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2016年11月

2016年11月28日 (月)

私の本棚 「古代史15の新説」 別冊宝島 その2-2 野田正治

        私の見立て☆☆☆☆☆           2016/11/28

 古墳と仏教寺院の位置が示す真実  野田正治

 末尾の「補記」をみても、疑惑は解けない。
 論者は、飛鳥時代に高度な測量技術があった、天皇(クラスの権力者)が、(手ずから?)測量した、と楽天的に推定しているものの、いくら当時の測量技術後進国の視点では高度てあっても、以上に述べたような現代技術、当時からしたら想像するできない超絶的な技術はなかったのは明らかである。

 いや、論者は明示しないが、たとえば、御破裂山の位置データは、国土地理院の提供したによるものと思われる。いずれかの時点で、数多くの三角測量によって、国内の基準点との相互位置関係が確定し、後に、衛星測量などによって校正されたものと思う。ほかには、まっとうな実測測量データはないはずである。なぜ、データ出所を明記しないのだろうか。

 さて、国土地理院の提供データは、明治以降に新たに測定された値であり、それ以前は、位置測定されていなかったのである。位置測定されていなかった時代には、方位角などの計算根拠となる緯度、経度のデータは存在しないのだから、方位角などの計算は不可能なのである。もちろん、当時国土地理院サイトもなかった。
 つまり、古代においては、ここに書かれたような計算は意味を持たないのである。
 古代においてかくかくの位置情報であったと主張するなら、何らかの裏付けを提示する義務があると考える。Google Mapにしても、古代に適用できるデータではないと言うはずである。

 悪くとると、お手盛りのデータに、国土地理院なり、何なりの保証があるような虚偽の主張をしていることになる。

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私の本棚 「古代史15の新説」 別冊宝島 その2-1 野田正治

              私の見立て☆☆☆☆☆           2016/11/28

 古墳と仏教寺院の位置が示す真実  野田正治

 当ブログ筆者は、毎日新聞が夕刊の紙上で月一連載している「歴史の鍵穴」コラムの多くの記事に、「地図妄想」との批判を浴びせて、その趣旨の論証を計っている。

 つまり、現代の地図上で、古代史に名の上がっている地点が厳密な直線上などに配置されているのは、古代においてそのような厳密な位置関係を企図して設置したからである、とする根拠のない憶測を、筋の通らないデータとともに押しつけるのは、根拠のない妄想である、科学的ではないと批判しているが、ここにも、同様の妄想にとらわれている論者がいるのには、憮然とするのである。ということで、趣旨は重複しているが、別のメディアの別の論者の批判である。
 何しろ、現代の地図上である配置に見えると言う主張は、まことに安直にできてしまうのだが、古代の建設時にそのような配置を行ったと確信するには、単なる結果論とならないように、学説としての多大な検証行為が必要なのである。

 当記事では、結果論症状の現れとして、各地点の地理データの過度な精度が示されている。地上の特定の施設や建物の位置は、現代の技術をもってしても、ある程度の不確かさ(誤差)をもった数値であるが、論者は、そうした誤差含みの数値を、緯度・経度については、小数点以下五桁、つまり、角度で言えば、十万分の一(0.001%)のデータ精度を誇ってみせるのである。
 そして、計算結果である方位角では、一万分の一(0.01%級)の精度を誇示している。現実世界の測量では、千分の一(0.1%)の精度すら達成困難(事実上可能の意味)と考える。
 10cm(100mm)の定規で、0.1mm単位の読み取りはまず無理である。ノギスやマイクロメーターのお世話にならないとだめである。ノギスやマイクロメーターを使用するにしても、温度管理された測定室のような高度な測定環境や精度を保証する定期校正が必要である。単に数字一つのように思っているのだろうが、一桁の精度向上には、莫大な労力とそれをささえる技術か伴うのである。

 ということで、ここに書かれた計算結果は、元データもろとも、実測不可能であり、明らかに架空、つまり、虚偽である。
 後に論者自身が渋々認めているように、建造物のどの場所を位置測定するかによって、緯度、経度に若干の変化があり、ここに表として示された数字は、それに伴って大きく(0.1%程度を言うなら)変わるのである。そう考えると、ここにあげられた数字は何なのだろうか。論者のもくろみに合うように選定されているのではないかと懸念される。

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私の本棚 「古代史15の新説」 別冊宝島 その1 真藤豊

        私の見立て☆☆☆☆☆           2016/11/28

 「魏志倭人伝」の新たな読み方 真藤 豊

 本文前の惹句で、大きくずっこける。『「三世紀の現代人」が抱いた生活感覚』と妄言で引きつけたいようであるが、「三世紀の現代人」の意味も論者の言う「生活感覚」の内実も説かれないまま、どんどん書き進めていくから、空振りと感じられる。

 「真実は一つ」と、もう一つの妄言が登場する。何をもって「真実」とみるか説明されていないから、これも空振りである。真実は、一つ、二つと数えたてられるものではないとみるものもいるのである。古代史における真実は、当時の全世界森羅万象とその中に生きた無数の人々の思いと行動であり、論者が軽率に断言するような、たとえば、手のひらに載せて全貌を眺められる石ころのようなものではないと思うものもいるのである。

 そして、こんどは、「マクロの世界地図」の知識はなかった、と大ぶりである。少なくとも、三世紀の史書編纂者である陳寿にとって「世界」とは、当時西晋の支配が及んでいた世界であり、地理概念は把握していたものと想像する。「マクロ」とは、意味不明な言葉であり、空振りである。

 以下、論者は、記事の視点と時代感を動揺させながら、論者の妄想世界を延々と展開する

 陳寿が東夷の国々を実見していなかったのは、むしろ自明と思える。そこで、記事は脈絡なしに、論者の視点を陳寿の仮想の部屋に移し、論者の幻視を展開しているようだが、その言うところによると、陳寿は何かを組み立てているらしいが、肝心の言葉が欠落しているので、何を組み立てているのかわからない。

 論者の夢想に第三者の共感を得たければ、もっともっと念入りで筋の通った書き方が必要である。

 そこで、論者は、またもや脈絡なしに読書感想の世界に移転して、自身が個人的に感じ取った陳寿の浪漫や好奇心に酔っているのであるが、これも、著作に書かれているものでなく、読者の内面に浮かび上がったもの、つまり、完全に個人的な感想であり一種自己陶酔と思われる。

 陳寿の著作に触発されて、いろいろ幻想にふけり、粗暴な新説を思いつくのは個人の自由であるが、これは商業出版物、つまり、読者の金をもぎ取るものであり、ここで求められているのは、「新説」の丁寧な論証である。
 その後、混乱した時代/地理感覚の爆発連鎖である。

 倭人伝を引用して、「会稽東治」(かいけいとうち)とルビ打ちまでしているのだが、論者は、会稽は、今日の浙江省紹興市近辺。東治は今日の福建省福州市近辺で北緯二六度と断言している。誤植でもなければ誤記でもないと確信しているようである。

 つまり、論者は、確信を持って、従来の「東治」は「東冶」の誤記とする俗説を採らない、つまり、東治の位置は東冶の位置だとする、強引きわまる新説であるが、新説であることも言わなければ論証もしないので、普通の読者には、無知な論者の誤解の押しつけとしか見えない。

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2016年11月21日 (月)

個人的な意見 対露領土交渉に合衆国の仲裁を

                      2016/11/21 19:50

 いや、今回の個人的意見は途方もなくでかい話である。個人的に言い立てる理由はあるので、落ち着いて読み進めて頂きたい。

 当ブログ筆者は、老人というものの戦後生まれであり、自身で体験していないが、父親は、旧ソ連によるシベリア不法抑留の犠牲者であり、幸いなんとか帰国して子を成すことができたものの、自分の不在の際に家族が旧満州からの帰国時に辛苦もなめたこと含めて、国家から補償金は得たものの、在世中大変不満であったことを考慮いただきたい。(個人的な意見である)

 さて、今回の題材は、北方領土に関する対露交渉であるが、直接関係していない小生の個人的な意見では、これは、大戦末期時点での米国の旧ソ連に対する言質に起因するものであり、二国間だけの問題ではないので、この際、当時の経緯を踏まえて、当時絶大な影響力を有していた合衆国が、互いに引くに引けなくなっている両国を仲裁して、互いに納得できる解決を図って頂きたいと思うのである。(個人的な意見である)

 周知のごとく、旧ソ連は、欧州でドイツと長く闘ったが、日本との中立条約故に、大戦末期に至るまで、日本と交戦していなかった。それが、大戦末期に至って突如対日戦闘に入ったのは、いずれかの連合国協議に於ける合衆国の要請によるものだったと考える。(何の証拠もない)
 案ずるに、合衆国は、長期にわたる激烈な対日戦争の末期に近づいて、そこまでの日本軍の執拗な反抗に恐れを成し、つまり日本軍に怯えて、戦争終結期に予想される自軍兵士の消耗を低減するために、日本の背後から旧ソ連軍が攻撃するよう、利を与える作戦に出たと見るのである。(何の証拠もない)

 ここでいう「利」とは、ロシア帝国が清朝から取得して久しい、ウラジオストックを代表とする沿海州を基点とした東アジアにおける権益拡大、つまり、旧ソ連の樺太南部や千島列島の領土獲得、および、旧ソ連の中国東北部および朝鮮半島北部への進出の黙認であったように思う。(何の証拠もない)

 この時期の外交は、連合国各国の最高機密に属するものであって、日本側の知り得るものではなかったが、大戦後の国際情勢を見るに、合衆国が旧ソ連に多大な言質を与えたと想像される。(何の証拠もない)
 その際に、旧ソ連の視点から、合衆国が沖縄や小笠原諸島を領有化するのであるから、旧ソ連が、千島諸島にとどまらず北海道沿岸である北方領土まで領有化するのを黙認されたと感じたものと推定する。(何の証拠もない)

 かくて、旧ソ連の旧満州進攻による日本軍捕虜のシベリア抑留や戦後の旧ソ連による領土獲得が、国際的な黙認を得たものと推定する。つまり、現在問題の北方領土占拠は、合衆国の黙認が背景にあるものと思う。(何の証拠もない)

 しかし、沖縄および小笠原諸島は、本来の主権者である日本に返還されて久しい。となれば、現在のロシアによる北方領土占拠は、合理的な根拠を失うのではないか。(何の証拠もない)

 合衆国は、戦後処理の際、旧ソ連が行った、度を過ごした所行をとがめなかったことのつけを払うべきではないか。従って、合衆国は、両国の北方領土に関する交渉を仲裁する義務があると考えるものである。ロシアも、そのような経緯が明らかになれば、合衆国の顔を立てて、固執していた領土論で譲歩する根拠を得るのではないかと考えるのである。(個人的な意見である)

 以上は、何の権威もない一個人の勝手な推定であるから、とんでもない勘違いなのだろうが、勘違いなら勘違いで間違っていると教えていただきたいものである。
 とにかく、反論頂くだけで十分であり、呉々も当方のような弱小個人への攻撃にならないように祈るだけである。

以上

今日の躓き石 毎日新聞テニス記事賞賛 いや絶賛

                             2016/11/21
 今回の題材は、毎日新聞大阪夕刊のスポーツ面、世界1,2のテニスプレーヤーの決戦の戦評である。タイトルに書いているように、批判でなくほぼ全面的に褒めているので、安心して読んでいただきたい。

 勝者の談話を引用すると、「***のような選手には良いプレーをしないと勝てない。大事なポイントでやるべきことができた。」 つまり、自分の実力は対戦相手を凌いでいて、それを遺憾なく発揮するようにプレーし、遺憾なく発揮できたから勝てた、順当である、と言う意味であろう。
 真の実力者は、周囲から喝采されなくても、幸運に頼らなくても、勝つべくして勝つだけだ、とも受け取れ、まともに言われたら傲慢さに反発するだろうが、こうして謙虚に、控えめに言われたら、少しは自慢しろと言いたくなる。実力の世界の最高峰戦の勝者の談話として、まことに品格の高い言い方である。見事な報道である。

 ちなみに、勝者は、3時間を越える激戦を二度凌いだ果ての決勝であったが、終盤に多少疲れを感じたという程度で、全く問題にしていない。大事なのは、集中力に欠けたとか、体が動かなかったとか、動体視力が落ちたとかの原因で起きるとされているUnforced error、つまり、凡ミスが少なかったと言うことであり、それが、確かな「心技体」の表現というものであり、世界一位の実力というものであろう。

 一方、敗者は、(ベストを尽くして貪欲に闘ったが)大きな勝機がなかったとしているだけである。先ほどもあったように、どんな選手でも抑えきれない凡ミスが、自分の方に多く出た、と言うことの表現であろう。くだらない言い訳をしないのが、これもまたトッププレーヤーの品格であろう。
 また、今回の決勝賞金は、2億円を超える大金であるから、どちらの選手も欲しかったものだろうが、少なくとも最大の動機ではなかったと思うので、このようにさりげなく書くものである。

 さて、最後になるが、勝者談話の小見出しで「王者貪欲」と書いているのが、勝者への最大の賛辞であり見事である。

 今回の記事は、体格比較もなければ、年齢比較もなく、従来の戦績を引き合いに出さず、また、メンタルとかフィジカルとか、意味不明な言葉に逃げず、見事、と褒めたところで、末尾を見たら、共同通信の配信記事であった。

 記事に署名はないが、格調の高さと的確な書きぶりを絶賛したいものである。世の中には、これだけの記事を書ける記者がいるのである。

以上

今日の躓き石 毎日新聞の堕落また一つ リベンジ 

                             2016/11/21
 今回の題材は、毎日新聞大阪夕刊三版の社会面である。とかく刺激的な言葉に走り勝ちなスポーツ面ならともかく、紙面の規範たるべき社会面で、こんなひどい見出しにであうとは! 長生きしたくないものである。

 「リベンジ **へ秋波として、問題用語の後に某政党の党名が続いている。

 「女のこび」を売っているものの主語が書かれていない。おそらく、どこかの女性党首に対する揶揄なのだろうが、全国紙の品格も何もあったものではない。世に言う「セクハラ」である。
 言い寄られている色男に擬されている**も、秋波で転ぶと見なされて不満であろうが、ここは、特定の政党と結びつけた議論ではないので党名を伏せている。すぐわかることである。

 この見出しで次に問題なのは、「リベンジ」と言う言葉の意味が二種あることを見逃していることである。報道のプロたるものが、まるで、子供の落書きである。

 一つは、ISなどのテロリストが大義名分としている「復讐」である。しかも、本来、神の手に委ねるべき復讐を、自分たちが行うという「聖戦」の意までこめた悪質な言葉である。

 もう一つは、プロ野球に発して、若者社会ににはびこっている「再挑戦」と言う軽い、おどけた意味である。

 このように意味が不安定なカタカナ言葉を、社会面トップ記事に重用するとは、それだけで、もってのほかの杜撰さである。

 しかも、後者の意味は、一般の成人読者に浸透していないから、辞書など参照した上で悪質な意味ととられても仕方ないところだろう。以上が記事の真意なら、それを凝縮した見出しは、それなりに仕方ないかとなるが、本当に他に言い様はなかったのかと疑問が湧いてくる。、

 毎日新聞は、政治の世界の勝った負けたを血の抗争と見ていると解されても良いのだろうか。また、テロリストの論理を支持しているのだろうか。

 それとも、これは、大阪の選挙の話題だから、特別な因縁話があって、血が血を呼んでいると諷しているのだろうか。比喩にしても、もっと、穏当な言い方がありそうなものである。

 と言うことで、今回は、不穏当で不吉な見出しに遮られて、記事内容に目がいっていない。見出しが記事本体を表しているはずだから、そんな杜撰な記事は見るだけ時間の無駄と言うことである。

 校閲部は、誤字や事実関係のボロを拾うだけでなく、こうした深刻な齟齬を捉えて、本来の報道姿勢を回復してほしいものである。

 当方は、一購読者であるが、全国紙を愛読するのは、紙面に掲載されるまで、記事の吟味が十分成されている、銭のとれる記事であると信じているからである。
 担当記者の思いつきが、十分審議されないままに当方の手元に届くのであれば、紙形態の全国紙は、なくても良い
と思うのである。

以上

2016年11月20日 (日)

今日の躓き石 毎日新聞テニス記事 二態

                         2016/11/20
 今回の題材は、まずは、19日付毎日新聞夕刊大阪3版のスポーツ面に掲載されたテニス記事である。
 見出しは、日本選手が「突然崩れ逆転●」となっていて、見るからに、選手が自滅した、情けない試合だったとの印象を与えようとしている。

 戦評も、「突然の乱調で暗転した」と開始している。更に、「29本のミスを重ねフルセットで今後に不安を残す」と酷評しているのは、唐突で、心外である。その後にも、「ミスの連鎖」と咎めている。「ミス」は、Unforced errorのことだろうが、この数字自体だけ言い立てても、別に何も語っては居ないのではないか。当たり前の話だが、ミスしない選手はいないのである。そして、ミスは連発するものなのである。
 第3セットは、3-6であり、これはほぼ互角の勝負と見える。どこが、フルセットで不安を残すのか、書かれていない。
 談話も、かなり支離滅裂に引用されていて、「メンタル的に攻め」るのは、どんな攻め方なのか、「メンタル的に難しい」とは、何が、どう「難しい」のか、「事実不可能」なのか、対策がわかれば易しいのか、読者には混乱した感じしか伝わらない。
 それは、選手と読者の間に入った記者が、意図的に、選手の意図が伝わらないようにしたもののように感じる。このような言葉遣いは、事実かも知れないが、当然、意味が通らないカタカナことばでごまかそうとする談話に対しては、読者に伝わるようなことばになるまで問い返すべきではないかと思うのである。

 それにしても、非難に近い書きぶりの後、二日前の激闘の疲労は言い訳にしなかった「言及しなかった」という報道は淡々としていて不思議である。こうした、つまらない言い訳はしないという姿勢と引用されている談話は、繋がらないのである。

 この夕刊記事は、ここで負けたものの、リーグを勝ち抜き、優勝を目指している選手に浴びせる声援とは思えないのである。
 記者は、選手と違って勝ち負けのない場にいるし、一般読者の立ち入れない選手の身辺で質問できる特権を持っているのだから、テレビ観戦の一般人が画面に叱責を浴びせるのと同じような書きぶりには賛成できない
のである。

 当ブログは、主として、「メンタル」なる奇怪なカタカナ語に対して批判を続けているのだが、ここまでの批判は、書名こそないが、特定の記者の報道姿勢の個人攻撃になるのを懸念して、一度は公開を控えたものである。

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2016年11月18日 (金)

私の本棚 詩経 中国の古代歌謡 白川 静

                中公新書 220  1970年刊
          私の見立て★★★★★              2016/11/18

 著者白川静氏は、漢字学者として大変高名であるが、漢字学を志したのは、中国の古典である「詩経」の伝える古代歌謡に惹かれたのが、動機になっているとのことである。

 本書は、一般人を読者と想定して書かれた新書であり、いわば、著者が構築した「ミクロコスモス」とも言うべき、広大無辺の見識が、新書版著作に許される範囲と深さで盛り込まれていると思う。
 もちろん、読者は、本書を通読するだけで、書かれている全てを理解することを求められているものではないことは言うまでもない。

 詩経は、中国古代の周朝時代から伝わる「詩」を伝えるものであるが、古来、それらの詩は、政治的な意図を秘めた深遠なものとして解釈され、それ故「詩経」なる経典として尊重されていた。
 経典とされたため、広く写本を重ねて伝世され、時代を超えて珍重されているのだが、著者は、これらの詩には、庶民から貴族に及ぶ人々の喜怒哀楽が率直に記されていて、それ故に広く当時の人々の共感を得て唱和されていたと見ているようである。
 そのような一般に通じている歌謡を、当時の周王朝の宮廷楽員が書き止め、宮廷の祭事の場などで管弦の楽を奏するのに合わせて謳い上げたものが文書として残ったものと感じられた。

 もちろん、庶民と言っても、紙も印刷物もない時代であり、読み書きのおぼつかない庶民ではなく、豊かな語彙を有する、教養ある読書人である庶民であろうが、いくつかの詩に残されているように、農事や労役に額に汗する庶民であり、時には、戸籍に則って徴兵されて遠路の出征兵士となる庶民のようである。あるいは、書き留めた庶民の詩を今日伝わる形に書き整えた人たちがいたのかもしれない。

 現代の読者は、むしろ、そうした詩であるから、共感できるものと感じられるようである。古代から伝えられた詩文のそこここから、人を愛し、別離を悲しみ、哀悼を感じたものたちの声が聞こえるように思うのである。

 「唐風」に分類される詩である「葛生」は、文字通りに解釈するなら、「我が懐かしい人」を悼む美しい挽歌、つまり、悼亡の詩である。

 著者は、詩文の解釈を記した後、「哀切のうちにも、やさしい思いにあふれ」、「美しく、情愛のこもった」詩であるのに対して、漢代の経学者たちが、詩文の順当な解釈をすることなく、政治的な理由をつけたりして、詩の解釈をゆがめ、それが、はるか現代まで伝えられていることをなげき、「このような美しい詩編を残した古代の人々に相済まぬように思う」と、特筆すると言うより、一冊の著述の流れの中で、穏やかに語っていると感じた。

 著者のこのことばに耳を傾け、共感できたなら、自身の感性で詩経の個々の詩を読み解いてほしいものである。著者には、詩経に関して、更に広範に、かつ、深くその読みを披瀝した著作が残されている。
 著者には、「初期万葉集」「後期万葉集」の著書があることも言い添えておく。

以上

2016年11月17日 (木)

毎日新聞 歴史の鍵穴 懲りない地図妄想 またまた 本編

          私の見立て☆☆☆☆☆                2016/11/17

  大海人皇子の吉野宮 天智の宮の真南か
                  専門編集委員・佐々木泰造

 当連載の問題点の内、執拗なものは、毎回同一症状なので、本来は、またやっている程度で済むのだが、それでは、書いていてたまらないので、ちょっとずつ視点を変えて指摘するのである。それにしても、どう言えば、理解できるのかと困惑しているのである。

1.プログラムの権利侵害
 今回も、当記事で「カシミール3D」を引き合いにしているが、プログラム作者の権利を侵害していないだろうか。
 プログラム作者は、現代の環境、つまり、国土地理院の地図・地形データなど、動作確認済みのデータを使用する際には、表示対象となっている地形を正確に表示するように努めたはずである。(当然果たすべき機能として、暗黙の保証がされているのである)しかし、誰が考えても、それ以外の条件については、何の保証もできず、従って、責任もとれないはずである。

 つまり、いかなる地図データもない7世紀について、現時点の地図データを適用して地図化することは、「カシミール3D」の保証外と言うか論外であろう。また、地図上の遺跡、遺構の位置についても明らかに「カシミール3D」の保証外である。

 つまり、プログラム作者の保証できないような利用方法でありながら「カシミール3D」で作図したと表明して、読者が、記事の主張は、(信頼性に定評のある)「カシミール3D」で確認済みだから、根拠かある、と誤解させるのは、欺瞞行為であろう。

 まして、ここに示されているような使用方法は、「カシミール3D」のいわば改造に類するものであり、改造されたプログラムの動作結果に「カシミール3D」の名を冠して表示するのは、プログラム作者の権利を侵害しているものと思う。

 従って、常識で考えればわかるのだが、この記事で示されている図や距離、角度の数値は、記事筆者が「勝手に」、つまり、記事筆者が自己の責任の基に勝手に取り出したものであり、その旨明記して、「カシミール3D」に責任がないこと、免責を明記しなければならないと思うのである。

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毎日新聞 歴史の鍵穴 懲りない地図妄想 またまた

  大海人皇子の吉野宮 天智の宮の真南か
                  専門編集委員・佐々木泰造

          私の見立て☆☆☆☆☆                2016/11/17

 いや、懲りない(Die-hardest)というか、まだまだ(Yet yet more)と言うか、何というか、また、とんでもない記事が出てしまった。専門編集委員殿は、御自分の論説の破綻を全然然理解していないようだ。

 今回は、タイトルからして不吉である。「大海人皇子の吉野宮」と所有格で書かれているが、天皇でも無いものが「吉野宮」を所有できないのは自明である。明らかに「斉明天皇の吉野宮」と呼ぶしか無いものである。

 それにしても、積年の地図妄想が昂じたのだろうか、突然、権威ある全国紙の権威ある専門編集委員によって高らかに「吉野の宮」に比定された金峯山寺も大変な迷惑である。現在は、一見すると仏教寺院のような寺号であるが、山岳信仰から発した修験道の本山であり、俗世から離れた修験道の精進潔斎の修行の場であったと信じるものである。

 それが、実は、斉明女帝の行幸先として創設されて供宴の場などに供されていた、持統女帝は33回も金峯山寺を訪れていたなどは、ありえないのではないか。俗世の悪を逃れていたはずの精進潔斎の場が、天皇家の建てた場での天皇家の御用であった、つまり、俗世の取り付いた不浄の場であったのを隠していたことになる。とんでもない言いがかりではないかと危惧する。

 因みに、金峯山寺は山上にあり、冬季の気象は酷寒と言うべきだろう。近畿では、南に行くほど温暖な下界と異なり、吉野界隈は、南に行くほど寒冷地になる。
 行程の急峻さを言うと、近鉄電車は急勾配を登れないで、麓で終点である。当然、食料や水の搬入は至難の労苦である。

 歴史的事実として「金峯山は中国で書かれた『義楚六帖』(九五四年)にも「未だかって女人が登ったことのない山で、今でも登山しようとする男は三ヶ月間酒・肉・欲色(女性)を断っている」と記されている。」と指摘しているサイトもある。
 いや、当ブログ記事は、修験道に於ける女人禁制の是非を論じているのではなく、歴史的事実を指摘しているだけであると理解頂きたい。「大峯山・山上ヶ岳の女人禁制はどうして生まれたか?」: 山人のあるがままに 

 

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2016年11月12日 (土)

倭人伝の散歩道2017 倭人在帯方東南

                          2016/11/12
 倭人伝の読み直しは、劈頭の「倭人在帯方東南」のことばから入る。

 三国志の魏書の掉尾を成す倭人伝を「倭人在帯方東南」と説き起こす意義だが、国志の最有力読者である皇帝に対する思いやりとみるのである。

 従来未紹介の倭人について説き起こすとき、まずは、王朝の東夷統御の最前線である帯方郡から見て、どちらの方角に居るのかと知らせるものである。

 皇帝がそれで十分となれば、倭人伝講釈を終え次に進むことができる。

 各正史は「志」に「州郡志」ないしは「郡国志」を設け、各郡、国、州の地理情報として、帝都からの方位と距離、城数、戸数、口数を列記している。
 三国志は、「志」を備えていないが、親魏倭王に任じた以上、倭人伝に「国」の地理情報を書いたと見る。

 と言うことで、倭人伝では、まず、帝国の東夷に向けた前線である帯方郡を起点とした方位が開示されている。

 倭人伝は、倭国の北限界である狗邪韓國までの距離を「到其北岸狗邪韓國七千餘里」と中間報告した後、帯方郡から「倭国」都までの距離「自郡至女王國萬二千餘里」の必須情報を明示している。

 さらに、「南至邪馬壹國女王之所都 水行十日陸行一月」と、帯方郡から「倭国」都までの旅程、つまり、行程全日数が書かれている

 里数は示されているが、東夷の領域には街道の制度が存在しないので、里数だけでは何日かかるかわからないことから、魏使の行程実績などを基に所要日数を書いたのであろう。

 その後、城数は、国名を列記して示し、「倭国」全体の戸
は「可七萬餘戶」と報告したと見る。
 ここまで魏使が歴訪各国で申告を受けた戸数を足すと八萬戸を越えそうだが、倭国の持つ集計では、全国七萬餘戶となっていたのだろう。

 大事な口数を欠いているが、各国の戸籍情報が得られてないので集計できなかったのだろう。倭国王の生産力と動員兵力は、得られている戸数情報だけで計算されることになる。

  今回の結論
 倭人伝には、「倭国志」となる帯方郡治から倭国(倭人)への方位と距離、城数、戸数の地理情報が報告されている。

以上

2016年11月10日 (木)

今日の躓き石 参院議員の「リベンジ」礼賛

                           2016/11/10
 今回の題材は、毎日新聞大阪夕刊三版社会面である。

 スポーツ界は、闘志優先であるから、負けたら仕返しという風潮があるのは止めようもないが、国政の中枢に立つ参院議員が血なまぐさい復讐(revenge)を叫んだのには驚いた。まるで、テロを煽動しているようである。

 大体が、選挙には不正があるから、負けても、負けと認めないというのは、あちこちで品性を疑われている新大統領の選挙中の暴言で、大いに顰蹙を買ったものである。

 今回の発言は、発言の引用だけでなく、見出しでも謳われているから、その通りの言葉遣いなのだろうが、国政選挙に負けたときは、このように敗北した結果をののしり、血の復讐の誓いを叫び立てるものなのだろうか。

 現に、負けた候補者は、いさぎよく負けを公式に宣言している。それに対して、こうした野蛮な発言をするのは、その背をむち打っているのではないか。

 良識の府の選良のことばとは思えない。

以上

2016年11月 9日 (水)

私の意見 倭人伝 会稽「東治」「東冶」談義 9

会稽東冶談義 3

                              2016/11/09

 本筋に戻って、「会稽東冶」談義であるが、洛陽首都の魏朝及び西晋朝時代の史書としては、過誤と言うほどのものでなく、排除できないと思うのである。ただし、 会稽東治の東と書かれている史料を、「東治」の由来を知らないからと言って、そして土地勘があるからと言って、会稽東冶と書き換えた笵曄後漢書は粗雑である。

 まあ、史料批判として邪道であるが、三国志に投げかけられた疑惑との公平を期すために後漢書の危うさを指摘する。

 劉宋時代に編纂された後漢書笵曄版は、「反逆の大罪」で実子共々死刑に処せられた大罪人の著作であり、唐時代になって、章懐太子の注と集大成を得て、正史の一角に浮上するまで、南朝に限っても、劉宋、南斉、梁、陳と進み、続いて、統一王朝隋に取り込まれるまで、時の変遷に伴い、私撰史書が個人的に写本、継承されていく中で、正確に書写されたかどうか不明なのである。

 特に、東晋に始まる六朝時代は、西晋期まで維持されていた書写の伝統が、南方への逃避の際に、損傷した可能性があり、かたや、細部が省略された字体である草書風の書体が普及していったので、個人的写本が、厳格に行わけなかったのではないかと、大いに懸念されるのである。

 章懐太子の注釈時には、整然とした写本が供されたであろうが、一度、略字体で写本されて、細部が変質したとすれば、原文は復元できないのである。

 笵曄が編纂した後漢書は、章懐太子の注釈、集大成の際に廃棄され、写本といえども残っていないので、実態はわからない。

 また念押しだが、当ブログ筆者は、笵曄に深い敬意を表しているのだが、それ故に、後漢書の難点を率直に指摘し、火と水の「試錬」に供するのである。

 この項終わり

私の意見 倭人伝 会稽「東治」「東冶」談義 8

会稽東冶談義 2 

                        2016/11/09

 古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』に東冶県論が書かれている。古田氏説は、会稽郡南部を建安郡として分離した永安三年(260年)の分郡以前は会稽郡東冶県であり、会稽となっているが、分郡以降は、東冶県は建安郡であり、建安となったとしている。陳寿の執筆時点は、会稽郡東冶県でなく建安郡東冶県であるとの主張であり、ごもっともと思える。次ページで笵曄の後漢書編纂時点では東冶県が会稽郡に復帰していたと図示している。

 まずは、この最後の指摘が、引っかかる。会稽郡が分割されてるのは、広大な地域を郡太守が統御しきれないという事情によるものであった。つまり、後漢途中までは政治経済的に未発達だったので、何とか、郡北部である会稽から、南方の東冶を統括できたが、郡治会稽と東冶の間は、福州の険阻な山地に阻まれ、僻南の東冶には監督が行き届かないので、一旦南部都尉を設けた後、永安分郡となった。

 こうして分離した南部諸縣を会稽郡に復元するだろうか。

 東呉時代は当然として、晋朝南遷による東晋朝以降の南朝時代にも、福州、広州は政権の基盤であり、分郡後の新設建安郡すら広すぎて晋安郡と二分するのである。 古田氏が書く東冶県の会稽郡復帰は無かったのである。

 また、分郡まで東冶県があったわけではない。分郡以前に南部都尉を設け、東冶県自身、既に候官県と改名され会稽郡東冶県はなくなっていた。古田氏指摘の呉書記事で「会稽東冶(五県)の賊」というが、東冶県でなく東冶地域の意味合いであり、五県は建安、侯官、漢興、南平、建平である。

 というものの、いつ会稽郡南部が会稽郡太守の管轄を外れて、会稽南部都尉の管轄になったかはっきりしない。会稽南部都尉就任記事はあっても都尉新設の記事は無い。或いは、遙か以前から置かれていた可能性がある。

 また、三国志の引用と見られる東夷伝記事以外では、後漢書に東冶県は出てこない。後は、三国志呉書の記事を拾い集めるしかない。なお、陳寿は、少なくとも、呉書記事で原史料の取捨選択しても県名、郡名の考証まではせず、素材そのままなのであろう。細部に疎漏があるようである。

 と言うことで、この下りは、古田氏の勇み足で、論証が半ば空振りに終わっているようである。いや、失敗しているのは絵解きであり、倭人伝記事は会稽東治であり、東冶でなかったという点は、かなり分のある議論と思う。

私の意見 倭人伝 会稽「東治」「東冶」談義 7

会稽東冶談義 1

                        2016/11/09

 「冶」と言う漢字は、比較的珍しいもので、今日でも、「冶金」と言う熟語で使用されている程度である。鉱石を焼いて精錬して金属を得るとか、鉄材を火で焼いて鍛錬して鋼材にするとか、「冫」の示す通り、火の試錬を伴う。

 通典の説くところでは、東冶は、「閩越」と呼ばれる地域で、秦時代は閩中郡とされた。漢の高祖がここに閩越国を設けて無諸を(劉氏ではない異姓の)王としたが、後に(他の異姓と同様に)滅ぼされた。住民が逃亡して荒廃したので、会稽郡の管轄下で「冶県」として再建を図った。「冶」とは、春秋時代末期西南の覇者となった越王(勾践及びその後継者)が、この地で鉱山開発して金属精錬を行ったことによる。後に、県名を二字にして「東冶県」と改めた。後漢は、この地域を会稽郡侯官都尉(管轄)とした。合わせて、東冶県を廃して侯官県としたのかも知れない。

 後、会稽郡の南部を会稽南部都尉(管轄)とした。一旦会稽東部都尉の管轄となった後、会稽南部都尉と改定したと書かれている例もあるが、会稽東部は、後に臨海郡となった会稽東部地域という可能性が強い。

 後漢末期の建安年間、会稽郡が新興の孫策配下に入ったような戦乱期であり、中央政府も董卓の暴政後で混乱して、記録に乱れがあったようであり、確かなことは不明である。

 更に、会稽郡は、建康を首都とする孫権東呉の支配下に入ったが、中国の政権交代時の例に従えば、郡治以下の地方組織は、公文書類もろともに継承されたはずである。

 と言うように、会稽郡の管轄地域変遷の経緯が判然としないのは、当時の正史たる後漢書に、このあたりの記事がないためである。

 肝心の東冶県すら、東夷列伝以外は、列伝の一箇所に、東冶と書かれているだけで、東冶県は見当たらない。正史に書かれていないのでは事情不明となるが、「会稽郡東冶県」と後漢の公文書に明記されていないのは、不審である。

 後漢書東夷列伝の「倭」記事が、三国志の引き写しとすると、後漢書独自記事に「東冶県」は無いのではないか。

 と言うことで、細かいところに深入りするのである。

追記:                       (2016/11/15)

 都尉は、秦朝各郡に郡太守に次いで設置された「郡尉」が、漢景帝時に名称変更になったものである。帝国中心部諸郡では、各郡に都尉一名だが、会稽郡のような辺境の諸郡では、郡の東西南北を担当する都尉四名、例えば東部尉などを置いたとのことである。
 都尉は、官制で種々設けられていて「雑号」の感があるが、郡都尉が本来の都尉である。
 従って、上記会稽南部都尉は、漢時代以来続いていた衆知の官位のようである。
 案ずるに、東冶県あたりは、会稽郡治から遠隔の僻地であったので、半ば独立していたようで、郡の配下の県と言うより、ほとんど郡に近い状態であったと思われる。

私の意見 倭人伝 会稽「東治」「東冶」談義 6

会稽東縣談義 資料

         出所 中国哲学書電子化計劃
論衡 遭虎 東漢 80年 王充著   
 會稽東部都尉禮文伯時,羊伏廳下,其後遷為東萊太守。
三國志 吳書八 張紘傳:   
 建安四年,策遣紘奉章至許宮,留為侍御史。曹公聞策薨,欲因喪伐吳。紘諫,以為乘人之喪,旣非古義,若其不克,成讎棄好,不如因而厚之。曹公從其言,即表權為討虜將軍,領會稽太守。曹公欲令紘輔權內附,出紘為會稽東部都尉。
三國志 吳書十二 虞翻傳:   
 翻與少府孔融書,并示以所著易注。融荅書曰:「聞延陵之理樂,覩吾子之治易,乃知東南之美者,非徒會稽之竹箭也。又觀象雲物,察應寒溫,原其禍福,與神合契,可謂探賾窮通者也。」會稽東部都尉張紘又與融書曰:「虞仲翔前頗為論者所侵,美寶為質,彫摩益光,不足以損。」
三國志 吳書十五 全琮傳
 全琮字子璜,吳郡錢唐人也。父柔,漢靈帝時舉孝廉,補尚書郎右丞,董卓之亂,棄官歸,州辟別駕從事,詔書就拜會稽東部都尉。
三國志 吳書十六 潘濬傳
 玄字文表,丹楊人。父祉,字宣嗣,從孫堅征伐有功,堅薦祉為九江太守,後轉吳郡,所在有聲。玄兄良,字文鸞,隨孫策平定江東,策以為會稽東部都尉,卒,玄領良兵,拜奮武中郎將,以功封溧陽侯。
三國志 吳書三三 孫亮傳:   
 二年春二月甲寅,大雨,震電。乙卯,雪,大寒。以長沙東部為湘東郡,西部為衡陽郡,會稽東部為臨海郡,豫章東部為臨川郡。。

 王充「論衡」は、一世紀後半の完成のようであるから、會稽東部都尉の職は、少なくとも前漢末期まで遡るものと思われる。都尉は、県単位で置かれるものだから、その時点で、會稽東部都尉の所管する會稽東部なる、県に相当する行政区画が存在していたことになる。後に、會稽東部は昇格して、臨海郡となったとのことである。

後漢書 東夷列傳   
 倭在韓東南大海中,依山島為居,凡百餘國。自武帝滅朝鮮,使驛通於漢者三十許國,國皆稱王,世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。 樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東,與朱崖、儋耳相近,故其法俗多同。
後漢書 東夷列傳   
 會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。
 傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承有數萬家。人民時至會稽市。
 會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者。所在絕遠不可往來。

私の意見 倭人伝 会稽「東治」「東冶」談義 5

会稽東縣談義 2 
                              2016/11/09

 陳壽は、三国志編纂時に、曹魏資料を利用して東夷伝をまとめたのだが、その際に、呉書にしかない東鯷人と夷洲及澶洲の記事を呉主傳から引用したものと思われる。

三國志 魏書三十 東夷列傳
 會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。
 傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承,有數萬家。人民時至會稽市。
 會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絕遠不可往來。

 東鯷人に関する記事の考察は、別項に譲るが、それ以外、魏書記事の「會稽東冶縣」と呉書記事の「會稽東縣」は、同一資料の解釈が異なったものであろう。

 同一編者の史書内の二択であるが、呉書の呉主傳は君主の列伝記事であって、本来の呉由来の史料を直接引用していると思われる。これに対して、魏書東夷伝記事は、この呉書記事を転用したものであり、転用の際に、担当者の手により、省略と言い換えが発生したもののようである。
 この判断に従うと、もともと「會稽東冶縣」はなかったのである。

後漢書 東夷列傳:   
 會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。
 傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承有數萬家。人民時至會稽市。
 會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絕遠不可往來。

 三国志記事を利用したと思われる後漢書を忖度する。笵曄が後漢書を編纂したのは、劉宋首都でなく太守で赴任した宣城(現在の安徽省 合肥附近か?)である。流刑でないので蔵書を伴ったろうが、利用できた三国志写本は、門外不出の帝室原本から数世代を経た私写本と思われる。

 数世代の個人的写本の継承中に、達筆の草書写本が介在した可能性もあり、それ故に、諸処で誤写や通字代用があったと懸念される。手元に相互参照して校勘できる別資料があれば、笵曄は、当然是正したであろうが、東夷記事には別資料が乏しく、手元の三国志写本に依存したと思えるのである。

 この点、ほぼ同時代に、劉宋皇帝の勅命で三国志原本に注釈を施した裴松之が、ほぼ厳密に写本校正された官蔵写本を参照したと思われるのと大きく異なるものである。

                         未完

私の意見 倭人伝 会稽「東治」「東冶」談義 4

会稽東縣談義 1

                       2016/11/09

 三国志呉書と魏書に、会稽東縣に関する記事がある。

 依拠史料は一つであり、呉書と魏書にそれぞれ引用されたと思われる。同一の記事のはずが一致していないので、関連史料の批判として、どちらが正確な引用なのか考察を加える。

 会稽は、江水と沿岸の交易から大いに繁栄したと思われる。経済活動に即して、会稽東部諸縣を監督する部署を設け課税したと推測される。そこで登場したのが、会稽東縣都尉であり、また、東呉に会稽東縣なる地区区分があったはずである。

会稽東縣 呉書 
三國志 吳書二 吳主傳
 (黄龍)二年春正月(中略)
 遣將軍衞溫、諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。
 亶洲在海中,長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民,時有至會稽貨布
 會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。所在絕遠,卒不可得至,
 但得夷洲數千人還。

 呉主傳が伝えるのは、呉主、即ち(自称)皇帝孫権が、衞溫、諸葛直の両将に指示して、兵一万人と共に、夷洲及澶洲を求めて、東シナ海に出航させた事例である。背景として、秦始皇帝時代に、方士徐福が亶洲に向けて出航し帰還しなかった。現地で数万戸の集落に発展して、ときに、会稽に商売に来る。と挿入句風に、「史実」を引用している。

 「会稽市」と書く以上、それは、郡名でなく地名の会稽を指しているとみられるのである。よって、引き続いた「會稽東縣」は、南方の会稽郡東冶県でなく、会稽の沿海部と見られる。

 筑摩版正史三国志では、呉主傳の「會稽東縣人」を「會稽郡東部の住民」としているが、以上の考察に照らすと、誤訳に近いものである。

 ここで言う会稽は、南方東冶を含めた会稽郡を言うのではなく、著名な地名としての会稽の周辺なのである。

私の意見 倭人伝 会稽「東治」「東冶」談義 3

会稽郡小史

                          2016/11/09

 会稽郡は、河川交通と沿岸交通の要所を占めて開発が進み、ここに郡治を置いて、はるか南方辺境まで郡域に含めて管轄する体制が作られたものと見えるが、東冶県などの南部諸縣は、直線距離で四百五十公里(㌔㍍)の遠隔地である上に、会稽郡治からの陸上交通が海岸に迫る険阻な山地に阻まれたため、後年に至るまで、この間の道路整備は進まず、交通困難であったと思われる。

 秦、漢、魏と政権が推移しても、郡は、帝国地方行政区分の中で最上位であり、小王国と言えるほどの自治権を与えられていて、郡治は、地方政府組織を持ち、自前の軍隊も持っていた。また、管内諸縣から上納された収穫物を貯蔵していた。また、管内の治安維持のために、郡太守の権限で制圧軍を派遣することが許されていた。つまり、税務・軍務の自治があった。

 しかし、全域統治の視点では、郡治は、南部諸縣との交信が不自由であり、また、遠距離で貢納収納も困難であった。治安維持で郡兵を派遣するにも、行程の宿泊、食料調達がおぼつかず、結局、南方諸縣は、反乱さえなければ良いと言うことで、各県の自治に任せていたことと思う。

 しかし、後漢末期に会稽に乗り込んだ孫策は、会稽太守につくと共に、江南での基盤固めのため強力に支配拡大を進めた。

 後に自立した東呉が各地の開発を進めていく事態になると、会稽郡から南部諸縣を分離して、建安郡の新設(ここでは分郡と呼ぶ)が必要になった。

 新設建安郡は、東呉皇帝直下の郡としての強い権限を与えられ、郡兵による郡内の治安維持が可能になり、また、郡内各地の開発を強力に進めることができるようになった。

 もちろん、その背景には、郡治の組織体制を支えられるだけの税収が得られたことがある。つまり、それまでは、「建安郡」管内の産業は、郡を維持するのに十分な税収を得られる規模になっていなかったのである。

私の意見 倭人伝 会稽「東治」「東冶」談義 2

會稽東治 2  禹の東治
                       2016/11/09      
 一見意味不明な禹の東治であるが、白川静氏の著書に啓発されて、以下のように解しているのである。

 「治」とは、殷周から秦漢にいたる中国古代にあっては、文字通り「治水」の意であり、後に、水を治める如く人を治めるこことを「治世」と表したのではないか。

 よって、河水(黄河)の治水にその治世の大半を過ごし、「水」を治めるものとして尊崇を集めた禹が、晩年に至って東行して江水(長江、揚子江)下流、会稽に至り、長江流域からも諸侯を集め、治水の功績を評価したのではないか。

 禹は、元来江水流域に勢力を持っていたという伝承もあり、続いて、河水の治水をも極めたことから、中原、河水流域にとどまらず、九州(中国全土)が禹の威光の下に統一されたと評価されたのではないか。

 いや、この記事は、伝説の治水の君主としての禹を頌えるものであり、現実に、九州全土をその権力の及ぶ範囲としたことを示したものではないことは言うまでもない。

 ちなみに、白川氏は、禹には、治水を極めた夏王朝創業者としてとしての顔と、それ以前の伝説で洪水神として畏れられる顔とがあると語るが、史書は、もっぱら、夏王朝の始祖、治水者禹を語っている。

 ここでは、東治と「東」の字が用いられて二字であるが、江水下流地域は江東と呼ばれていて、その意味の東治であろう。

 会稽郡を命名した李斯は、その教養として、禹伝承を把握していて、河水上流で西に偏した咸陽に都した秦の支配力を、遙か東方の会稽に及ばせ、東方治世の拠点としたのではないか。

 白川氏によれば、治の旁である台は、耕作地に新たに農耕を開始する儀礼であり、古代音は、「イ」であったとのことである。さんずいのついた「治」も、本来、水によって台を行う、つまり、水を統御して農耕を行う意味であり、やはり、古来「イ」と発音したように思うのである。後に、台が臺(高台)の通字となり、タイ、ダイと発音されるのが通例となったが、怡土郡(イド)の発音に形跡が残っている。

  いや、当然とした解釈が当然でないのである。

以上

私の意見 倭人伝 会稽「東治」「東冶」談義 1

會稽東治 1   東治之山
                          2016/11/09
 定説では、倭人伝の「會稽東治」には典拠がなく、会稽東冶の誤写とあるが、そう簡単な話では無いと思う。

 「會稽東治」とは、史記夏本紀の「或言禹會諸侯江南,計功而崩,因葬焉,命曰會稽。」と言及している歴史的な事跡に因む、由緒来歴のある會稽「東治之山」を指すものであり、「東治之山」とは、具体的には会稽山をさすものと考える。

 水経注および漢官儀で、会稽郡名の由来として書かれている記事があるが、現在「東冶之山」と作っている写本が見られる。

 秦用李斯議,分天下為三十六郡。凡郡,或以列國,陳、魯、齊、吳是也;
 或以舊邑,長沙、丹陽是也;或以山陵,太山、山陽是也;或以川源,西河、河東是也;或以所出,金城城下有金,酒泉泉味如酒,豫章章樹生庭中,鴈門鴈之所育是也;
 或以號令,禹合諸侯,大計東冶之山,會稽是也。

 では、「東冶」が正しいのかと思いたくなるが、会稽郡名の由来に「東冶之山」が登場する謂われはなく、禹の事績に因んで「東治之山」と校勘した写本を採用するべきと考える。

 また、中国の地名表記で、「会稽東冶」は、「会稽」(地域)と「東冶」(地域)と読むのであり、会稽郡の東冶県をさす場合は、「会稽東冶県」と明記する。これらの書きわけは、後漢書倭傳に揃って現れているが、笵曄は倭人傳の会稽東治の意義を理解できずに東治は地名にないから、東冶の誤記と即断して校勘したものと思われる。

 更に念押しするなら、ここで書かれている各郡命名は、秦始皇帝の全国統一の際に、重臣である李斯が決定したものであり、その時点、「東冶」なる地名は存在しないので、ここに、東冶と書くのは、時代錯誤なのである。水経注と漢官儀は、後世の編纂であるが、李斯の提言の記録なので、遠く遡るのである。

 ちょっと厳しすぎる議論になりそうだが、正直言って、漢字の「さんずい」(水)を、ちょっと間違えて「にすい」(火)に書いてしまうのは、それほど珍しいことではなく、時に、通字になって辞書に堂々と載っているくらいである。

 ただし、それは、さんずいの漢字をにすいにした字がなくて、誤字にならないと言うことが前提である。東治と東冶のように、さんずいとにすいで、字義が異なる場合は、きっちり書き分け、読み分けしなければならない。

未完

2016年11月 5日 (土)

今日の躓き石 サッカーにおける身体能力とフィジカルの違い

                  2016/11/05
 今回の題材は、例によって、毎日新聞大阪13版スポーツ面である。
 それにしても、例によって、毎日新聞による現サッカーA代表監督の描写は、手厳しいものがある。

 今回は、15日のサウジ戦に備えて相手チームの戦力分析を語っているらしいが、三点の指摘で、第一点で、「(優れた?身体)能力がある」と語ったのに続いて、第二点で「フィジカルも強い」と意味の安定しないカタカナ語を使っている。つまり、現監督の語彙では、「フィジカル」は、身体能力とは別項を立てるほど異なっているものらしいが、詳しくはわからない。
 それにしても、毎回思うのだが、監督自身英語を常用せず、記者も読者も英語を理解できないので、カタカナ語に読み替えている状況で、こういう意思の伝わらないしゃべり方を報道されるのは、協会側通訳の不手際なのか、新聞記者の開き直りなのか、結果として読者に迷惑であろう
 三点目には、戦術的にも良くなっていると言うが、サッカーの試合で戦術と言えば、あれこれ細かい手口であろうが、従来、何が、サウジの戦術だったのか、どんな手口が加わったのか読者にはわからない。つまり、良くなっていると言われても、混沌とした印象を与えるだけである。監督にしたら、サウジチームの分析は以前喋ったから、重ねて言わないと言うことだろうが、報道の段階までに補充してもらわないと、読者にはわからない。

 また、日本代表に望むのは、(1)個人技を抑え、(2)チームプレーに重点を掛け、(3)「アグレッシブ」に勝利を追求する、とこれまた、意味の通らない三点の言いぐさで報道されている。カタカナ語であっても「アグレッシブ」は、ほぼ、「攻撃的」と解されているから、大体の意思は通じるだろうが、これら三点をまとめて、どう実現していくのか、各選手は、解釈に困るだろう。

 大体が、ほとんど、戦略も戦術もことなるチームで一人戦っている選手を寄せ集めてチームにして、短期間の合宿で、監督好みのチームプレイを仕込もうとしても、これは大変な難業である。と言うことで、ぐるぐる思い巡らしても、指示された三点の実現には困惑するだろう。

 以前の報道で、チームの不振の原因を問われて、欧州トップクラスのチームで成果を出しているメンバーが大勢いるから、(アジアでは楽に)勝てると思ったのに、それぞれ、先発を外されて出場機会が無くなっているのは、当て外れだ、との趣旨の発言があったようだが、今回も、実際は、欧州で活躍している選手の「個人力」を当てにしているように見える。

 それにしても、当記事は、中程の目立つ見出しで「閉塞感」と決めつけているが、欧州リーグで各選手が遠ざけられているのが作用しているのだろうが、少なくとも、当面の予選では、当面の相手にいかに勝つかが大事であって、欧州リーグのチームでいかに活躍するかと言うことではないので、くよくよせずに割り切って頂きたいものである。新聞報道が、「メンタル」な縛りを掛けているのでなければ幸いである。

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2016年11月 1日 (火)

今日の躓き石 日本人は「リベンジ」教徒か~ボクシング篇

                            2016/11/01
 今回の題材は、毎日新聞夕刊3版スポーツ面のボクシング記事である。

 今年4月に負けて12回目の防衛に失敗した元チャンピオンが、負けた相手と大みそかに再試合するという発表の記者会見に対する外国人記者の質問が契機であるが、その外国人(欧米人かアジア人なのか不明なのだが)が日本語で質問したすれば、そのまま受け取れるのだが、通訳のせい(誤訳)かもしれないことを断っておく。

 ともかく、質問が、再戦を「リベンジ」、つまり、血なまぐさい復讐戦と例えていたのに対して、その言葉で返さずに、「借りを返す」と言い換えて復讐談義を回避したことで、無難に収まったかと思ったが、その場の回答かどうか不明だが、「リベンジすることだけを考えてやりたい」と言い直していて、王者は、内心「リベンジ」と「借りを返す」が同義語になっている(単なる思い違いであれば、幸いである)ものと見える。

 結果として、見出しにも起用されている「借りを返す」と言う柔らかいことばが、真意として血なまぐさい「リベンジ」の意味となり、たとえ個人的な意見にしても、「日本人は、(宗教による復讐の戒めがないから)みんな、やられたことに「とことん」復讐して仕返しをしないと気が済まない」と主張したことになり、それは、日本人としてご勘弁頂きたいのである。

 毎度思うのだが、全国紙の記者ともあろう者が、どうして、たちの悪い言葉遣いの普及に手を貸すのだろうかと歎くのである。
 これでは、「リベンジ」と言うことば、そのものを使わなくても、その志が拡散することになるのである。

以上

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