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2017年2月

2017年2月26日 (日)

私の本棚 尾崎康「正史宋元版の研究」汲古書院 7/7

        私の見立て★★★★★                   2017/02/26

*紹凞刊本の由来 続
 私見だが、紹凞刊本東夷伝に於いて、参照に便利なように、「伝見出し」が本文に挿入されていて、それが、『倭人伝』の由来となっているが、これは正史刊本書式でなく、写本段階で、便宜的に書き加えられたものと見ているのである。
 刊本に採用された以上、このような小見出しは、魏志東夷伝の本文の一部と見なされていたと見ることもできるのではないか。

*刊本総点検で三国志に「邪馬臺国」はなかった
 尾崎氏は、広汎な三国志刊本資料精査の際、倭人伝に関する調査に手を取られたと述懐している。案ずるに「邪馬臺国」を念入りに総点検したらしいが、そう書いた刊本を見たとの証言がない。

*刊刻時の総点検
 いわゆる紹興本と紹凞本は、それぞれ刊刻に先立って、当時残存していた各種多数の版本写本を念入りに照合し決定稿を作成したと推定される。その際に「邪馬臺国」とする資料が無かったので、特に注釈の無い今日の刊本となったと思われる。
 言うまでもないが、その時点で北宋刊本の良本が十分存在していたら、写本照合は必要なかったと見えるのである。

 もし、それ以前に、その時点で一冊限りの国宝である当代原本に「邪馬臺国」と書かれていたものが、「下流」写本で「邪馬壹国」と誤写されたとしても、写本は毎回一から書き起こすものだから、その際に新規に発生した誤写は、その写本限りであって、その誤写内容は、その特定の写本の更に「下流」にのみ継承されるのであり、別の機会に写本を行えば、同一の誤写が再現されるとは限らず、従って、特定の誤写が三国志写本の全体を占めるに至らないはずである。

 そして、国宝原本の「複製作成」は、写本の域を超えた厳重な照合確認で完璧を期し、誤写の想定される文字の複写は、特に念入りに検証されるから、『安直な誤写は「ありえない」』と見るのである。

 つまり、当たり前の話だが、南宋初期の刊刻原本に「邪馬壹国」と書かれていたから現存刊本に「邪馬壹国」と書かれているのである。大抵の物事は単純な理由で起きているのである。

 勿論、膨大な三国志全巻を眺めると、細かい誤字・誤写に起因する刊本間の食い違いがあるようだが、それは別種の現象である。

 以上は、当ブログ筆者の私見である。

*おことわり
 最後に、素人の私見をよいことに、尾崎博士を「氏」とのみ敬称した点について、無礼を深くお詫びし、氏のご理解を求めるものである。

以上

追記 2017/06/20

 尾崎氏の本著は、ご本人の意志に沿ってかどうか、「紹凞本」三国志を高く評価する古田武彦氏の論説の信頼性を低めるためにだろうか、「紹凞本」に関する考察が部分的に引用されることが多いが、本書は、広範な「正史宋元版の研究」を述べたものであり、ここで当方が種々述べたのも、そのごく一部を概観したに過ぎないのは言うまでもない。

 氏は、紹凞本の信頼性に対する世評を卑しめるために本書を著述したものではないし、まして、その一部である倭人伝の国名表記を判断しているものでもない。
 この点、各論者の戒めとしていただきたいものである。

以上

 

 

 

 

私の本棚 尾崎康「正史宋元版の研究」汲古書院 6/7

        私の見立て★★★★★                   2017/02/26

*蜀蔵本のなぞ
 察するに、それ以外にも、蜀漢の故地である四川(蜀)は、中心である成都に小規模ながら刊本事業が成立していて、それは、おそらく、先立つ写本事業が継承されたもののようである。

 蜀は、華南の大河長江の中国内の最上流にあり、戦国末期の秦治世下で整備された灌漑水路に恵まれて水田稲作が発展し、盆地内に一千万程度の膨大な人口を支える食料の自給が可能であった。

 動乱の絶えない河水流域とは、険阻な地形で隔絶しているので、中央政権が衰えれば自立の動きが出る、いわば、独立の気概の地域である。

 遡って、唐時代だが、反乱軍の帝都長安制覇の際には、皇帝一行の逃避先となったが、平時、四川地方の独立離反を防ぐために有力皇族を封じるなど、長安代替機能を備えていたと推定される。

 特に記録は無いようだが、長江中下流の武昌、漢口、金陵すら遠隔地であり、成都教養人は、自前の書庫を持ったろうし、そのような途方もない贅沢ができる豊かさと治安の平静さがあったのである。因みに、先に述べた靖康の変後の金軍南進も、成都には遠く届かなかったのである。

 その名残で北宋期の成都には正史を含む一大書庫、今日で言う資料アーカイブがあったと推定される。というものの、成都アーカイブ、とか、蜀蔵本とかは、勝手な妄想、造語かも知れない。

 以上は、当ブログ筆者の私見である。

*紹凞刊本の由来
 国家事業として展開された刊本復旧事業による、三国志紹興本の刊行後、成都アーカイブから、咸平刊本に近いと見られる写本が提供され、これを深く吟味した結果、正史として継承するに値するものと判断して、坊刻により刊行することになったと見ているのである。

  以上は、当ブログ筆者の私見である。

未完

私の本棚 尾崎康「正史宋元版の研究」汲古書院 5/7

        私の見立て★★★★★                   2017/02/26

*紹凞刊本のなぞ
 その後、いわゆる「紹凞本」が刊行されたが、これはあってはならないものである。
 すでに南宋初代高帝の名の下に、紹興本が正史刊行されているから、これに異を唱える刊本は世に出せるはずが無いのである。また、経済的に豊かな南宋と言っても、重複刊行する財力は無かったと思われる。

 以上は、当ブログ筆者の私見である。

 尾崎氏の分析によれば、北宋咸平刊本は、行数文字数の規格の他に、割注などの注文にも独特の規格があり、紹凞本は、それを復元したものではないという。ご指摘の通りであろう。

 また、書誌学者として、紹凞本が登場した背景について、筋の通った説明を、仮説として触れるに足りる程度のものも見出せないと明言されている。学術書であるので、意見表明に慎重である。

 ということで、権威を持たない素人が私見を述べざるをえないのである。

 古田武彦氏によれば、書陵部蔵書に添付されている楪は、もともとの刊本の一部でなく、手書き複写から版を起こして継承されていたものであり、おそらく、「達筆」、つまり、草書体の手書きのものを書き戻したようだと言うことである。

 紹凞本に咸平刊本の楪(複写)が付いた理由であるが、紹凞本の原本が、咸平刊本から直々に起こした複製写本という意味(権威付け)で咸平本の楪を付けたものが、順当に継承されたようだ。

 達筆の走書きは、その道の達人以外には、正確に読み取れないことがあるのは公知である。正確さ厳守の正史写本の現場でも、実務には、草書が常用されていたということなのだろう。
 以上は、当ブログ筆者の私見である。

 尾崎氏は、ここまで、まずは、北宋時代、開封を代表とした中原地区、そして、南遷後に長江下流の臨安付近での刊本事業の興隆を語っている。
 各種資料を参照して、丹念に論拠を示した上での論説であることは言うまでもない。

未完

私の本棚 尾崎康「正史宋元版の研究」汲古書院 4/7

        私の見立て★★★★★                   2017/02/26

*民間活用
 と言うことで、尾崎氏の資料分析によれば、南宋の正史刊本覆刻で、いわゆる紹凞本の刊行には、民間の刻本業者を起用する「坊刻」が活用されるようになったのである。むしろ、刻本事業の民間移管で、官刻は衰退したのではないかと思われる。
 以上は、当ブログ筆者の私見である。

*坊刻興隆
 「坊刻」は、南遷時の激動により大いに手薄になった政府機関による官営でなく、北宋後期から活性化してきた民間事業による版刻である。
 中核となる人材に、官営事業で育成された、技能、教養に優れた、国家の精鋭たる刻工を起用し、印刷、製本、そして、用紙調達に民間の経済原理を発揮して、続々と正史再刊を進めたようである。
 尾崎氏の筆致にも、坊刻、官刻に対する先入観としての価値判断は含まれていないように思う。

*紹興刊本
 また、南宋刊本再構築に際して、原本として利用できたのは、希少な北宋刊本(官刻)でなく、そこから二次的、三次的に翻刻された通用本であったようである。

 北宋刊本は、木版印刷と言っても、さほど多数刷られなかったようである。当時、書籍全体を通して紙質が整然とした(高価な特製)用紙の確保が困難と言うこともあったと思う。私見では、百冊にも達していないのではないかと思われる。

 官製刊本の大きな役目は、それまで、粗雑な写本の繰り返しで世上の書籍内容にばらつきが多く見られたのを改善するものだったと思われる。

 各地に刊本が届けば、まずは、正確な複製本を写本作成した上で、流通写本を容易に校正できるのである。

 三国志の南宋覆刻である紹興本は、南遷に従った正史刊本お目付役の目には、諸処に難ありと映ったが、校正しようにも典拠となる「原本」がなかったので仕方なく看過したものと思われる。

 以上は、当ブログ筆者の私見である。

未完

私の本棚 尾崎康「正史宋元版の研究」汲古書院 3/7

        私の見立て★★★★★                   2017/02/26

*至宝の民業化
 南宋での宮廷儀礼復活に載して、先史以来の祭祀青銅器を失ったために、青銅器の形状を青磁で復元したとされている。緊急事態ゆえに門外不出の官窯青磁の技法が民窯に開示されたと見ている。

 余談であるが、金軍の略奪破壊には、国家行政の基本となる戸籍、地籍などの台帳類や律令に始まる法令類のように政権運営に不可欠な資料も含まれていたはずである。太祖趙匡胤の「石刻遺訓」のように宰相すら見ることを禁じられていた秘事まで置き去りにするほどだから、責任者不在の中、逃亡するしか無かったようである。

 宋なる往時の中原国家は、ほぼ全壊し、残された骨格も火だるま状態になっていたと思われる。
 以上は、当ブログ筆者の私見である。

2 復興の道
*文物復興の歩み

 以下、正史刊行という当方の関心分野に視点を移すと、このように、南遷後の宋朝は、刊本制作拠点の地方分散の甲斐も無く、三史に始まる正史原本がなく、失われた正史刊本再刊にも版木がなく、無い無い尽くしの事態に陥ったのである。

 唯一の救いは、刊本再構築に要する刻本、印刷、製本などに要する人材、機材が、民間に残されていたと言うことである。つまり、北宋期の民間経済の発展は高度な刻本技術を民間に伝え、優れた民間刻工が勢揃いしていたのである。これは宋代刊本に添付された刻工一覧などでわかるのである。

*長江燦然
 南朝時代に興隆した長江経済圏は、流域の稲作食料並びに茶葉の供給力と併せて、金の制覇した中原経済圏を圧していたものである。先立つ南朝歴代王朝は、中原回復の使命感に囚われて、軍備に財力と人材を消耗し衰亡の一途を辿ったのに対して、南宋は、毅然と国政を保ったと言える。

 いわば、民間経済力により、南宋は金を経済的に圧倒し、南北の抗争は、一種、均衡を保ったものである。

 以上は、当ブログ筆者の私見である。

未完

私の本棚 尾崎康「正史宋元版の研究」汲古書院 2/7

        私の見立て★★★★★                   2017/02/26

 また、三国時代の蜀都成都、呉都金陵には、それぞれの王朝の文物が残されていたようであるから、東晋が再興を図ったときには、何とか、文物の体裁が保てたようである。

 時代が進んで記録が豊かになったこともあって、北宋壊滅時の文物破壊は、激しいものであったと記録されている。

 当方が、氏の著書を渉猟して求めているのは、南宋刊本に至る長年の写本の継承であり、氏が、宋の南遷として語っている「靖康の変」が写本、刊本に対して及ぼした甚大な被害は、噛みしめる必要がある。

*宋朝壊滅 文物剥奪
 靖康の変は、宋の帝都開封が落城したものだが、侵略者である金は、北方異民族でありながら、中国文明の影響が深く浸透し、帰属した漢族高官の影響もあって、宋王朝文物である書画、骨董、稀覯書に対する所有欲が深かったと見られる。そのため、開封の帝室宝物が根こそぎ持ち出されたのは、よく知られている。各副都を含め、近傍各地の高官や蔵書家の文物や書庫まで根こそぎされたようである。

 また、靖康の変で、金王朝は、宋王朝を完全撲滅する意図から、皇統譜に掲載の皇族を根こそぎ連れ去るという熾烈な方針で臨んだとされている。

 そうした金軍の怒濤のような攻勢から、帝位継承可能な皇族として唯一逃れた、後の南宋初代皇帝高宗は、南方臨安に宋王朝を再建しようとしたが、金軍の南進に耐えきれず、長江南方に逃亡する始末となった。

*臨安攻撃
 臨安に進攻した金軍は、そこに正史版木を発見して、これもまた根こそぎ奪い取る挙に出たのである。何とも、壮烈な憎しみである。

 金軍の北帰後に臨安に構築された南宋は、宋朝再建、国土回復どころか、金の更なる南征に備える軍備強化を迫られるなか、文化政策や行政機構の再構築に苦闘していたのである。

未完

私の本棚 尾崎康「正史宋元版の研究」汲古書院 1/7

        私の見立て★★★★★                   2017/02/26

 尾崎康博士の研究成果は、汲古書院から「正史宋元版の研究」として 1988年(1989年刊行とする資料もあるが)に刊行されている。当ブログ筆者は、購入できていないが、幸いにも、本書を閲覧する機会に恵まれたので、蔵書ではないが、本棚番外として公開するものである。蔵書ではないので、資料引用は、極力差し控えたい。 
 今般(2017/06/20)購入した。

 本論では、尾崎氏(失礼ながら、以下学位は省略したが、氏の業績に対する深い尊敬の念は、当記事全体に維持されていると思う)の著書の一部を紹介するのだが、氏の三国志刊本に関する見識は、厖大な刊本資料の丹念な精査に密着した分析と総合的な考察に裏付けられ、当ブログ筆者が異論を申し立てられるものではない。

 ここで述べたいのは、そうした現代日本語で言う「大海」のごとき著述の中から三国志の変遷に関する思索を編みだし、世の人々の思索の材料を提供することである。

1 靖康の惨禍
 ここでは、本書の中でも、三国志宋代刊本について論ずるのだが、何と言っても、この時代を語る際には、中国全土を支配していた宋(便宜上、大抵は北宋と呼ぶが、全国統一政権であった)が、北方の金との全面衝突に敗れて、帝都である開封を金の大軍に包囲され、徹底抗戦による全面殺戮(屠城)を防ぐために、当代皇帝欽宗が、父親である上皇徽宗と共に金軍に投降したことに始まる靖康の変と呼ばれる金軍の侵攻を語らざるを得ない。

*永嘉の乱
 はるか以前、洛陽を帝都としていた晋(便宜上、大抵は西晋と呼ぶが、全国統一政権であった)が、北方民族の帝都攻略により、当代皇帝が虜となった前例(永嘉の乱311)があるが、その際の侵略者は、特に、中国文物に興味を持たなかったので、金銀、宝玉類は掠奪にあっても、書庫の侵略までは無く、文物の被害はまだましだったようである。

 因みに、これは、後漢書編者笵曄や三国志注釈の裴松之の生まれる半世紀以上前の話である。

未完

2017年2月24日 (金)

倭人伝の散歩道2017 卑弥呼墓制考

                               2017/02/24 

 倭人伝の「卑彌呼以死大作冢」記事に関して諸賢による深読みがされているが、当ブログ筆者は、卑彌呼が亡くなり墓を作った、と読む。後世の類書「太平御覧」は「女王死大作塚」としている。北宋期の史家にそう読めたということである。

 それはともかくとして、他ならぬ倭人伝に、倭国の葬送は「封土作冢」と明記されていて、墓の造りは土まんじゅうのようなものと見えるから、これは「古墳」と呼ばれる大規模な墳丘墓とは別ものに思える。現代の解釈は、続く「径百餘歩」を根拠に古墳と決め込んでいるが、まずは史料の語彙に語らせるべきではないか。
 ここで、古墳と書いているのは、古代史の用語に従っているのであって、造営当時は、古くないどころか、最新形であったが、これは仕方ないところである。

 素人は、以下のごとく推論する。東夷伝の一部である倭人伝にそう書かれていると言うことは、明帝景初年間、朝鮮半島と倭国に古墳はなく、よって古墳造営技術はなかったと見られる。

 ここで、女王の墓で「以死大作冢」とあるのは没後造営の趣旨である。つまり、具体的な準備はできていなかったのである。それまで王墓は王直轄領域内の動員ですんでいたはずだが、女王が格別の功績を挙げたとは言え、その死に当たって前例のない大規模な古墳造営を決定して、突然大工事を指示されたら、各地支配者は、大規模かつ長期間の労役動員に到底対応できまい。

 倭人伝が、そのような事態を特記していないと言うことは、卑弥呼塚は、大動員なしに既存技術で造営できる封土墓であったと推定する

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2017年2月11日 (土)

古代史随想 木津川恵比寿神社と椿井大塚山古墳 2/2

                    2017/02/11
*政権氏族の氏神
 さて、このように独立をもくろむ政権が、定住の最初に行うことは、神社の建立である。氏族の氏神をまつり、自身の父母、祖父母をまつり、氏族集団の統御の象徴とするものである。そこで、それらしい神社の形跡を求めて周囲を探すと、木津川市加茂町の恵比寿神社が目についた。

 木津川市サイトに公開されている社伝によると、鎌倉時代末期の元弘年間の創建となっていて、公式記録は尊重するが、それ以前に神社がなかったと言っているのではないように思う。
 社殿に掲示されている説明板によると、古文書らしい「蛭子明神記録」には、鎌倉時代寛元二年(1244年)の棟札があったとされていて、参考になる。
 つまり、公式記録に記された元弘年間の創建は、何もないところに一から建てたものではなく、それ以前に存在していた恵比須神社を改装したということだろう。

 そのときに創建したとすれば、どこそこの恵比寿神社から祭神を招いたとあるものなのだが、特に語られていないからそう思うのである。もちろん、そうした推定に対して、確かな証拠があるわけではない。

 謝辞 「社殿に掲示されている説明板」は、ahisats3のブログ 掲載写真による。

*ひるこ幻想
 ちなみに、「えびす」の発音ながら、ことさら「蛭子明神記録」と書いているのは、伊弉冉(いざなみ)-伊弉諾(いざなぎ)の両神から生まれた「ひるこ」の流れを汲んでいるのかもしれない。

 記紀に残された創世神話で、ひるこは、早くに生まれたものの両親の意に沿わなかったため幼くして捨てられたようになっているが、実際は、両親の意に反して自立し、家を出たために、家系から外されたという見方も、独善を承知でしようと思えばできるのである。

 と言う風に緩やかに解釈すると、ここに定着した集団は、いずれかの時点で、勝手に母国を離れた反逆児かもしれない。もちろん、そうした推定には、何の証拠もない。

*神社の継承
 古代以来、各地に無数といえるほどの神社が建立され、ほとんど廃社になった例を聞かないから、当神社は、古代の椿井政権の氏神の後身ではないかと思うのである。おそらく、この地が、氏神にふさわしい地形、方位であり、他に代えがたかったのだろうと感じるのである。

 近年まで、木津川対岸のえびす岩に船で渡る神事が長く維持されていたというから、ますます、地元住民の尊崇の的である神社をなくして、別の場所に氏神を設けることはできなかっただろう。あくまで推定である。

*高床形式の社殿
 木津川市のサイトの解説では、当神社の社殿は、鎌倉時代の創建とされていながら、高床式の建物であるという。つまり、創建は、はるか古墳時代であり、その後、木津川の氾濫などで損壊したとしても、原型に従って再興されたと推定してもいいのではないか。

*おことわり
 さて、以上のつじつま合わせで、一応もっともらしいお話になったように思うのだが、実は、以上は、すべて、ある一日(「建国記念日」)の午後に、PCでネットを彷徨いながら、古代に生まれ、繁栄し、やがて、衰退して、歴史に名を残さずに埋もれたと思われる一地方政権についての幻想を綴りあげたものである。

 決して、木津川市に実在する古墳や神社の古代歴史を勝手に書き換えて迷惑をかけようとしたものではない。あくまで、あくまで、「フィクション」である。

以上

古代史随想 木津川恵比寿神社と椿井大塚山古墳 1/2

                    2017/02/11
 木津川恵比寿神社にたどり着いたのは、元々、別の記事で批判した小林行雄氏の論説で、古代の銅鏡配布の一大拠点とされている椿井大塚山古墳の被葬者たる「椿井政権」首長の故地を訪ねて、PC上で散策したことによる。
 まだ、現地に行ったことはないが、ここに書いた程度の推定を綴れるだけ、詳しい状況を探ったのである。

*椿井政権の萌芽
 グーグルマップで椿井大塚山古墳の位置を探すと、話に聞いたとおり、JR奈良線の軌道が横切っていて、広く見渡すと、ここは大阪湾から遡上した淀川水系の木津川の東岸であって、木津川は、しばらく南下した後大きく東に転じてL字型の流路が開けている。
 木津川の西岸にはJR片町線が走っていて南のJR木津でJR奈良線と連絡する。いわば、河川水運、陸上交通の両面で、要地を占めていることが見て取れる。

 いずれの時代か、いずこからか大阪湾に来航した船団が淀川に入り、それぞれ好適と思われる地点に定住者を下ろしては遡上し、ここにも、一団が定住したようである。おそらく、ずいぶん長い期間を要したであろう。
 また、同じ淀川水系でも、木津川以外の支流である宇治川を遡行して琵琶湖に到着した集団や桂川や鴨川を遡行した集団もあったとも思われるが、その経緯は不明である。

*大いなる繁栄
 確かなのは、木津川流域のこの地点に定住した集団が、木津川の豊富な灌漑水量と水産資源を生かした農漁業によって十分な食料を得るとともに、木津川-淀川-瀬戸内海という無類の幹線水路の水運を仕切って、交易収益により堂々と自立していただろうということである。

 そうした交易経路が確保できた原因は、淀川流域の要所に一族の政権が定着して協調的に交易ができたということだろう。いや、推測しているだけである。

 後年、椿井政権が大量の銅鏡を得たのは、交易で入手(購入)したものなのか、自身で銅鋳物生産を行ったものか、いずれかとも思われる。自製化するときも必要な銅素材を交易で購入するについては、自前で鋳造した銅製品を提供(販売)していたとも思われる。

 何しろ、大量の銅素材や銅鏡を入手するには、大量の対価物が必要であるが、さほど広くない領地であるから穀物生産が特に潤沢であったとも思えず、と言って、それ以外に「売り物」が見当たらないので、銅製品の販売と思うのである。

 現代風の経済概念でいうと、「高度技術」による「付加価値」で大きく稼いでいた、のではないか。もちろん、これほどの技術があれば、ほかにも売り物はあったはずである。

 とにかく、「夜郎自大」ではないが、当時、壮大な宮殿こそ建てなかったものの、この地域の周辺では、抜群の威勢を誇っていたのではないか。

*ヤマトとの関わり
 ここは、京都府、つまり、山城国である。南のさほど高くない分水嶺を越えると、曾布地域であるが、さほどの距離でもないので、当時先進の椿井政権の恩恵を受けていたかもしれない。

 さらに南に下ると、平地と言っても距離のある葛城、三輪の領域であリ、徒歩行で遠距離であるので、交易の規模は限られていただろうし、それ故に銅鏡「配布」時代には、武力衝突などなかったと思われる。もちろん、そうした推定には何の証拠もない。

未完

2017年2月10日 (金)

私の本棚 「考古学と古代史の間」 2

 筑摩プリマーブックス154 白石太一郎 筑摩書房 2004年
          私の見立て★☆☆☆☆               2017/02/10

*「考古学」と科学的測定法の狭間
 これは自然科学の判定が信用できるかどうかという話ではない。単に、自身の学識および知見と自身の学識および知見外のものとを混同してはならないのではないか、というものである。

 当ブログ筆者は、工学系の訓練を受けて、企業内で実務に携わってきた。場数はある程度踏んでいると考えていただきたい。

 その背景から言うと、科学技術的な測定と見解は、測定機器の高精度化とデジタル化によって、主観の介入しない、客観的なものとなっていると思われがちだが、実は、主観の影響を大きく受けていると考えるのである。

 いや、データのねつ造などと言う極端な事例は、旅路の果ての破局として、そこに至らないまでも、所望の結果を出すのが仕事なのである。たとえば、どのような測定方法で、どのようにして測定するか、を選択する段階で、測定結果が予想されてしまうことは珍しくない。つまり、測定者の希望するデータが出るように測定方法や調整方法が塩梅されることは珍しくないのである。
 また、どのような条件が満足されたら、検定されている仮説が成立していると認められるか、という判断条件の選択も、主観に左右されるのである。

 言うならば、専門機関といえども、依頼元の意図を理解して、それが肯定されるような結果を出さねば依頼元の期待を裏切ると考えて、測定方法を調整し、データ解釈をそのように演出することは、ざらにあることである。

 と言うように、ことは自然科学的な判断と言えども、その当否は容易に検定しがたいのである。

 繰り返しになるが、考古学者は、自身の学識、知見については責任を持てるだろうが、自然科学的な測定については、畑違いで責任範囲外なのだから、そのように扱うべきなのである。

*早計な判断
 そこまで突き詰めるのは、本書では、自然科学的な測定結果によって、考古学としての古墳年代を比定しているように見えるからである。更に、そのような判断を元に、文献資料の解釈を一定方向に決めているからである。
 そのような判定をするのは、それが自身の希望する解釈に添っているからだろうが、古典的な言い方をするならば、それは曲筆である。

 本書著者は、考古学者としてかくかくたる名声を得ている方と思うが、一読者としては、他分野からの見解を十分に批判することなく受け入れて、考古学者の使命をおろそかにしているように見えるのである。

 しかも、ご自身で、最初に述べたように、考古学者の見識が揺らぐ原因として、外部の異質な分野の見解の安易な取り合わせがあることを見抜かれているのだから、なおさらに、本書の主題となっている「曲筆」は痛々しいのである。

*素人の意見
 言うまでもないが、当ブログ筆者は、遺物、遺跡を実見することはできないので、諸文献を精読して自分なりの意見を形成するしかない。つまり、先賢各位の高説を元に文献を読み解くしかないのだが、その限りでは、倭人伝には、九州北部に(局地的に)存在する倭国が描かれているとする意見に大きく傾いている。

 これに対して、本書著者は、深い学識で、ヤマトにあった地方政権が次々と勢力を拡大して、全国政権として広く統括するに至った「歴史の必然」を示されていて、当ブログ筆者は、深い敬意を持ってその展開を眺めるものである。

 ただ、そのような堂々たる議論が、文献資料とつなぎ合わせるために、たとえば、箸墓の造成が卑弥呼の没後に10年以上かけて行われたというような無理な展開でぶちこわされていると見るのである。もったいない話ではないかと思う。

 堂々たる議論の歪みが、文献資料の強引な取り込みに起因したものであり、そのような強引な議論の根拠とするために、自然科学的な測定結果を新たに築き上げた、というような進め方には賛同できかねるのである。

 まして、考古学を基本とした見解で、乱世の続く文献解釈を快刀乱麻のごとく武力平定するというのは、何か初心を忘れているように思うのである。

 思うに、本書著者は、ヤマトに対する強い愛着を持っていて、冷徹な判断が妨げられていると見るものである。
 そのような先入観から遠い当方には、愛着に起因する先入観に立つ議論は、学術上の論者として採用しがたいのである。

以上

私の本棚 「考古学と古代史の間」 1

 筑摩プリマーブックス154  白石太一郎 筑摩書房 2004年

          私の見立て★☆☆☆☆               2017/02/10

 本書を購入して読むことにしたのは、近年顕著となっている古墳時代の開始吊り上げの主たる提唱者が、本書著者白石太一郎氏であるという風説を確認しようとしたものである。

 結論を言うと、まさしくその通りであるが、それは、著者は肯定的な意味での確信犯だと言うことである。

 言うまでもないが、当ブログ筆者の意見は、本書で公開されている論理の進め方に一般人としての異論を唱えているのであって、学術的な当否を主張しているものではないし、まして、本書著者の考古学者としての権威を傷つけようとしているものではない。

*「考古学」と「古代史」の狭間
 大事なことは、本書著者が冒頭で述懐しているように、古代史分野と一般人が捉えている学術分野は、実は、「考古学」と「古代史」の、ずいぶん土台も筋道も異なった二つの学術分野に分かれていると言うことが、素人にもよくわかるように、説かれているのである。

*議論の分かれ道
 そうした前提が説明された後で、本書著者は、文献資料である魏志倭人伝の解釈と考古学の知見をすりあわせた上で、古墳時代の開幕を3世紀前半であると判断し、この判断に従うと、倭人伝に書かれた邪馬台国は、奈良盆地の一角であるヤマトを本拠としていたと断定されるとの論理的な展開を述べている。この論争に良くある「決まり」主張である。

 もちろん、その際に、先に述べた、考古学の見る遺物、遺跡は、他の遺物、遺跡との相互年代、つまり、どちらが古いか新しいかという判断はできるものの、「絶対」年代、つまり、西暦何年であるとか、中国のどの王朝の何年という断定はできない、という考古学に対する定評を克服したと主張しているのである。

 このように明確な結論が端的に導き出されていると言うことは、その形成過程が「結論」に向かう強い指向性を持って進められていたのではないかと思われるのである。

*自然科学的手法の限界
 しかし、援用されていると思われる自然科学的な時代判定は、どのようなデータをどのような方法で検定したか明記されていないので一般論で批判するしかない。

 言うならば、考古学の持ち分である遺物、遺跡の鑑定の範囲ではなく、自然科学という別の観点からの判定であるから、その際の判断の行方は、自然科学分野の視点で支配されていて、考古学の立場からは責任をもって検証できないものと思われるのである。

 つまり、よくよく眺めると、本書著者が慎重に遠ざけていた文献史学による年代検定と同様、考古学にとって「部外者」見解による判断なのである。
 当ブログ筆者の科学観では、そのような外部の意見は、考古学者自身の見解形成に採用すべきではない、と言うものである。

未完

2017年2月 9日 (木)

今日の躓き石 近所迷惑な「頂点の夢」 社会人野球

                         2017/02/09

 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊十三版社会面の「野球のかたち」なる連載記事である。

 内容としては、高校、大学などで野球に集中していた人たちが、一旦、諦めて離れていた「頂点の夢」に今また取り組むという話なのだが、そこに「学生時代のリベンジ」を目的に参加しているというのは、何とも、気の毒な語られ方である。

 それぞれの語り手は、何の悪い意味もなく、ただ、気の効いたはやり言葉と思って、この忌まわしい言葉で語っているのかも知れないが、それならそれで、記事の筆者が、言葉遣いを治して上げれば、たとえその時は不愉快でも、これからの一生「復讐愛好家」と呼ばれないものに変わっていたはずである。

 ここで、近所迷惑というのは、すぐ左に、この忌まわしいカタカナ言葉と同じ言葉が登場しているからである。ストーカー殺人に伴う重罪を呼ぶ言葉と同じ言葉を、ここで無頓着、無造作に使っていることの不具合さに気づいていただければ幸いである。

 当ブログ記事筆者が、「リベンジ」狩りに本気で取り組んだのは、実は、この事件が契機であり、このような勝手な言葉にまつわる犯罪行為を憎んでいるからである。格好を付けて「リベンジ」、「仇討ち」、つまり、天に恥じない、正当な報い、と言いつつ、実は、勝手な暴力なのである。

 ちなみに、当記事は、他にも推敲不足で不用意だと思うのが、その直前の「球歴や野球観は三者三様」と書いているところに現れている。「三者」が誰のことかわからないのは別の話として、「球歴や野球観」は当然ながら千人いれば千人それぞれ異なるものなので、もったいぶって各人各様というのは、字数の割に意図不明である。

 また、「不完全燃焼」というのも、スポーツ関係報道の常套句としても、良く噛みしめれば、かなり不適当な比喩だろう。
 どんな大会でも、原則としてただ一チームしか立てない頂点に自分のチームが立てなかったとしても、自分なりに最善を尽くしていれば、悔いも恨みも残らないはずである。
 不完全燃焼とは、燃え尽きたかったのに、大事な酸素が来なかった。くやしい、けしからん、と誰かよその人のせいだと言うつもりかと思わせる。

 たまたま、朝刊読者投書で、新聞(全国紙)は「言葉遣いの教科書」と持ち上げられているのだから、ここでやり玉に挙げられるようなつまらない書き方でなく、教科書になるような記事を望むものである。

以上

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