私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 4/7
私の見立て★☆☆☆☆ 2017/01/16
全体として ★★★☆☆
1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783) 1980年5月刊
[承前]
*余談2 山河疾走
大海を越えると、急報制度どころか、文書通信が確立されていたかどうかわからない倭国中枢への伝達である。
九州北部(つくし)なら、道路が整備未完了としても、距離が短いので、一か月はかからないと思われる。
奈良中和(やまと)となると、つくしに比べて五百キロメートル余りの遠隔地であり、徒歩ないしは手こぎ船移動となるが、三世紀時点で、これだけの距離の旅程の整備ができていたとは思えないから、半年かかっても不思議はないが、仮に四か月程度と見ることにする。
倭国中枢で、対応方針の決定、派遣使節の人選、持参貢物の決定と調達、使節派遣まで、二か月程度かかると見るのである。今日聞いて明日渡航とは行くまい。
荷の重い使節団は、身軽な急報文書使よりは、随分遅いはずであるが、つくしから帯方郡まで二か月程度、やまとから帯方郡まで四か月程度と見ておく。
よって、帯方郡が急報してから、倭国使節帯方郡到着までの所要期間は、次のような感じと見られる。これはあくまで、「程度」にとどまる概算比較である。
つくし 五-六か月程度、やまと 九-十か月程度。
四カ月程度の差は、往復一千キロメートル程度の旅程差からくるものである。
ここで、帯方郡の急報発信は、魏による帯方郡平定が基点となるが、その時期については、「A 遼東平定に先立つ景初二年初頭」と「B 遼東平定後の景初二年秋」の両論があり、それぞれ慎重に評価する必要がある。
Aの見方で、倭国使節が景初二年六月帯方郡到着するには、つくしなら何とか間に合うが、やまとは到底無理(景初二年十月頃の到着)となる。
景初三年六月帯方郡到着であれば、いずれも可能である。
Bの見方で、倭国使節が景初二年六月帯方郡到着するのは、いずれも不可能であるのは、いうまでもない。
景初三年六月帯方郡到着であれば、つくしは、問題なく可能であるし、やまとは、確実ではないが、到着できる可能性はある。
やまとは、つくしと比較して、往復で一千キロメートルの距離が追加されるため、ここを「倭人伝」に書かれた倭国の中枢と見るには、倭国使節の帯方郡到着は景初三年六月でなければならないのである。
そして、景初二年遣使の議論を封じるには、景初二年秋の帯方郡平定にこだわらざるを得ないのである。
このように、ここでは、やまと説論者が、自説に合うように「倭人伝」を読み替えて、定説を形成する至芸が見られる。
以上、今回の書評の本旨を少し外れた余談である。
未完
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