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2016年11月 9日 (水)

私の意見 倭人伝 会稽「東治」「東冶」談義 7

会稽東冶談義 1

                        2016/11/09

 「冶」と言う漢字は、比較的珍しいもので、今日でも、「冶金」と言う熟語で使用されている程度である。鉱石を焼いて精錬して金属を得るとか、鉄材を火で焼いて鍛錬して鋼材にするとか、「冫」の示す通り、火の試錬を伴う。

 通典の説くところでは、東冶は、「閩越」と呼ばれる地域で、秦時代は閩中郡とされた。漢の高祖がここに閩越国を設けて無諸を(劉氏ではない異姓の)王としたが、後に(他の異姓と同様に)滅ぼされた。住民が逃亡して荒廃したので、会稽郡の管轄下で「冶県」として再建を図った。「冶」とは、春秋時代末期西南の覇者となった越王(勾践及びその後継者)が、この地で鉱山開発して金属精錬を行ったことによる。後に、県名を二字にして「東冶県」と改めた。後漢は、この地域を会稽郡侯官都尉(管轄)とした。合わせて、東冶県を廃して侯官県としたのかも知れない。

 後、会稽郡の南部を会稽南部都尉(管轄)とした。一旦会稽東部都尉の管轄となった後、会稽南部都尉と改定したと書かれている例もあるが、会稽東部は、後に臨海郡となった会稽東部地域という可能性が強い。

 後漢末期の建安年間、会稽郡が新興の孫策配下に入ったような戦乱期であり、中央政府も董卓の暴政後で混乱して、記録に乱れがあったようであり、確かなことは不明である。

 更に、会稽郡は、建康を首都とする孫権東呉の支配下に入ったが、中国の政権交代時の例に従えば、郡治以下の地方組織は、公文書類もろともに継承されたはずである。

 と言うように、会稽郡の管轄地域変遷の経緯が判然としないのは、当時の正史たる後漢書に、このあたりの記事がないためである。

 肝心の東冶県すら、東夷列伝以外は、列伝の一箇所に、東冶と書かれているだけで、東冶県は見当たらない。正史に書かれていないのでは事情不明となるが、「会稽郡東冶県」と後漢の公文書に明記されていないのは、不審である。

 後漢書東夷列伝の「倭」記事が、三国志の引き写しとすると、後漢書独自記事に「東冶県」は無いのではないか。

 と言うことで、細かいところに深入りするのである。

追記:                       (2016/11/15)

 都尉は、秦朝各郡に郡太守に次いで設置された「郡尉」が、漢景帝時に名称変更になったものである。帝国中心部諸郡では、各郡に都尉一名だが、会稽郡のような辺境の諸郡では、郡の東西南北を担当する都尉四名、例えば東部尉などを置いたとのことである。
 都尉は、官制で種々設けられていて「雑号」の感があるが、郡都尉が本来の都尉である。
 従って、上記会稽南部都尉は、漢時代以来続いていた衆知の官位のようである。
 案ずるに、東冶県あたりは、会稽郡治から遠隔の僻地であったので、半ば独立していたようで、郡の配下の県と言うより、ほとんど郡に近い状態であったと思われる。

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