私の意見 倭人伝 会稽「東治」「東冶」談義 5
会稽東縣談義 2
2016/11/09
陳壽は、三国志編纂時に、曹魏資料を利用して東夷伝をまとめたのだが、その際に、呉書にしかない東鯷人と夷洲及澶洲の記事を呉主傳から引用したものと思われる。
三國志 魏書三十 東夷列傳
會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。
傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承,有數萬家。人民時至會稽市。
會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絕遠不可往來。
東鯷人に関する記事の考察は、別項に譲るが、それ以外、魏書記事の「會稽東冶縣」と呉書記事の「會稽東縣」は、同一資料の解釈が異なったものであろう。
同一編者の史書内の二択であるが、呉書の呉主傳は君主の列伝記事であって、本来の呉由来の史料を直接引用していると思われる。これに対して、魏書東夷伝記事は、この呉書記事を転用したものであり、転用の際に、担当者の手により、省略と言い換えが発生したもののようである。
この判断に従うと、もともと「會稽東冶縣」はなかったのである。
後漢書 東夷列傳:
會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。
傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承有數萬家。人民時至會稽市。
會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絕遠不可往來。
三国志記事を利用したと思われる後漢書を忖度する。笵曄が後漢書を編纂したのは、劉宋首都でなく太守で赴任した宣城(現在の安徽省 合肥附近か?)である。流刑でないので蔵書を伴ったろうが、利用できた三国志写本は、門外不出の帝室原本から数世代を経た私写本と思われる。
数世代の個人的写本の継承中に、達筆の草書写本が介在した可能性もあり、それ故に、諸処で誤写や通字代用があったと懸念される。手元に相互参照して校勘できる別資料があれば、笵曄は、当然是正したであろうが、東夷記事には別資料が乏しく、手元の三国志写本に依存したと思えるのである。
この点、ほぼ同時代に、劉宋皇帝の勅命で三国志原本に注釈を施した裴松之が、ほぼ厳密に写本校正された官蔵写本を参照したと思われるのと大きく異なるものである。
未完
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