罪行為である偽物造りと正常な商行為である複製品(レプリカ)造りが、全く異なるものであることは、素人の指摘がなくても承知の筈であるが、この記事全体が、両者を一緒くたに紹介して、複製品(レプリカ)造りを含めて「犯罪」と主張しようとしていると受け取られるのではないかと危惧するのである。

 ついでに言うなら、中国を「コピー大国」と呼ぶのは、主として、各種電気・機械製品の模倣、特に、特許や意匠、商標、ノウハウの盗用を言うのであり、又、近年で言えば、PCアプリの複製販売、日本の漫画、アニメの無断翻訳販売などの違法行為を指すのであって、今回取り上げられた、美術品の複製や骨董の偽造とは、別次元のように思う。いや、同じ国民性から出ていると言われたらそれまでだが、かなり異質の事項であることに変わりは無い。

 今回の記事は、そういうことで、安本氏の論説の行きすぎと思われる難点に関して率直に指摘させて戴くものである。

以上

今日の躓き石 朝日新聞は「リベンジをかける」のか

                           2016/09/18
 今回の題材は、大変珍しいことに毎日新聞でなく、朝日新聞である。 

越前おろしそば、うどん県で「全麺対決」 その勝者は…

 当ブログの「リベンジ批判」で、全国紙ではいつも毎日新聞が題材になるのは、講読しているからであり、他の新聞が登場しないのは、目にしていないからである。

 今回の題材は、何のことはない「うどん」と「そば」の「全麺」決戦であるが、なぜか、血なまぐさい「リベンジ」が登場するのである。「リベンジをかけて再度対決する」とおっしゃっているが、勝った方が「リベンジ」なるものを獲得するのだろうか。不思議な言い回しである。
 新聞紙で言えば社会面ネタで、一般読者が、このカタカナ語を理解できるとは思えない。なぜ、再挑戦すると、まっすぐに言わないのだろうか。
 いくら、鎧甲で身を固めていても、仕返しに敵を血祭りに上げる「破壊活動」(報復テロ)を読み取りそうな不穏な言葉は避けるものではないかと思うのである。これは、当事者の言葉なのか、朝日新聞社のものなのか。朝日新聞社が、世間に対して、こういう言葉遣いが面白いと提案しているのか。まあ、他人の楽しみは、中々わからないものだ。

 いつも、毎日新聞の校閲部が鈍感だと文句を付けているのだが、多分、下には下があって、自分で何を書いているのか気づいていないという点では、朝日新聞の方が底抜けではないかと思う次第である。

以上

今日の躓き石 感心しないEテレの「リベンジ」誤用

                              2016/09/18
 今日の題材は、NHKEテレ日曜朝の将棋フォーカス、今回は、アマ名人戦である。
 正直ちょっと心配していたのだが、見ていた限りでも、「リベンジ」、それも、悪い方のやつが二回登場した。

 一回目は、代表としては若い、少年と呼びたい人であったが、予選敗退の感想の最後に「リベンジ」と口走っていて、NHKは、その部分をカットするどころか、でかでかと字幕で書き出していて、何とも情けなかった。
 まだ若いし、多分、言葉遣いにまで気の回る指導者に恵まれず、しゃべり方を教えてくれる人がいなかったということなのだろうが、天下のNHKの取材担当者が、悪い言葉遣いを窘めず、全国放送の形で当人の恥を後世に残したのは、プロ意識の欠如もいいところで、何とも困ったものである。

 また、引き続く進行で、アナウンサーでもないのだろうが、男声のナレーションで「リベンジ」が出てきたのも、正直なところ、お粗末であった。往年のNHKアナウンサーは、アナウンスの対象となる分野について、普段から、いろいろな言い回しを練っていて、それだからこそ、実況放送でもよどみなく適切な発言ができると、随分以前に聞いたことが、長く印象に残っている。時代は変わったのだろうか。

 どちらの例も、古い方、悪い方の「仕返し」、「復讐」、「血祭り」の野蛮な意味で言っているようであり、メディア最前線にいて、現代言葉がわかっていないなあと歎くのである。世にはびこっているのは、再挑戦程度の、軽い、おどけた使い方の大輔リベンジなのである。

 以上、後世に悪しき遺産を残さないように、悪い言葉遣いを自制するのが、報道人の務めではないだろうか。難しいことは言わなくても、子供がまねして良い言葉と悪い言葉は、意識してほしいものである。

 一部の宗教では、裁きは神だけがが下すもの、人は他人を裁いてはならない、と教えているが、当方は、不信心なので、摩擦を覚悟で言わざるを得ないのである。

 ちなみに、当方は、一介の視聴者であり、NHKの放送に不満な点はあっても、代えがたい至高のメディアとして尊敬しているので、受信料を返せと言うつもりはない。

 また、この意見を公式に投稿すると、関係者に伝わるだろうが、多分何らかの回答の義務が生じるので、そのような強制的な態度はとりたくないのである。もちろん、このような閑散としたブログにポツンと掲示した記事に関係者が気づくかどうかは、「縁」次第である。

以上

2016年9月17日 (土)

今日の躓き石 本気 それとも “本気”?

                          2016/09/17
 今回の題材は、下記の商品紹介記事二件である。

キヤノンの本気ミラーレス「EOS M5」を写真でチェック!

キヤノン、EVF内蔵の“本気”ミラーレス「EOS M5」発表

 二件続けてこの見出しで、呆れていたのだが、当のメーカーから抗議されて訂正する様子もないから、こうした言い方での紹介がメーカーの本意に沿っているのだろうが、これでは、終戦直後に民生用カメラの製造・販売に取り組んで以来七十年になんなんとする、絶大な権威のある超一流メーカーの品格も、地に落ちたと思うのである。

 この言い方で云うと、この新機種以前の歴代の「ミラーレス」は、冗談まじりで作った、ある意味、ちゃちなものだったと自分から云っていることになるのだが、メーカーの売り文句として、それでいいのだろうか。

 今回は、それ以上追究しない。
 それでいいというのなら、一個人として、このメーカーの見方を変えると云うだけである。
 前回、このメーカーのカメラを購入して以来、十五年程度になるから、別にも顧客でもなんでもないし、もちろん株主でもないし、要は、ど素人が勝手に言い立てているだけなのだが、当方は「本気」である。

 ここまで来ると、サイトの「品格」も、やっぱり、やっぱりという事なのだろうか。

以上

今日の躓き石 SFは非科学的か 「ゴジラが暗示する」??

                                   2016/09/17

 記事URLを書き忘れたのでLinkを追記する
 ゴジラが暗示する=青野由利

 今日の題材は、毎日新聞大阪13版「分析・解説」面の「土記(誤字訂正)と題されたコラムであり、専門編集委員のおそらく「無鑑査」(無校閲)記事と思われるので、一読者の意見として、展開の中で不合理な点を指摘させていただくことにする。

 ただし、大事(と思われること)を最初に申し上げると、「SF」は、科学的な仮説に基づく科学的な「小説」(フィクション)であるので、現実と連動していない架空のお話であるが、少なくとも、それぞそれのフィクションの展開は、科学的な思考を経ていると言うことである。

 と言うことで、意見を述べさせていただくと、コラム筆者がまくらで紹介されているテレビシリーズ「スタートレック」で(ストーリー展開上大変便利なので)の「小道具」として多用されているのは、ビーム転送であり「テレポーテーション」ではない。この違いは、単なる言葉遣いの問題ではなく、基本的な動作原理を誤解されたようである。

 SF界の伝統的な定義では、「テレポーテーション」は物質の瞬間移動であり、言い換えれば、物質を構成する全原子そのものが遠隔地点に瞬間的に移動することを言う。
 ただし、そのような現象は、いかなる科学を動員しても説明できない「超能力」であり、ファンタジーである「ドラえもん」ならいざ知らず、そのようなインチキ科学は紹介されていないのである。

 少なくとも、第二シリーズの"StraTrek - The Next Generation" (新スタートレック)で、何度か説明されているように、常用する小道具である「ビーム転送」とは、実は、物質の転送ではなく、転送元にある物体の全構成原子の位置情報をスキャンして、その情報を受信機に転送し、そこで、全構成原子を再現するというものである。
 情報は物質そのものではないから、伝送技術の許す限り、高速で伝達でき、「ビーム転送」が未来永劫不可能とは言えないとされていたものである。
 もちろん、最新の量子力学理論に因れば、物質の構成原子の位置をこうした「ビーム転送」に必要な精度で「知る」ことは「不可能」であるから、結局は、これもまた実現不可能な科学と諦めざるを得ないようであるが、現在知りうる限り、最も妥当な未来科学なので、これからも、利用される「技術」だと思うのである。

 そうしてみると、この技術の限定された再現は、3Dスキャナーと3Dプリンターによる3Dコピーなのである。ちなみに、「テレポーテーション」が実現したとの発表は聞き漏らしたので、ニュースソースを紹介いただければ幸いである。
 もし、3Dスキャナーと3Dプリンターが必要な高精細度を達成することができれば、そして、全原子の位置情報というとてつもなく膨大な情報を伝達することができれば、3Dスキャナーで走査し、完全に忠実にデータ転送し、受信側が3Dプリンターで完全に忠実に出力したとき、原本と複製が限りなく同一に近くて、区別できない可能性は、いまだに否定できないと思うものである。(受信が成功したと確認された時点で原本を破壊するのは、ちょっと恐ろしいものであるが、原理上不可避である)

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2016年9月14日 (水)

今日の躓き石 違和感とごまかす「ごますり」批評

                           2016/09/14 
 いや、今回は、ネットポータルであるITMeidaの下記記事を読んで、訳のわからない日本語に「違和感」をおぼえ、そして、これは、メーカーの詐称をかばい立てしている「ごますり」記事ではないかと感じたのである。

iPhone 7 Plusの「2倍光学ズーム」って違和感ない?

 当方は、当該メーカーのサイトにアクセスして、事実調査する気もなければ、業界の常識を調べる気もない。当記事の書きぶりについて、自身の知識に基づいて批判するだけである。

 いや、書かれていることを受け止めるなら、これは、違和感などという訳のわからない日本語で茶化すものではない。性能を偽って表示しているのに、そう指摘しないのはどうしたことだろうか。
 当方は、カメラの業界人でもなんでもないので、素人のうろ覚えになるが、ズームレンズは、元々映画撮影用のレンズの(当時としてはめざましい)機能を指すものであった。
 例えば、被写体となる人物(主人公やヒロイン)を広い背景の中に捉えていたと思ったら、連続的にアップしていって、大写しになるという強烈な効果であり、しかも、其の間、焦点が合っていることが格別の効果を示すものであった。このようなダイナミックな「ズーム」効果を実現できるのが、ズームレンズであった。(Zoomは、アメリカンコミックの擬音表現の流用であった)という風に記憶しているのであるが、何分素人のうろ覚えであるので、事実認識が間違っていたら指摘戴きたい。

 ちなみに、それまでの常識は、複数の焦点距離のレンズをタレット式に切り替えるものであり、当然、連続して撮影倍率を変えることはできなかった。

 また、コンピューターによるレンズ設計が殆ど不可能に近かった時代であり、ズームレンズの機構が大変、大変複雑であるため、大変、大変高価になるので、焦点位置を維持しない、単に焦点距離を可変としただけの「バリフォーカル」なる代替物が出回ったほどである。動画でなければ、それでもある程度希望する効果が出ると言うことのようだったが、早々に姿を消している。

 この記事で取り上げられているのは、そうした「原始的」な切り替え方式であり、書かれているように、「ズーム」機能の無いものをズーム呼んでいるとすれば、それは、詐称である。つまり、大嘘である。

 二焦点切り替え式のカメラは、フィルムカメラの後期のコンパクトカメラで、広角と望遠の切替えができるものが結構好評であったが、これを、「ズーム」と呼ぶようなメーカーはいなかったはずである。当時は、まだ、工業界としての倫理も仁義も健在であったはずである。

 記事筆者は、適確に問題点を指摘しておきながら、当該メーカーが「正確さより分かりやすさ」を重視したのかなどと持って回った言葉で「お茶を濁している」が、機能を偽っていて「わかりやすさ」というその心は、ウソをつくことを選んだメーカー姿勢を(内心手厳しく)批判しているようにも見える。

 大変、鬱屈した言い回しだが、生活のかかっているプロの保身なのだろうか。ちなみに、幸か不幸か当方は一介の私人であり、当ブログへの執筆で何も収入を得ていないので、今後、取材拒否されても広告入稿を止められても、何も失うものは無いので、自分の信じるままに書くのである。

 それにしても、戦後の業界萌芽期以来、着実に形成されていた健全なカメラ業界が崩壊して仁義も倫理も何もない、闇の世界になったと言うことなのだろうか。
 いや、崩壊していない、まだ健在だというなら、どんなルールで、このような言い抜けがまかり通っているのか、素人にもわかるように教えて戴きたいものである。

 記事筆者の誤解で、当該メーカーの本意が伝わっていなかったとしたらその点では失礼であるが、当ブログ記事は、あくまで、ネット記事の報道姿勢の批判である。誤解なきように願いたい。

以上

 

2016年9月12日 (月)

今日の躓き石 季節外れのリベンジ

                               2016/09/12
 今日の題材は、休刊明けの夕刊なので、実質は、朝刊のつもりで読んだ毎日新聞大阪夕刊3版スポーツ面である。

 今回は、共同通信の配信記事であるが、毎日新聞の責任で載せたと思うので、そう書いていくが、もし、共同通信が、見出しまで付けていたとしたら、「落ちたもんだな」と歎くのである。

 「春のリベンジ」と書いているが、今はもう秋、誰も春だと思う人はいまい。寝ぼけた見出しである。記事内容を見ても、寝ぼけた話である。
 全国紙の読者は、普通の人である。こんな見出しで意味が通じるはずがない。遠い昔のことなど、とうに忘れていて、この記事だけが頼りなのである。

 こうした異様な言い回しは、駅売店などて売り上げを競うスポーツ紙の常套手段であり、スポーツ面記事が表面に出ない全国紙の取るべき姿勢ではない。まして、今回は見出しの不可解が記事で解き明かされていないので、単なるバカ騒ぎである。 

 見出しで殊更に血腥い「リベンジ」と言い立てているから、前回ぶつけられた仕返しに、ピッチャー返しで痛い目に遭わせたかと思ったが、そんな話ではないようである。
 大体、前回の顔合わせに何があったか知らないが、日米通じて、つまり、世界レベルで現役最高のバッターが、はるか後進のMLB新人に対して何を根に持ったのか書かれていないから、何の仕返しかわからない。
 報道にも何にもなっていない。共同通信ともあろうものが、随分杜撰な書き方である。

 記事を見ると、三打席の中で手痛く併殺打を打たされているが、それが「意趣返し」なのだろうか。随分屈折した心理であり、素人である一読者には、大選手の心境を知るすべもない。

 そのあと、単打が一本あったようであるが、三打数一安打で併殺打ありでは、捻られたというのは言い過ぎとしても、抑えられたとしか思えない。記事には、そうした経過だけ書いているのだが、見出しでわざわざ記事にない野蛮な言葉遣いをした趣旨がわからない

 こうしてみると、共同通信も随分落ちたものだと思うし、記事はともかく、的はずれて、常識を疑われるような見出しで紙面に載せた毎日新聞も、相変わらず、紙面校閲の箍が緩んでいると思うのである。誤字誤記だけが、校閲の対象ではないだろうと思うのだが。

 それにしても、相手チームの主力打者が二人抜けて攻撃力が落ちているのに、ずるずると失点した敗戦投手は、やはり責められると思うのである。六回三失点は、当人にしたら、くやしかったろうと思うのであるが、くれぐれも、「仕返し」などと言わないようにお願いしたい。「復讐」は、キリスト教に限らず、神の行いであるが、スポーツの負けを神様に持ち込まれても困るのである。

 いや、毎度のお断りだが、当方は、一読者であって、関係者に対して色々指示する権限などない。素人目にもおかしいと思うことを、正直に指摘しているだけである。見当違いかも知れないが、意見は意見である。

 それにしても、日曜日の朝刊では、広島カープの優勝報道で、有力メンバーの顔見せがスポーツ面上部にきら星のごとくカラーで整列、と言いかけたが、半分の七人は白黒で「差別待遇」であったのには唖然とした。ついでだから、ここで指摘しておく。

以上

2016年9月 8日 (木)

今日の躓き石 サッカー 心理面を鍛える?

                             2016/09/08

 今回の題材は、毎日新聞大阪13版のスポーツ面サッカーW杯最終予選の中間報告である。

 第二戦で、17本打ったシュートが2本しか決まらなかったと統計数値を示し、そこから、「日本(代表)の根源的課題である」 「シュートの精度」を欠く という問題点を示しているが、外れた15本には、それぞれの「失敗の原因」があったはずであり、そこから、解決のカギが見えたのであれば、失敗は成功のもとと言えるはずである。

 ちなみに、80年代辺りの大昔であるが、日本チームのシュートは、「宇宙開発」のように、天高く飛んでいくと揶揄されていたのである。おそらく、強く蹴らないと止められるという恐怖が、日頃できない高みまで蹴り上げていたと言うことであろう。

 今回記事を見る限り、指導陣は、選手の「心理面」(メンタル面、などと、監督が言うはずもないカタカナ語を避けたのは進歩である)の問題でシュートが外れていると捉えているようだが、それは、選手が、枠を捉えるシュートを打てる技術があり、打てるボールが来ているのに、外していると見ているようである。
 当の監督が言うのだから、多分そうなのだろうが、じゃあ、「心理面」のどこが弱かった、悪かったのかという分析はしているのだろうか。大局を見て着眼して課題を発見するだけで、小局に降りて事態を改善する具体策がなければ、空論になってしまうのではないか。

 素人が考えても、失敗の原因となる心理面の問題点は、「気負い」-「気後れ」、「過信」-「不信」、「過敏」-「弛緩」などなど、いろいろな気持ちの過不足が考えられる。今回は「格下」と見ていたはずだから、相手を恐れての失敗ではないだろうが、初戦の敗戦を引きずって不安を抱いて試合していたのかなとも思う。間近で指導していた監督やコーチには、憶測でなく、実際に見えていたと思う。いや、事前に予測して、そうならないように指導していたはずなのだが、わかっていても陥る罠なのだろうか。

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