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2016年11月 9日 (水)

私の意見 倭人伝 会稽「東治」「東冶」談義 6

会稽東縣談義 資料

         出所 中国哲学書電子化計劃
論衡 遭虎 東漢 80年 王充著   
 會稽東部都尉禮文伯時,羊伏廳下,其後遷為東萊太守。
三國志 吳書八 張紘傳:   
 建安四年,策遣紘奉章至許宮,留為侍御史。曹公聞策薨,欲因喪伐吳。紘諫,以為乘人之喪,旣非古義,若其不克,成讎棄好,不如因而厚之。曹公從其言,即表權為討虜將軍,領會稽太守。曹公欲令紘輔權內附,出紘為會稽東部都尉。
三國志 吳書十二 虞翻傳:   
 翻與少府孔融書,并示以所著易注。融荅書曰:「聞延陵之理樂,覩吾子之治易,乃知東南之美者,非徒會稽之竹箭也。又觀象雲物,察應寒溫,原其禍福,與神合契,可謂探賾窮通者也。」會稽東部都尉張紘又與融書曰:「虞仲翔前頗為論者所侵,美寶為質,彫摩益光,不足以損。」
三國志 吳書十五 全琮傳
 全琮字子璜,吳郡錢唐人也。父柔,漢靈帝時舉孝廉,補尚書郎右丞,董卓之亂,棄官歸,州辟別駕從事,詔書就拜會稽東部都尉。
三國志 吳書十六 潘濬傳
 玄字文表,丹楊人。父祉,字宣嗣,從孫堅征伐有功,堅薦祉為九江太守,後轉吳郡,所在有聲。玄兄良,字文鸞,隨孫策平定江東,策以為會稽東部都尉,卒,玄領良兵,拜奮武中郎將,以功封溧陽侯。
三國志 吳書三三 孫亮傳:   
 二年春二月甲寅,大雨,震電。乙卯,雪,大寒。以長沙東部為湘東郡,西部為衡陽郡,會稽東部為臨海郡,豫章東部為臨川郡。。

 王充「論衡」は、一世紀後半の完成のようであるから、會稽東部都尉の職は、少なくとも前漢末期まで遡るものと思われる。都尉は、県単位で置かれるものだから、その時点で、會稽東部都尉の所管する會稽東部なる、県に相当する行政区画が存在していたことになる。後に、會稽東部は昇格して、臨海郡となったとのことである。

後漢書 東夷列傳   
 倭在韓東南大海中,依山島為居,凡百餘國。自武帝滅朝鮮,使驛通於漢者三十許國,國皆稱王,世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。 樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東,與朱崖、儋耳相近,故其法俗多同。
後漢書 東夷列傳   
 會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。
 傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承有數萬家。人民時至會稽市。
 會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者。所在絕遠不可往來。

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