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2016年11月 9日 (水)

私の意見 倭人伝 会稽「東治」「東冶」談義 8

会稽東冶談義 2 

                        2016/11/09

 古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』に東冶県論が書かれている。古田氏説は、会稽郡南部を建安郡として分離した永安三年(260年)の分郡以前は会稽郡東冶県であり、会稽となっているが、分郡以降は、東冶県は建安郡であり、建安となったとしている。陳寿の執筆時点は、会稽郡東冶県でなく建安郡東冶県であるとの主張であり、ごもっともと思える。次ページで笵曄の後漢書編纂時点では東冶県が会稽郡に復帰していたと図示している。

 まずは、この最後の指摘が、引っかかる。会稽郡が分割されてるのは、広大な地域を郡太守が統御しきれないという事情によるものであった。つまり、後漢途中までは政治経済的に未発達だったので、何とか、郡北部である会稽から、南方の東冶を統括できたが、郡治会稽と東冶の間は、福州の険阻な山地に阻まれ、僻南の東冶には監督が行き届かないので、一旦南部都尉を設けた後、永安分郡となった。

 こうして分離した南部諸縣を会稽郡に復元するだろうか。

 東呉時代は当然として、晋朝南遷による東晋朝以降の南朝時代にも、福州、広州は政権の基盤であり、分郡後の新設建安郡すら広すぎて晋安郡と二分するのである。 古田氏が書く東冶県の会稽郡復帰は無かったのである。

 また、分郡まで東冶県があったわけではない。分郡以前に南部都尉を設け、東冶県自身、既に候官県と改名され会稽郡東冶県はなくなっていた。古田氏指摘の呉書記事で「会稽東冶(五県)の賊」というが、東冶県でなく東冶地域の意味合いであり、五県は建安、侯官、漢興、南平、建平である。

 というものの、いつ会稽郡南部が会稽郡太守の管轄を外れて、会稽南部都尉の管轄になったかはっきりしない。会稽南部都尉就任記事はあっても都尉新設の記事は無い。或いは、遙か以前から置かれていた可能性がある。

 また、三国志の引用と見られる東夷伝記事以外では、後漢書に東冶県は出てこない。後は、三国志呉書の記事を拾い集めるしかない。なお、陳寿は、少なくとも、呉書記事で原史料の取捨選択しても県名、郡名の考証まではせず、素材そのままなのであろう。細部に疎漏があるようである。

 と言うことで、この下りは、古田氏の勇み足で、論証が半ば空振りに終わっているようである。いや、失敗しているのは絵解きであり、倭人伝記事は会稽東治であり、東冶でなかったという点は、かなり分のある議論と思う。

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