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2016年11月 9日 (水)

私の意見 倭人伝 会稽「東治」「東冶」談義 3

会稽郡小史

                          2016/11/09

 会稽郡は、河川交通と沿岸交通の要所を占めて開発が進み、ここに郡治を置いて、はるか南方辺境まで郡域に含めて管轄する体制が作られたものと見えるが、東冶県などの南部諸縣は、直線距離で四百五十公里(㌔㍍)の遠隔地である上に、会稽郡治からの陸上交通が海岸に迫る険阻な山地に阻まれたため、後年に至るまで、この間の道路整備は進まず、交通困難であったと思われる。

 秦、漢、魏と政権が推移しても、郡は、帝国地方行政区分の中で最上位であり、小王国と言えるほどの自治権を与えられていて、郡治は、地方政府組織を持ち、自前の軍隊も持っていた。また、管内諸縣から上納された収穫物を貯蔵していた。また、管内の治安維持のために、郡太守の権限で制圧軍を派遣することが許されていた。つまり、税務・軍務の自治があった。

 しかし、全域統治の視点では、郡治は、南部諸縣との交信が不自由であり、また、遠距離で貢納収納も困難であった。治安維持で郡兵を派遣するにも、行程の宿泊、食料調達がおぼつかず、結局、南方諸縣は、反乱さえなければ良いと言うことで、各県の自治に任せていたことと思う。

 しかし、後漢末期に会稽に乗り込んだ孫策は、会稽太守につくと共に、江南での基盤固めのため強力に支配拡大を進めた。

 後に自立した東呉が各地の開発を進めていく事態になると、会稽郡から南部諸縣を分離して、建安郡の新設(ここでは分郡と呼ぶ)が必要になった。

 新設建安郡は、東呉皇帝直下の郡としての強い権限を与えられ、郡兵による郡内の治安維持が可能になり、また、郡内各地の開発を強力に進めることができるようになった。

 もちろん、その背景には、郡治の組織体制を支えられるだけの税収が得られたことがある。つまり、それまでは、「建安郡」管内の産業は、郡を維持するのに十分な税収を得られる規模になっていなかったのである。

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