私の本棚 水林 彪 古代天皇制における出雲関連諸儀式と出雲神話
国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ
古代天皇制における : 出雲関連諸儀式と出雲神話(第1部 古代の権威と権力の研究)
今回の書評も、論文全体に関するものではなく、部分的なものである。
私の見立て★★★☆☆ 2016/09/21
そりゃそうである。専門とされている学問分野で研究された堂々たる成果に、通りがかりの素人が、異議も異論も無いものである。あくまで、素人に手の届く低次元の話なのである。
抄録冒頭抜粋
本稿は,『続日本紀』の記事に散見され,『貞観儀式』や『延喜式』にも見えるところの,出雲国造が天皇に対して賀詞などを奉上する儀式の意義について考察したものである。
まず、感銘を受けてのは、冒頭で提示される至言である。
8世紀の事を論ずるには,何よりも8世紀の史料によって論じなければならない。10世紀の史料が伝える事実(人々の観念思想という意味での「心理的事実」も含む)を無媒介に8世紀に投影する方法は,学問的に無効なのである。
ところが、引き続いて、と言っても、大分後方なのだが、蛇足とも見える形で、首を傾げる主張が見られる。
この一直線は,「おおよそ」のものではなく,厳密なものであった。後藤真氏のご教示によれば,〈出雲大社―平城宮内裏跡―伊勢神宮(外宮)〉は,約104.6度(真北を0度,真東を90度とした場合の角度)の線上に並ぶのである(この東西線は,新暦で2月15日の頃,旧暦で正月に,伊勢神宮の東彼方から太陽が昇るラインにほかならない)。
偶然とは考えられない事態であり,おそらくは大陸から伝えられた高度の測量技術をもって意図的計画的に配置されたに相違ないのであるが,そうだとすれば,このことは,出雲大神宮が平城宮時代(その設計・準備段階も含む)の建築物であることを示唆する。
後藤真氏は、国立歴史民俗博物館 研究部 准教授であり、歴史GIS(歴史地理情報システム)の関係者のようである。それにしても、考古学界の一員であれば、後世知の極みである歴史GIS(歴史地理情報システム)を無造作に8世紀の事項に適用することの「無効」さは、自明であろう。
ただし、次のような漠然たる地理認識が八世紀に存在していたことはもう違う余地はない。(「宇宙軸」は、ため息をつかせる粗雑な言葉遣いであるが)
大和が東であり,この東としての大和から見て出雲が海に没する西の辺地にあたっていたという宇宙軸の存在であったと思う。
また、「〈伊勢大神宮―平城宮―出雲大神宮〉を律令天皇制が創造した祭祀演劇空間として捉える前記私見」と言うように、論考でなく、思いつきの私見であることも、適確に自認されているものである。
そこで先ほどの論説の考証をはかると、中々深刻な誤解が含まれている。
旧暦も新暦も後世用語であり、当時当地にあったのは、中国由来の太陰太陽暦(ここでは中国暦という)である。中国暦は、太陽の運行と「厳密に」同期していないので、旧暦で正月(元日のことか)と言っても、年によってばらつきが多い。もちろん、新暦2月15日というのは、読者に錯覚をさそう、時代錯誤である。今日中国で春節と呼ばれる旧正月が、暦の上で年ごとに異なるのは衆知である。中国暦でも、24節気は太陽運航に適確に同期しているから、「立春」とでも言えば、精度が高まるのだが)
このように、基本的な時間軸データが不確か(365日に対して10日程度。つまり、360度に対して10度程度の誤差)である以上、角度測定がいくら「高精度」であったとしても、104.6度なる、3桁以上の精度での推定が成り立たないのは自明である。まして、8世紀に、どの程度の角度精度が得られたか、何か資料でもあるのだろうか。素人だましの104.6度ではないかと思われる。
と言うことで、「厳密」という時代錯誤の言葉を撤回するとしても、まだ大きな問題が残っている。
言うまでもないが、ある地点での真北を、8分法(45度間隔)を越える精度で知ることができたとしても、その地点の例えば105度/255度の方向に線を引いて、どこまでも伸ばして、その線上に特定の地点を求めるのは、そのような角度の測定精度とは別の話であり、現実の地形の上に線引きしていく地道な「測量技術」が必要なのである。
なぜなら、ある地点Aの105度/255度と別の地点Bの105度/255度を天体観測で求めることができたとすると、それぞれの角度は天球上の同じ点を指すだろうが、A地点の105度/255度線上にB地点が存在するかどうかは、天体観測では知り得ないのである。
現代であれば、GPS情報で容易に知ることができるが、測量技術が近代化し、全国が三角測量し尽くされたたあとでも、容易な技術でなかったことが知られている。例えば、トンネル掘削で、両側から掘削された坑道が、食い違うことなく遭遇し、遭遇時点が正確に予測できたのは、大戦後のことなのである。
このように、後藤氏の提言は、現代の感覚を8世紀に持ち込むものなので、無効だと思うが、いかがであろうか。
ついでながら、水林氏は、以下のような時系列展開を仮定しているとのことである。(半角数字使用。大宝令に関する記事を割愛)
698年 (文武2) 伊勢神宮(内宮)が現在の地に遷宮
708年 (和銅1) 平城宮遷都詔,出雲国司忌部宿禰子首,出雲国造果安の任命(これ以降,平城宮と出雲大神宮の造営開始)
710年 (和銅3) 平城宮遷都(ただし,平城宮が完成したわけではない。これ以後も造
営が続く)
712年 (和銅5) 『古事記』成立
716年 (霊亀2) 出雲大神宮の完成,出雲国造果安による神賀事奏上儀(神賀事奏上儀の嚆矢),出雲国造の出雲大神宮への移居
以上のように、20年に満たない短期間に並行して造営されたという提言であり、であれば、明確な方針が三箇所の大事業に徹底したものと推定でき、年表形式での論旨の把握が容易であり、まことに、フェアな態度であり、賞賛に値する。
この考えに、当方が疑問を提示するとしたら、出雲大社及び伊勢神宮位置が、平城京遷都の起きた、つまり、中和(巻向)地区から奈良盆地北部への展開が起きた8世紀まで決定していなかったというのは、信じがたいと言うことである。
例えば、三世紀時点、山間の僻地である中和(巻向)に閉じこもっていた勢力が、沿岸部で、太古以来海の恩恵に浴していた出雲や伊勢・志摩の勢力と交流・交通していたとしても不思議はないが、中和(巻向)の方が先覚でかつ支配力を持っていたとは考えにくいのである。
後世人の感覚が、3-7世紀に一律に持ち込まれていなければ、幸いである。
私見であるが、例えば、出雲、伊勢と中和(巻向)の交流が数世紀続いたのであれば、その間に、出雲-中和(巻向)の方向と距離、および、中和(巻向)-伊勢の方向と距離を概略把握することは不可能とは言えず、7世紀末に平城京を遷都先と決める際に、何らかの方法、つまり、縮小図示などで、伊勢-中和(巻向)-出雲の三角形を推定し、その上で、伊勢-出雲線上に平城京の位置を決定することは、未来技術を必要とせず、不可能でなかったと思うのである。
後世人は、そのような配置は奇蹟とか偶然とか言うが、8世紀人の精神世界では、奇蹟とか偶然は、神の配剤であり、神に恵まれた土地としての平城京は説得力を持っていたと思うのである。
以上
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