私の本棚 直木孝次郎 「古代を語る 5」 大和王権と河内王権
吉川弘文館 2009年刊
私の見立て★★★★☆ 2016/12/11
今回の著者は、史学会の先賢の中でも「巨匠」と呼ぶべき大家であるが、ここでは単に「著者」と書かせていただく。
題名が示すように、本書は、日本古代史に関する著書であり、当プログ筆者の守備範囲外であるが、訳あって末尾の部分を題材にさせて頂く。
もちろん、書籍全体を読ませていただいたのだが、史書の追究はともかく、多数の遺跡、遺物の現地、現物を身をもって体験された結果の貴重な論考であり、謹んで敬意を表させていただきたいと思っている。
さて、今回取り上げるのは、末尾も末尾、最後に示されたご意見である。
*地図の思想
ここでは、天智天皇山科陵が藤原京の真北に存在しているように見えることから、これは、山科陵設営当時、意図してその位置に造営したのではないかという仮説を紹介し、現地踏査の結果、具体的な位置設定手段は確認できないが、仮説は否定しがたいとの意見を述べているものと思う。
もとになる仮説を提示したのは、藤堂かほる氏(「天智陵の営造と律令国家の先帝意識―山科陵の位置と文武三年の修陵をめぐって―」(『日本歴史』六〇二号 1998年)」)であって、このように発表誌も明記されているから、第三者が原文を確認して、追試検証できるものである。
また、発表誌を確認するまでもなく、著者の簡にして要を得た紹介があり、藤堂氏論拠である両地点を記載している国土地理院発行の二万五千分の1地形図二面をつきあわせた際の両者の位置関係が明記されている。
*実施(可能と思われる)方法
さて、直木氏が藤田氏の提言を元に現場確認された際の意見を拝聴すると、両地点は、ほぼ55㌔㍍を隔てていて、丘陵というか、山が介在して直視できないが、何らかの手段で、この山を越えて位置確認できた:から、山科陵は現在の地点に設置されたのではないかと感じたと述解されている。
筆者は、理工学の徒であるから、以下、推定を試みている。実地確認したものではないので、実行不可能とのご批判があればお受けする。
筆者は、自身の良心のもとに、古代の世界に自分を仮想して、このような任務の実行任務を与えられたら、十分に実現可能であると判断するものである。
基本的な認識として、いかなる光学機器も、単体では見通しの利かない二地点間の方位を測定することはできない。いや、見通し可能であっても、55㌔㍍先が視認できるとも思えない。
そのような無理でなく、古代人であっても利用可能な道具類を使用し、数人の技術者とその何倍にも当たる人夫をある程度の期間動員して、全区間を細分化した区間を順次踏破すれば良いのである。
*具体的手段
目に付くものとして旗竿のようなものを利用し、藤原京から、逐次北上して参照地点をつないでいけば、最終的にそこそこの精度で目的地に到達できると思うのである。
例えば、原点に立てた旗竿の真北に、二本目の旗竿を立てるのである。藤原京ほどの地点であれば、太陽観測によって、南北方向を得ていたはずである。区間幅を、旗竿の振り方で意思疎通できる程度にしておけば、特に通信機器がなくても、二本目の旗竿を一本目の旗竿の真北に位置決定できるのである。
三本目以下の旗竿の位置は、先行する二本の旗竿が真南の一直線上に見える地点に決定することができるが、誤差が積み重なって方位がずれるのが問題であれば、何本目かに一回、候補地での南北を太陽観測で決定し、位置を確定すればよいのである。
かくして、三本の旗竿が一直線上に並んだところで、最初の一本を北上させて行くという手法を順次採用すれば、目的地に着くまでに相当の日数を要するものの、55㌔㍍程度の距離であれば、そこそこの精度で真北に進むことができるのである。
直木氏が気にしている途中の山の問題であるが、平地同様に、随時見通す感じで北進していけば、特に困難なしに順次旗竿をたてて、真北に進めるはずである。
もちろん、経路上に登攀困難な高峰や対岸の見通せない大河や湖水があれば、そのような進行は不可能であるが、見る限り、多少荷物を持っていても克服可能な経路と思う。
と言うことで、古代であっても、先進の光学機器がなくても、衛星写真がなくても、小数計算を含む10進数計算の思想がなくても、時分秒の時間計測概念がなくても、つまり、ISOに規定されたメートル法の単位系がなくても、この程度の距離と地面の起伏であれば、十分克服して、一直線に北進することが可能であると判断する。(いや、もっと効率的な方法があるかも知れないが、ここでは、実行可能と思われる方法を例示しているのであり、最善の方法でなくても問題ない)
*謝辞・賛辞
復習すると、藤田氏の提言で示された叡知は、2万5千分の1地形図で見ると、両地点が南北一直線上にあるように見えるという発見に触発されたものであり、明示されたかどうかは知らないが、当時利用可能であった基本的手段で、(ほぼ)南北一直線上に位置するように、藤原京の真北に山科陵を位置決定したのではないかという提言であり、上に挙げたように、こうすれば十分に実現可能であると読者側から手をさしのべられる真摯なものなのである。適切な理解と紹介を行われた著者は、絶賛に値するものと信じるのである。
*失敗事例
これまで、毎日新聞紙上で連載されている「歴史の鍵穴」の同様に見える論説について、当ブログが批判し続けているのは、提示されている区間が途方もない長距離であり、時として、海上を延々と通過するものであるから、それは不可能だという意見に基づくものであり、また、論拠として掲載されている方位や距離の多桁数字が、現代の技術で測定された地形データを根拠に無理で意味のない高精度計算を行うという不法を重ねているからである。
国土地理院が気づかないのを良いことに、データの悪質な改竄を行っていると見える。つまり、現在のデータを、千年前の、一切測量されていない土地に、検証無しに流用、盗用しているのである。
要は、ここまで「地図妄想」と批判してきたのは、見識もなく、その自覚もない数人の論者が、学術的に意味のない本末転倒した主張を続けているためである。
*感慨
つい、余計な非難を煽ってしまったが、直木氏が、その類いの愚行を一切犯していないのは、理解いただけると思う。
豊富な知見と学識を有する先人が、ここに例示されたような合理的で、的確で、隙のない思考を行って見せてくれているのだから、後進の者は、虚心に見習うべきではなかったかと歎くのである。
以上
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