今日の躓き石 3世紀前半遺跡調査報告の怪 2 深読み篇
私の見立て☆☆☆☆☆☆ 2016/10/18
今回の題材は、10/18付けの毎日新聞朝刊大阪第13版の1面記事の批評の掘り下げです。(二回に亘ってしまいました)
つまり、いい加減な主張が掲載されたのは、彦根市教委の発表のせいなのか、毎日新聞記者の誤解のせいなのか、もう少し検討しようというものです。
と言っても、目下の所、今回の記事の元となった「ブレスレリース」(報道機関向けの説明資料)が公開されていないので、彦根市のサイトに掲載されている告知記事を引用するものです。以下、文体が丁寧なのは、当方は、彦根市民ではなく、市民として市教委を難詰しているのではないとして、少々遠慮しているためです。
平成28年度「稲部遺跡発掘調査現地説明会」の開催について
彦根市教育委員会では、市道芹橋彦富線・稲部本庄線道路改良工事に伴う発掘調査を実施しています。
平成25年度から実施された調査で発見されたのは、2世紀から4世紀(弥生時代後期中葉から古墳時代前期)の大規模な集落跡です。
稲部遺跡が最も栄えた時代は、3世紀前半、弥生時代から古墳時代へ移り変わる時代、つまり、邪馬台国と同じ時期にあたります。
中国の歴史書「魏志倭人伝」には、このころ、倭(=日本)には、魏もしくは出先の帯方群と外交している国が30ヶ国あったとあります。おそらく、稲部遺跡も、この国々の一つの中枢部だったと思われます。
稲部遺跡からは、180棟以上の竪穴建物に加え、王が居住するにふさわしい大型建物、独立棟持柱建物が発見され、当時、保持することが勢力に大きな影響を与えた鉄器の生産が行われた鍛冶工房群、青銅器の鋳造工房も発見されています。祭祀都市・政治都市であるうえ、工業都市でもあった稲部遺跡は、ヤマト政権成立期における近江の巨大勢力の存在を物語る大集落です。
現地説明会では、この「イナベのクニ」とでも呼ぶべき遺跡の内容と、近隣にそびえる国指定史跡荒神山古墳へのつながりについても、調査担当者がお話しします。彦根市が誇るべき、大遺跡の調査を体感できる貴重な機会です。ぜひ、ご参加ください!
短い告知文ですが、確認された事実に基づく部分と関係者の推測を付加した部分の間に大きな食い違いがあり、これが、新聞記事の迷走に繋がったものと思われます。
遺跡の「時代観」は、新聞記事のように支離滅裂なものでなく、「2世紀から4世紀(弥生時代後期中葉から古墳時代前期)」、つまり、弥生時代後期中葉が二世紀、古墳時代前期が四世紀と想定されていて、その当否はともかくとして、古墳時代が二世紀に遡るという誤解は発生する余地の無いものです。
稲部遺跡が最も栄えた時代を3世紀前半と見る「時代観」やその時代を、弥生時代から古墳時代へ移り変わる時代と見る「時代観」も当世流行のようですが、ここには定説を覆す根拠は示されていません。
そして、これが、邪馬台国と同じ時期にあたるというのは、もっぱら誤解を招く独断と思われます。
続いて、「中国の歴史書「魏志倭人伝」には、このころ、倭(=日本)には、魏もしくは出先の帯方群と外交している国が30ヶ国あったとあります。」と無造作に断じていますが、多くの問題点を含んでいます。
「魏志倭人伝」なる歴史書は存在しなかった、などと無粋なことは言いませんが、この部分の書き方で、学術的なものなのか、非学術的なものななのかが判別できるのは事実です。
倭(=日本)と書いているものの、「このころ」には、日本という概念は存在せず、時代錯誤、非学術的です。
また、「魏もしくは出先の帯方群(ママ)と外交」と無造作に言いくくっていますが、当時は、少なくとも、倭国諸国の連携が成立していたのであり、個々の国が「外交」(現代語として解釈します)権を行使できたとは思えないのです。
互いに大使館を設置し、人質を交換し、国交に関する文書の取り交わしなどなかったはずです。単なる交流ではなかったかと思われます。
また、言うまでもなく、魏が存在したのは三世紀の一時期であり、帯方郡が魏の出先として機能していたのはそれよりも短期間です。三世紀全体に適用できる概念は、見当たりません。以下一々念押ししませんが、時代錯誤、非学術的です。
未完
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