2016/12/26
考察や余談を続けている。
地理志下:
自合浦徐聞南入海得大州東西南北方千里武帝元封元年略以為儋耳珠崖郡民皆服布如單被穿中央為貫頭男子耕農種禾稻紵麻女子桑蠶織績亡馬與虎民有五畜山多麈嗷兵則矛盾刀木弓弩竹矢或骨為鏃自初為郡縣吏卒中國人多侵陵之故率數歲壹反元帝時遂罷棄之
・余談
五大家畜の一つである「狗」は、よく「犬」と(誤)訳されるが、羊頭狗肉を、狗肉商人の詐欺商法と言えても、「犬肉商人」というのは、抵抗があるだろう。あるいは、漢の高祖と同郷で幼なじみの剛勇の人、樊噲(はんかい)は、職業が「狗屠」であったとされている。
元朝以前の中国人といえども、今日よく見かける愛玩犬(ペット)を食用に供したわけではない。当時、盛んに食用に供されていた家畜が、生物学に今日の(愛玩)犬と同様に分類されるに過ぎない。全く別種の生き物なのである。そう思って、感情面を割り切ることである。
別の示唆として、古来食用家畜であった狗が、元朝治世下では、番犬や愛玩犬に位置付けが変わったという意見が提示されている。
牧羊を業としたモンゴル人にとって、犬は、家族の一員であり、友であり、牧羊では掛け替えのない戦力である。生類憐れみの令ならぬ、狗食禁止令が出たのではないか。
また、それまで、中国の狗は吠えなかったが、激しく吠えて羊を駆り立てる牧羊犬が進入してきて、犬の習性が変わった可能性もある。
いや、犬好き諸兄が納得できないというかも知れないが、ここは、取り敢えず我慢いただきたい。
*珠崖郡撤収
武帝及び武帝の後継皇帝の政権が、南海の楽園とも見える海南島に漢朝規準の郡制を敷いた成り行きは上に述べた。因みに、中国文明は、海南島を帝国の一領域として取り込むまで、海島というものを知らなかったのである。
この後、二度目の体験として九州島を知ったので、使節派遣に当たっては、調査役に、特に、海南島調査報告を読ませたものと思うのである。
それにしても、福州沖合に、結構大きくて、山並みも立派な、かなり目立つ存在として台湾島があるのだが、中々、中国史料に登場しないのである。
郡制と共に多数の郡役人や軍人が侵入、横行して、現地人を圧迫したのである。
特産品として絹織物の上納を課したかも知れない。いくら鷹揚な住民も、不満が募るのである。
数年を経て大きな反乱を招いたが、国力の衰えた漢朝は鎮圧に失敗し、ついに元帝の時、この僻遠の地の支配を断念して珠崖郡を廃止したのである。
結局、住民の堪忍袋の緒が切れたのだが、反乱して山中に逃げ込むようなことができる気候なので、住民の抵抗は、激しかったかどうかはわからないが、長期に亘ったものと推定される。住民からの貢納が途絶えたら、郡財政は、たちまち破綻するのである。
武帝の後の諸皇帝は、さほど領土拡大に執着しなかったらしい。武帝の外征過剰で国力が衰え、また、外戚の干渉で政権が脆弱化したことも加わって、元帝及びそれ以降の漢王朝は、海南島回復どころでなかったのだろう。
かくて、郡を撤廃したと言うことは、郡関係の中国人は、全て本土に引き上げたと言うことであろう。郡制時代、識字教育に始まる官員訓練などにより、中国文明の普及が進んだと思われるが、未開状態に戻ったのか、広州の傘下に入って辺郡に準じる状態で管理されたかはわからない。
以上、あくまで古代の出来事であるが、ある程度の問題として、今日でも、地方と中央の関わりで、まま見られる事象である。
*倭国と珠崖
それはさておき、こうして読み通すと、南方の海南島とはるか北方の倭国は、地域風俗を書き示すときに使用される単語の多くが共通していても、実質は大きく異なっているように見える。
とかくキーワード検索でヒットすると、類似していると見なされ勝ちだが、肝心なのは、個々の単語ではなく、文脈、文意であることは、諸賢に理解いただけると思う。
初見の倭国の風俗が、海南島の風俗に似ているとは、魏使随員の調査員(軍事探偵兼記録係)が、報告書起草にあたり、温暖で海島である海南島を描写した漢書地理志記事を下敷きに、つまり、単語を流用して倭国往還記を書いたために生じた印象ではないかと思われる。
いえ、それ以上の推定は無責任な憶測なので、差し控えておくのである。
以上