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2016年11月 9日 (水)

私の意見 倭人伝 会稽「東治」「東冶」談義 9

会稽東冶談義 3

                              2016/11/09

 本筋に戻って、「会稽東冶」談義であるが、洛陽首都の魏朝及び西晋朝時代の史書としては、過誤と言うほどのものでなく、排除できないと思うのである。ただし、 会稽東治の東と書かれている史料を、「東治」の由来を知らないからと言って、そして土地勘があるからと言って、会稽東冶と書き換えた笵曄後漢書は粗雑である。

 まあ、史料批判として邪道であるが、三国志に投げかけられた疑惑との公平を期すために後漢書の危うさを指摘する。

 劉宋時代に編纂された後漢書笵曄版は、「反逆の大罪」で実子共々死刑に処せられた大罪人の著作であり、唐時代になって、章懐太子の注と集大成を得て、正史の一角に浮上するまで、南朝に限っても、劉宋、南斉、梁、陳と進み、続いて、統一王朝隋に取り込まれるまで、時の変遷に伴い、私撰史書が個人的に写本、継承されていく中で、正確に書写されたかどうか不明なのである。

 特に、東晋に始まる六朝時代は、西晋期まで維持されていた書写の伝統が、南方への逃避の際に、損傷した可能性があり、かたや、細部が省略された字体である草書風の書体が普及していったので、個人的写本が、厳格に行わけなかったのではないかと、大いに懸念されるのである。

 章懐太子の注釈時には、整然とした写本が供されたであろうが、一度、略字体で写本されて、細部が変質したとすれば、原文は復元できないのである。

 笵曄が編纂した後漢書は、章懐太子の注釈、集大成の際に廃棄され、写本といえども残っていないので、実態はわからない。

 また念押しだが、当ブログ筆者は、笵曄に深い敬意を表しているのだが、それ故に、後漢書の難点を率直に指摘し、火と水の「試錬」に供するのである。

 この項終わり

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