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2017年2月

2017年2月26日 (日)

私の本棚 尾崎康「正史宋元版の研究」汲古書院 7/7

        私の見立て★★★★★                   2017/02/26

*紹凞刊本の由来 続
 私見だが、紹凞刊本東夷伝に於いて、参照に便利なように、「伝見出し」が本文に挿入されていて、それが、『倭人伝』の由来となっているが、これは正史刊本書式でなく、写本段階で、便宜的に書き加えられたものと見ているのである。
 刊本に採用された以上、このような小見出しは、魏志東夷伝の本文の一部と見なされていたと見ることもできるのではないか。

*刊本総点検で三国志に「邪馬臺国」はなかった
 尾崎氏は、広汎な三国志刊本資料精査の際、倭人伝に関する調査に手を取られたと述懐している。案ずるに「邪馬臺国」を念入りに総点検したらしいが、そう書いた刊本を見たとの証言がない。

*刊刻時の総点検
 いわゆる紹興本と紹凞本は、それぞれ刊刻に先立って、当時残存していた各種多数の版本写本を念入りに照合し決定稿を作成したと推定される。その際に「邪馬臺国」とする資料が無かったので、特に注釈の無い今日の刊本となったと思われる。
 言うまでもないが、その時点で北宋刊本の良本が十分存在していたら、写本照合は必要なかったと見えるのである。

 もし、それ以前に、その時点で一冊限りの国宝である当代原本に「邪馬臺国」と書かれていたものが、「下流」写本で「邪馬壹国」と誤写されたとしても、写本は毎回一から書き起こすものだから、その際に新規に発生した誤写は、その写本限りであって、その誤写内容は、その特定の写本の更に「下流」にのみ継承されるのであり、別の機会に写本を行えば、同一の誤写が再現されるとは限らず、従って、特定の誤写が三国志写本の全体を占めるに至らないはずである。

 そして、国宝原本の「複製作成」は、写本の域を超えた厳重な照合確認で完璧を期し、誤写の想定される文字の複写は、特に念入りに検証されるから、『安直な誤写は「ありえない」』と見るのである。

 つまり、当たり前の話だが、南宋初期の刊刻原本に「邪馬壹国」と書かれていたから現存刊本に「邪馬壹国」と書かれているのである。大抵の物事は単純な理由で起きているのである。

 勿論、膨大な三国志全巻を眺めると、細かい誤字・誤写に起因する刊本間の食い違いがあるようだが、それは別種の現象である。

 以上は、当ブログ筆者の私見である。

*おことわり
 最後に、素人の私見をよいことに、尾崎博士を「氏」とのみ敬称した点について、無礼を深くお詫びし、氏のご理解を求めるものである。

以上

追記 2017/06/20

 尾崎氏の本著は、ご本人の意志に沿ってかどうか、「紹凞本」三国志を高く評価する古田武彦氏の論説の信頼性を低めるためにだろうか、「紹凞本」に関する考察が部分的に引用されることが多いが、本書は、広範な「正史宋元版の研究」を述べたものであり、ここで当方が種々述べたのも、そのごく一部を概観したに過ぎないのは言うまでもない。

 氏は、紹凞本の信頼性に対する世評を卑しめるために本書を著述したものではないし、まして、その一部である倭人伝の国名表記を判断しているものでもない。
 この点、各論者の戒めとしていただきたいものである。

以上

 

 

 

 

私の本棚 尾崎康「正史宋元版の研究」汲古書院 6/7

        私の見立て★★★★★                   2017/02/26

*蜀蔵本のなぞ
 察するに、それ以外にも、蜀漢の故地である四川(蜀)は、中心である成都に小規模ながら刊本事業が成立していて、それは、おそらく、先立つ写本事業が継承されたもののようである。

 蜀は、華南の大河長江の中国内の最上流にあり、戦国末期の秦治世下で整備された灌漑水路に恵まれて水田稲作が発展し、盆地内に一千万程度の膨大な人口を支える食料の自給が可能であった。

 動乱の絶えない河水流域とは、険阻な地形で隔絶しているので、中央政権が衰えれば自立の動きが出る、いわば、独立の気概の地域である。

 遡って、唐時代だが、反乱軍の帝都長安制覇の際には、皇帝一行の逃避先となったが、平時、四川地方の独立離反を防ぐために有力皇族を封じるなど、長安代替機能を備えていたと推定される。

 特に記録は無いようだが、長江中下流の武昌、漢口、金陵すら遠隔地であり、成都教養人は、自前の書庫を持ったろうし、そのような途方もない贅沢ができる豊かさと治安の平静さがあったのである。因みに、先に述べた靖康の変後の金軍南進も、成都には遠く届かなかったのである。

 その名残で北宋期の成都には正史を含む一大書庫、今日で言う資料アーカイブがあったと推定される。というものの、成都アーカイブ、とか、蜀蔵本とかは、勝手な妄想、造語かも知れない。

 以上は、当ブログ筆者の私見である。

*紹凞刊本の由来
 国家事業として展開された刊本復旧事業による、三国志紹興本の刊行後、成都アーカイブから、咸平刊本に近いと見られる写本が提供され、これを深く吟味した結果、正史として継承するに値するものと判断して、坊刻により刊行することになったと見ているのである。

  以上は、当ブログ筆者の私見である。

未完

私の本棚 尾崎康「正史宋元版の研究」汲古書院 5/7

        私の見立て★★★★★                   2017/02/26

*紹凞刊本のなぞ
 その後、いわゆる「紹凞本」が刊行されたが、これはあってはならないものである。
 すでに南宋初代高帝の名の下に、紹興本が正史刊行されているから、これに異を唱える刊本は世に出せるはずが無いのである。また、経済的に豊かな南宋と言っても、重複刊行する財力は無かったと思われる。

 以上は、当ブログ筆者の私見である。

 尾崎氏の分析によれば、北宋咸平刊本は、行数文字数の規格の他に、割注などの注文にも独特の規格があり、紹凞本は、それを復元したものではないという。ご指摘の通りであろう。

 また、書誌学者として、紹凞本が登場した背景について、筋の通った説明を、仮説として触れるに足りる程度のものも見出せないと明言されている。学術書であるので、意見表明に慎重である。

 ということで、権威を持たない素人が私見を述べざるをえないのである。

 古田武彦氏によれば、書陵部蔵書に添付されている楪は、もともとの刊本の一部でなく、手書き複写から版を起こして継承されていたものであり、おそらく、「達筆」、つまり、草書体の手書きのものを書き戻したようだと言うことである。

 紹凞本に咸平刊本の楪(複写)が付いた理由であるが、紹凞本の原本が、咸平刊本から直々に起こした複製写本という意味(権威付け)で咸平本の楪を付けたものが、順当に継承されたようだ。

 達筆の走書きは、その道の達人以外には、正確に読み取れないことがあるのは公知である。正確さ厳守の正史写本の現場でも、実務には、草書が常用されていたということなのだろう。
 以上は、当ブログ筆者の私見である。

 尾崎氏は、ここまで、まずは、北宋時代、開封を代表とした中原地区、そして、南遷後に長江下流の臨安付近での刊本事業の興隆を語っている。
 各種資料を参照して、丹念に論拠を示した上での論説であることは言うまでもない。

未完

私の本棚 尾崎康「正史宋元版の研究」汲古書院 4/7

        私の見立て★★★★★                   2017/02/26

*民間活用
 と言うことで、尾崎氏の資料分析によれば、南宋の正史刊本覆刻で、いわゆる紹凞本の刊行には、民間の刻本業者を起用する「坊刻」が活用されるようになったのである。むしろ、刻本事業の民間移管で、官刻は衰退したのではないかと思われる。
 以上は、当ブログ筆者の私見である。

*坊刻興隆
 「坊刻」は、南遷時の激動により大いに手薄になった政府機関による官営でなく、北宋後期から活性化してきた民間事業による版刻である。
 中核となる人材に、官営事業で育成された、技能、教養に優れた、国家の精鋭たる刻工を起用し、印刷、製本、そして、用紙調達に民間の経済原理を発揮して、続々と正史再刊を進めたようである。
 尾崎氏の筆致にも、坊刻、官刻に対する先入観としての価値判断は含まれていないように思う。

*紹興刊本
 また、南宋刊本再構築に際して、原本として利用できたのは、希少な北宋刊本(官刻)でなく、そこから二次的、三次的に翻刻された通用本であったようである。

 北宋刊本は、木版印刷と言っても、さほど多数刷られなかったようである。当時、書籍全体を通して紙質が整然とした(高価な特製)用紙の確保が困難と言うこともあったと思う。私見では、百冊にも達していないのではないかと思われる。

 官製刊本の大きな役目は、それまで、粗雑な写本の繰り返しで世上の書籍内容にばらつきが多く見られたのを改善するものだったと思われる。

 各地に刊本が届けば、まずは、正確な複製本を写本作成した上で、流通写本を容易に校正できるのである。

 三国志の南宋覆刻である紹興本は、南遷に従った正史刊本お目付役の目には、諸処に難ありと映ったが、校正しようにも典拠となる「原本」がなかったので仕方なく看過したものと思われる。

 以上は、当ブログ筆者の私見である。

未完

私の本棚 尾崎康「正史宋元版の研究」汲古書院 3/7

        私の見立て★★★★★                   2017/02/26

*至宝の民業化
 南宋での宮廷儀礼復活に載して、先史以来の祭祀青銅器を失ったために、青銅器の形状を青磁で復元したとされている。緊急事態ゆえに門外不出の官窯青磁の技法が民窯に開示されたと見ている。

 余談であるが、金軍の略奪破壊には、国家行政の基本となる戸籍、地籍などの台帳類や律令に始まる法令類のように政権運営に不可欠な資料も含まれていたはずである。太祖趙匡胤の「石刻遺訓」のように宰相すら見ることを禁じられていた秘事まで置き去りにするほどだから、責任者不在の中、逃亡するしか無かったようである。

 宋なる往時の中原国家は、ほぼ全壊し、残された骨格も火だるま状態になっていたと思われる。
 以上は、当ブログ筆者の私見である。

2 復興の道
*文物復興の歩み

 以下、正史刊行という当方の関心分野に視点を移すと、このように、南遷後の宋朝は、刊本制作拠点の地方分散の甲斐も無く、三史に始まる正史原本がなく、失われた正史刊本再刊にも版木がなく、無い無い尽くしの事態に陥ったのである。

 唯一の救いは、刊本再構築に要する刻本、印刷、製本などに要する人材、機材が、民間に残されていたと言うことである。つまり、北宋期の民間経済の発展は高度な刻本技術を民間に伝え、優れた民間刻工が勢揃いしていたのである。これは宋代刊本に添付された刻工一覧などでわかるのである。

*長江燦然
 南朝時代に興隆した長江経済圏は、流域の稲作食料並びに茶葉の供給力と併せて、金の制覇した中原経済圏を圧していたものである。先立つ南朝歴代王朝は、中原回復の使命感に囚われて、軍備に財力と人材を消耗し衰亡の一途を辿ったのに対して、南宋は、毅然と国政を保ったと言える。

 いわば、民間経済力により、南宋は金を経済的に圧倒し、南北の抗争は、一種、均衡を保ったものである。

 以上は、当ブログ筆者の私見である。

未完

私の本棚 尾崎康「正史宋元版の研究」汲古書院 2/7

        私の見立て★★★★★                   2017/02/26

 また、三国時代の蜀都成都、呉都金陵には、それぞれの王朝の文物が残されていたようであるから、東晋が再興を図ったときには、何とか、文物の体裁が保てたようである。

 時代が進んで記録が豊かになったこともあって、北宋壊滅時の文物破壊は、激しいものであったと記録されている。

 当方が、氏の著書を渉猟して求めているのは、南宋刊本に至る長年の写本の継承であり、氏が、宋の南遷として語っている「靖康の変」が写本、刊本に対して及ぼした甚大な被害は、噛みしめる必要がある。

*宋朝壊滅 文物剥奪
 靖康の変は、宋の帝都開封が落城したものだが、侵略者である金は、北方異民族でありながら、中国文明の影響が深く浸透し、帰属した漢族高官の影響もあって、宋王朝文物である書画、骨董、稀覯書に対する所有欲が深かったと見られる。そのため、開封の帝室宝物が根こそぎ持ち出されたのは、よく知られている。各副都を含め、近傍各地の高官や蔵書家の文物や書庫まで根こそぎされたようである。

 また、靖康の変で、金王朝は、宋王朝を完全撲滅する意図から、皇統譜に掲載の皇族を根こそぎ連れ去るという熾烈な方針で臨んだとされている。

 そうした金軍の怒濤のような攻勢から、帝位継承可能な皇族として唯一逃れた、後の南宋初代皇帝高宗は、南方臨安に宋王朝を再建しようとしたが、金軍の南進に耐えきれず、長江南方に逃亡する始末となった。

*臨安攻撃
 臨安に進攻した金軍は、そこに正史版木を発見して、これもまた根こそぎ奪い取る挙に出たのである。何とも、壮烈な憎しみである。

 金軍の北帰後に臨安に構築された南宋は、宋朝再建、国土回復どころか、金の更なる南征に備える軍備強化を迫られるなか、文化政策や行政機構の再構築に苦闘していたのである。

未完

私の本棚 尾崎康「正史宋元版の研究」汲古書院 1/7

        私の見立て★★★★★                   2017/02/26

 尾崎康博士の研究成果は、汲古書院から「正史宋元版の研究」として 1988年(1989年刊行とする資料もあるが)に刊行されている。当ブログ筆者は、購入できていないが、幸いにも、本書を閲覧する機会に恵まれたので、蔵書ではないが、本棚番外として公開するものである。蔵書ではないので、資料引用は、極力差し控えたい。 
 今般(2017/06/20)購入した。

 本論では、尾崎氏(失礼ながら、以下学位は省略したが、氏の業績に対する深い尊敬の念は、当記事全体に維持されていると思う)の著書の一部を紹介するのだが、氏の三国志刊本に関する見識は、厖大な刊本資料の丹念な精査に密着した分析と総合的な考察に裏付けられ、当ブログ筆者が異論を申し立てられるものではない。

 ここで述べたいのは、そうした現代日本語で言う「大海」のごとき著述の中から三国志の変遷に関する思索を編みだし、世の人々の思索の材料を提供することである。

1 靖康の惨禍
 ここでは、本書の中でも、三国志宋代刊本について論ずるのだが、何と言っても、この時代を語る際には、中国全土を支配していた宋(便宜上、大抵は北宋と呼ぶが、全国統一政権であった)が、北方の金との全面衝突に敗れて、帝都である開封を金の大軍に包囲され、徹底抗戦による全面殺戮(屠城)を防ぐために、当代皇帝欽宗が、父親である上皇徽宗と共に金軍に投降したことに始まる靖康の変と呼ばれる金軍の侵攻を語らざるを得ない。

*永嘉の乱
 はるか以前、洛陽を帝都としていた晋(便宜上、大抵は西晋と呼ぶが、全国統一政権であった)が、北方民族の帝都攻略により、当代皇帝が虜となった前例(永嘉の乱311)があるが、その際の侵略者は、特に、中国文物に興味を持たなかったので、金銀、宝玉類は掠奪にあっても、書庫の侵略までは無く、文物の被害はまだましだったようである。

 因みに、これは、後漢書編者笵曄や三国志注釈の裴松之の生まれる半世紀以上前の話である。

未完

2017年2月24日 (金)

倭人伝の散歩道2017 卑弥呼墓制考

                               2017/02/24 

 倭人伝の「卑彌呼以死大作冢」記事に関して諸賢による深読みがされているが、当ブログ筆者は、卑彌呼が亡くなり墓を作った、と読む。後世の類書「太平御覧」は「女王死大作塚」としている。北宋期の史家にそう読めたということである。

 それはともかくとして、他ならぬ倭人伝に、倭国の葬送は「封土作冢」と明記されていて、墓の造りは土まんじゅうのようなものと見えるから、これは「古墳」と呼ばれる大規模な墳丘墓とは別ものに思える。現代の解釈は、続く「径百餘歩」を根拠に古墳と決め込んでいるが、まずは史料の語彙に語らせるべきではないか。
 ここで、古墳と書いているのは、古代史の用語に従っているのであって、造営当時は、古くないどころか、最新形であったが、これは仕方ないところである。

 素人は、以下のごとく推論する。東夷伝の一部である倭人伝にそう書かれていると言うことは、明帝景初年間、朝鮮半島と倭国に古墳はなく、よって古墳造営技術はなかったと見られる。

 ここで、女王の墓で「以死大作冢」とあるのは没後造営の趣旨である。つまり、具体的な準備はできていなかったのである。それまで王墓は王直轄領域内の動員ですんでいたはずだが、女王が格別の功績を挙げたとは言え、その死に当たって前例のない大規模な古墳造営を決定して、突然大工事を指示されたら、各地支配者は、大規模かつ長期間の労役動員に到底対応できまい。

 倭人伝が、そのような事態を特記していないと言うことは、卑弥呼塚は、大動員なしに既存技術で造営できる封土墓であったと推定する

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私の本棚 「古代史15の新説」別冊宝島その3 6/6 長野正孝

          私の見立て☆☆☆☆☆               2017/02/23

鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 長野正孝

連鎖物流考
 九州北部から大阪湾岸までの東西五百キロメートル余りの瀬戸内航路を商船が往来するのは、遙か後年のことだ
というのは妥当な推論であろうが、それまで、瀬戸内の海上物流が一切不可能だったと断じるのは、言い過ぎであろう。

 当ブログ筆者は、一素人であるから、史料も何も見ないままに、各地で、身軽な小舟が、沿岸の主要集落を繋いで物資輸送していたはずであり、航行距離は、一人が半日程度で漕ぎ通せる程度の短かいものでも、数多くの小舟の日々の行き来を繋いでいくと、図らずも数百キロに及び、難関を越えた長距離物流になったのではないかと見ているのである。

 長距離を太い鉄棒のようにつながなくとも、細く小さな鎖を連携すればよいのである。鎖が切れたら、つなげばよいのである。そのような連鎖する流れが、古代に於ける、滔々たる川の流れのような「物流」かも知れないと思うのである。

 現代の貨物船による輸送と違って、契約で、着荷日程を指定されているわけでなく、はるか東方で物流の末端にいるものは、到着までに何年かかろうと知ったことではなく、舶来で所望の品物が手には入れば、それでよいとみたと思うのである。

 それにしても論者のいうように、古代において、芸予諸島が航行不可能であったとなると、今日の高縄半島部は、東西と交流できず、孤立していたことになるのである。
 創世記において、伊予の二名の州として、つまり一国として認知されていた四国西北部が絶海の孤島であったとは思えないのである。

*重い使命
 論者は、鉄の比重(Specific Gravity)が輸送の妨げになっていたように言うが、鉄が貴金属なみに尊重されていたのであれば、人が担げる程度の量でも十分な財産価値があると言うことであり、大量輸送の必要などないのである。銅は、比重8.9で一段と「重い」し、金、銀は更に「重い」が、だからといって比重で輸送経路が決まったわけではないのではないか。

 輸送する際に問題となるのは、荷物の質量(重さ Gravity)であり、比重てはないと思う。当時、荷物を船で運ぶかどうか決める際に、構成物の比重をどうやって知ったのだろうか。現代の貨物輸送のように、その都度貨物の外寸容積(才)と重量を計測して比重を計算し、運賃を決めていたのだろうか。
 按ずるに、この部分の新説は、何かの錯誤であろう。

*結語
 と言うことで、当ブログ筆者は、ここに掲載されている記事を最後まで追いかけることはできなかった。従って、論者の主張を云々することはできない。

 ウィンストン・チャーチルの言いぐさをもじって言うなら、卵焼きの良い悪いを判断するのに、全部食べなければならないわけではない、となる。いや、これは冗談半分である。

 論説を最後まで読んで欲しかったら、最初の一行から、丁寧に文章を推敲・吟味して、つまらない錯誤を交えないことである。 

以上

私の本棚 「古代史15の新説」別冊宝島その3 5/6 長野正孝

          私の見立て☆☆☆☆☆               2017/02/23

鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 長野正孝

*鉄本位経済
 國出鐵,韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡。

 再掲、再説になるが、朝鮮半島東南部の産鉄地区に、韓、濊、倭の近傍三者が鉄を取りに来ていると言う。この地域は、帯方郡の管轄下であるから、秩序正しく統制されていて、三者も、武力で鉄鉱山を支配する気などないのである。高句麗、扶余は仲間に入っていないから、別に鉄の調達先があったのだろう。

 論者は、二世紀頃まで鉄は高価であったと言うが、対価として何を想定して高価というのだろうか。

 史書は、鉄は、東夷において中国の銅銭のようだという。銅銭同様と言うほど潤沢で、広く物の値段の基準になっていたことは明らかである。いわば「鉄本位経済」であり、各国に通貨は無いから、「国際通貨」なのである。

 鉄鋌は、溶鉄を樋のような受け皿に流し込んで、自然に冷却固化させたのだろう。鉄器作りどころか、延べ棒に成形する技術もないから、成り行きで送り出したのである。

 必要なときは天秤で目方の測定はできるし、所詮、銭の位置付けであるから、縛り上げた鉄挺の枚数で硬貨代わりにしたのであろう。まとめて縛ったときに、抜けないように、両端を幅広く鋳出しているのは、賢い工夫である。受取り手は、扱いやすい鉄鋌で良いというのであるから、この形が当時として最善なのである。
 それにしても、各種族が、高価な対価を支払って鉄を買い付けたとは論者の錯覚であろう。

*脱落談
 このあたりで、当方は、論者の説く新説幻想について行けなくなった。古代に無造作に適用された現代概念が醸し出す脈絡のない時代錯誤連発で、反射的に突っ込みさせられて、徒労なのである。新説の導入部が、導入の役をなしていないのである。

 論者は、何冊かの著書を上申していて、支持者もいるのだろうが、読者諸氏は、よほど辛抱強いのか、論証部分を無視して結論だけを支持しているのか、よくわからない。 当方は、ただの読者であるが、これでは闇鍋でゴム靴をかじらされた感じである。書籍購入はご勘弁いただきたい。

 以下、話題豊富な記事の目立った話題について私見を述べておく。

未完

私の本棚 「古代史15の新説」別冊宝島その3 4/6 長野正孝

          私の見立て☆☆☆☆☆               2017/02/23

鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 長野正孝

*謎の鉄器文明
 論者は、「運んだ鉄は戦いの後で発生した武器などの鉄くず」と称しているが見てきたようなほらであろう。そんな詳しいことは書かれていない。文意が取れない悪文である。

 そのようにして得た「鉄くず」を、何者かが九州北部で鋼鉄製品に鍛冶したと言うが根拠はあるのだろうか。ページ上半分になにやら真っ黒い図が貼り付けてあるが、どこでどのように発掘されどのように確認された物なのか書いていないから、場所を占めているだけで無意味である。

 続いて、「一つの大きな鉄器を三つに加工」とあるが、なんのことか理解できない。

 どの程度を大きいというのかわからないが、それぞれの鉄器には、その鉄器に託された機能があったはずであり、たとえば、一つの「鉄斧」を三つの「鉄斧」に増やす加工ができるとは思えない。あるいは、細かく「裁断」と言うが、鉄器を、まるでカッターナイフで紙を切るように、裁断できる刃物があったとは思えない。

 加工して「付加価値」をつけるというが、当時、「付加価値」と言う概念はなかったから、時代錯誤と言うしかない。まして、「さらに商い」と言うが、当時どのような商業活動をしたのか示されていないので、意味不明である。

 要は、現代の経済活動の用語を、それが、古代の鉄本位経済に通用するかどうかお構いなしに、適当に書き殴っているのだが、それは、時代錯誤に過ぎず、意味を理解できない善良な読者は混乱する。

*時代錯誤の国際人説法
 とどめとして、次の小見出しには失笑する。「国境なき国際人」は、どんなつもりで書いたのだろうか。当時の東夷では、国家が形成されていなかった。東夷伝の便宜上、大国、小国取り混ぜて「国」と称しているのである。

 もちろん、現代感覚で言う「国境」は存在しないのである。国家がないから、「国籍」も「国際」もない。論者が、自家製の現代概念にとりつかれて、時代錯誤に陥っているのが見える。

 最後のご奉仕で、もう少し批判を足す。

未完

私の本棚 「古代史15の新説」別冊宝島その3 3/6 長野正孝

          私の見立て☆☆☆☆☆               2017/02/23

鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 長野正孝

*鉄材商人幻想

 國出鐵,韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡。

 再掲、再説すると、論者は倭が鉄を買い付けたというが、記事には、鉄は通貨代わりだと書いているのである。つまり、価値のある財貨を現地に持ち込んで売りつけ、対価として鉄を支払って貰うという交易である。鉄を買うのではない。自説に合うように史書記事を改竄するのは、不信感をあおるだけである。

 まして、鉄材を当時存在しない「日本」に運んだという記事は、何かの錯覚であろう。「日本」が登場したのは、さらに四,五百年を経た後である。重大な時代錯誤というしかない。どこの何者に運んだと主張しているのか。

 普通に考えれば、「倭」が鉄を入手したら倭の本拠地に持ち帰るのである。

 それがどの地域にあったかは、この際の議論には直接関係ないが、まずは、朝鮮半島南部の拠点に届けたろうし、ものの10日ほどで届けられる九州北部に持ち帰ったのだろう。長々と続く沿岸航海なのか、それとも山河を越えてか、とにかく6か月を要しかねない遠隔地である後年の大和の地まで直接、全量を運んだとは思えない。

 それが、物の道理というものである。

*古代交易の推定
 当ブログ記事の筆者の時代感では、当時の倭は、各地に点在する「国」が、それぞれ小国をなして自律的に活動しているのである。

 ものの道理として、価値あるものは、多くあるところから少ないところに、水が低きに流れるように移動していくものである。バケツリレーのようで月日がかかるが、当時は、「通商国家」はないし「国境なき豪商」もいないのである。

 後年の山城あたりで出土した鉄遺物は、土地の豪族が原産地から直接買い付けたのでなく、九州北部から瀬戸内海沿岸諸国を順次通じて到着したと見るものではないか。

 鉄が「国際通貨」であれば、交易対価として鉄を受け取るのであり、財貨物ではないから、途中の諸国で鉄に都度関税を上乗せされることがない。数十年に亘って、そのような交易を続ければ、自然に「金庫」に鉄が溜まる。使い道が特になかったから死蔵され、豪族の埋葬に際して、副葬物となったのではないか。
 武器などに活用されていたら、とても、死蔵も埋蔵もしないのである。

未完

私の本棚 「古代史15の新説」別冊宝島その3 2/6 長野正孝

          私の見立て☆☆☆☆☆               2017/02/23

鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 長野正孝

*朝鮮半島鉄事情
 朝鮮半島の鉄産出を書いているのは、東南部の「辰韓」のあたりの部分である。例によって、三国志の記事は、簡にして要を得ているから、丁寧に読みほぐせば、たっぷり情報が取れるはずである。
 常識的に言えば、大々的な鉱山採掘ではなく、露頭に近い状態で鉄鉱石がとれたのであろう。それを、薪炭を使用して精錬し、銑鉄を取り出したと言うことだろう。あるいは、後年の中国山地の砂鉄採取、たたら製鉄の前身、つまり、砂鉄採取だったかも知れないが、当ブログ筆者の知識外である。

 國出鐵,韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡。

 ここには、韓、濊、倭が鉄を手に入れていると書かれているが、争ったとの記事はない。争っていたとすれば、それぞれの集団が派兵して鉱山支配を競うのだろうが、各集団には、大国、つまり、韓国、濊国、倭国というような広域国家が未形成で、小国、つまり、韓伝で列記されているに国家の体をなしていなかったから、「国軍」、「国益」なとの概念はなく、また、そこまでして産鉄地の独占支配を計るほどの価値を見いだしていなかったとみられるから、争ってはいなかったのだろう。

 また、産鉄地は楽浪、帯方両郡の監督下にあったと思われる時代なのに両郡が鉄鉱山を管理していた気配はない。単に、両郡に鉄材が供給していただけである。銭代わりに貢納したのではないか。つまり、両郡も、鉄を特に重大視していなかったのである。

 こうして、原文を咀嚼してみると、論者の書いた記事は、資料を理解したものではなく、いくつかの単語を取り出して自身の架空世界を構築し、それについて語っているようだ。現実と仮想世界の区別がつかないうのは感心しない。論者の見ている仮想世界は、論者にしか見えないので、読者には、語られることはが何を指しているのか見えないのである。

未完

私の本棚 「古代史15の新説」別冊宝島その3 1/6 長野正孝

          私の見立て☆☆☆☆☆               2017/02/23

鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 長野正孝

 この論者の著作は、アマゾンで内容抜粋を読んで、とてもついて行けないとさじを投げた経緯を発表している。当記事も、ついて行けない乱脈記述でさじを投げた。
 いや、かれこれ三カ月ほどどうしたものかと悩んだのである。結局、他の「書評」と同様に、筋の通らない議論は、率直に指摘することにしたのである。

 その一つは、古代史関係で珍しくもないのだが、時代錯誤の語彙起用である。現代人の語感で古代記事を書くものだから、文の意味が混乱するのである。論者の脳内は、どのような構成になっているのだろうか。到底、常人の知り得ない境地なのかも知れない。いや、そんなことは、個人の「プライベート」な「奥」の世界なので、当方の知るところではないののであり、論者は当記事で、その内なる世界を外部に投影して、読者に伝えようとしているはずだが、一向に、外から見える「パブリック」な「表」に出てくれないのである。

*背景事情
 一般的な理解として、中国の鉄器は、戦国時代後半頃に、鋳鉄による鋳物で始まったという。これに対して、論者は、紀元前三世紀頃から、九州北部への鉄流入が始まったと説いているが、鉄鋳物の流入したのを加工したというのであれば、そこから、鍛冶屋が鉄器をたたき出すことも始まったというのだろうか。それとも、鉄鋳物用の高温炉ができたというのだろうか。よくわからない。

 それにしても、鉄に関する肝心な事項の説明がないのが不思議である。無造作に鉄というものの、鋳鉄の鋳物と鋼を採用した鉄器では、製造方法が違えば、得られる鉄器の用途がまるで違うのだが、論者は、一緒くたにして、読者の理解を妨げたがっているようである。

 そのような事項を放置して、二世紀頃、つまり、先の事象から四,五百年を経て、鉄器が大量に流入したと言うが、ここでもどんな鉄器なのか語られていない。

 更に読者を混乱させるのは、「倭人や渡来人が鉄を運んだ時代は、『日本書紀』の時代とほぼ一致する」とのいい切りである。突然持ち込まれた『「日本書紀」の時代』がいつのことかわからないから、読者には、同感も批判もできないはずである。

  独り相撲は、見えない神を負かすための芸であるが、論者は、どんな観衆にどんな芸を披露しているつもりなのか。

未完

2017年2月19日 (日)

毎日新聞 歴史の鍵穴 不確かな謎の不確かな解決

          私の見立て☆☆☆☆☆               2017/02/19

 壬申の乱の大海人皇子 夏至の方位に素早く移動=専門編集委員・佐々木泰造

 今回、毎日新聞大阪2017年2月15日付夕刊掲載の月一記事に対して当方のブログ記事が遅れたのは、諸事多忙のせいもあるが、一つにはあきれたからである。とは言え、当ブログは、「歴史の鍵穴」記事の論理のほころびに批判を加える立場を取っているので、今回も、ブログのポリシーに従い、手抜きせずに一介の素人読者としての批判を加えることにした。

*無批判の史料依存
 念のため言うと、今回記事は、出典を隠していても、「日本書紀」記事のいずれかの解説書によるものと思われるが、ここに引用され図示されている「大海人の皇人(ママ)の進路」は原史料の忠実な解釈としても、示されている行程は、とうてい「常人」の踏破できるものではなく、「フィクション」の可能性が高いように思う。(吉野宮が、現在金峯山寺のある山岳地であったという2016年10月記事の主張は採り入れないとしても)

 この記事だけを手がかりとするにしても、訓練を経た武人だけならともかく、妻や子、そして、女官多数の足の弱い面々を引き連れて、朔日に近い24日の無いに等しい月明かりをたよりに、見たこともない険阻な山道を「夜を徹して」突き進むことなどできなかったはずである。もちろん、これらの弱者を背負ったり、輿で運ぶなどは論外であろう。

 いや、いくら武人でも背負っている装備や食料の重荷を考えれば、全体として到底踏破できない距離と行程と素人は思うのである。戦地に到着したとき、兵士が疲労困憊して半死半生で戦闘不能であったら、それは「強行軍」ではないのである。

 以上は、自分で現地を踏破したわけではないから、地形図やネットで見る紀行文を参考にするのだが、この行程は、結構起伏曲折の激しい山道であり、平坦地の古代道路を淡々と移動したのではないと推定しているのである。難路とみるのが間違いであれば、ご指摘いただきたい。

 そうした「フィクション」が両陣営の戦績について正確という保証は何もない。勝った方が、全部勝ったと言っているだけではないのかと、疑ってかかるべきであろう。かろうじて、最終的な勝敗はその通りだったろうというしかない。

 そのように不確かな戦いで、近江側が、不思議にもことごとく負けたというのが推測なら、それは、近江側が戦意を喪失したためだろうというのは推測の上に推測を重ねていると見える。そうした記事筆者の個人的な思い込みを「謎」と見るのは、誠に勝手だが、困ったものだと読者は嘆くのである。

 普通に考えれば、反乱を予想していなかった近江側は、広範な軍の動員が立ち後れ、反乱軍の勢いに抗しきれなかったと見るものだろう。そのような立ち後れは、古代の軍備、輸送、交通の整備状態を想像すれば、急遽援軍を得て劣勢回復することが不可能であったとしても、何の不思議もない。むしろ、全面的な劣勢を自覚していれば、早々に西国に亡命すべき所である。

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2017年2月11日 (土)

古代史随想 木津川恵比寿神社と椿井大塚山古墳 2/2

                    2017/02/11
*政権氏族の氏神
 さて、このように独立をもくろむ政権が、定住の最初に行うことは、神社の建立である。氏族の氏神をまつり、自身の父母、祖父母をまつり、氏族集団の統御の象徴とするものである。そこで、それらしい神社の形跡を求めて周囲を探すと、木津川市加茂町の恵比寿神社が目についた。

 木津川市サイトに公開されている社伝によると、鎌倉時代末期の元弘年間の創建となっていて、公式記録は尊重するが、それ以前に神社がなかったと言っているのではないように思う。
 社殿に掲示されている説明板によると、古文書らしい「蛭子明神記録」には、鎌倉時代寛元二年(1244年)の棟札があったとされていて、参考になる。
 つまり、公式記録に記された元弘年間の創建は、何もないところに一から建てたものではなく、それ以前に存在していた恵比須神社を改装したということだろう。

 そのときに創建したとすれば、どこそこの恵比寿神社から祭神を招いたとあるものなのだが、特に語られていないからそう思うのである。もちろん、そうした推定に対して、確かな証拠があるわけではない。

 謝辞 「社殿に掲示されている説明板」は、ahisats3のブログ 掲載写真による。

*ひるこ幻想
 ちなみに、「えびす」の発音ながら、ことさら「蛭子明神記録」と書いているのは、伊弉冉(いざなみ)-伊弉諾(いざなぎ)の両神から生まれた「ひるこ」の流れを汲んでいるのかもしれない。

 記紀に残された創世神話で、ひるこは、早くに生まれたものの両親の意に沿わなかったため幼くして捨てられたようになっているが、実際は、両親の意に反して自立し、家を出たために、家系から外されたという見方も、独善を承知でしようと思えばできるのである。

 と言う風に緩やかに解釈すると、ここに定着した集団は、いずれかの時点で、勝手に母国を離れた反逆児かもしれない。もちろん、そうした推定には、何の証拠もない。

*神社の継承
 古代以来、各地に無数といえるほどの神社が建立され、ほとんど廃社になった例を聞かないから、当神社は、古代の椿井政権の氏神の後身ではないかと思うのである。おそらく、この地が、氏神にふさわしい地形、方位であり、他に代えがたかったのだろうと感じるのである。

 近年まで、木津川対岸のえびす岩に船で渡る神事が長く維持されていたというから、ますます、地元住民の尊崇の的である神社をなくして、別の場所に氏神を設けることはできなかっただろう。あくまで推定である。

*高床形式の社殿
 木津川市のサイトの解説では、当神社の社殿は、鎌倉時代の創建とされていながら、高床式の建物であるという。つまり、創建は、はるか古墳時代であり、その後、木津川の氾濫などで損壊したとしても、原型に従って再興されたと推定してもいいのではないか。

*おことわり
 さて、以上のつじつま合わせで、一応もっともらしいお話になったように思うのだが、実は、以上は、すべて、ある一日(「建国記念日」)の午後に、PCでネットを彷徨いながら、古代に生まれ、繁栄し、やがて、衰退して、歴史に名を残さずに埋もれたと思われる一地方政権についての幻想を綴りあげたものである。

 決して、木津川市に実在する古墳や神社の古代歴史を勝手に書き換えて迷惑をかけようとしたものではない。あくまで、あくまで、「フィクション」である。

以上

古代史随想 木津川恵比寿神社と椿井大塚山古墳 1/2

                    2017/02/11
 木津川恵比寿神社にたどり着いたのは、元々、別の記事で批判した小林行雄氏の論説で、古代の銅鏡配布の一大拠点とされている椿井大塚山古墳の被葬者たる「椿井政権」首長の故地を訪ねて、PC上で散策したことによる。
 まだ、現地に行ったことはないが、ここに書いた程度の推定を綴れるだけ、詳しい状況を探ったのである。

*椿井政権の萌芽
 グーグルマップで椿井大塚山古墳の位置を探すと、話に聞いたとおり、JR奈良線の軌道が横切っていて、広く見渡すと、ここは大阪湾から遡上した淀川水系の木津川の東岸であって、木津川は、しばらく南下した後大きく東に転じてL字型の流路が開けている。
 木津川の西岸にはJR片町線が走っていて南のJR木津でJR奈良線と連絡する。いわば、河川水運、陸上交通の両面で、要地を占めていることが見て取れる。

 いずれの時代か、いずこからか大阪湾に来航した船団が淀川に入り、それぞれ好適と思われる地点に定住者を下ろしては遡上し、ここにも、一団が定住したようである。おそらく、ずいぶん長い期間を要したであろう。
 また、同じ淀川水系でも、木津川以外の支流である宇治川を遡行して琵琶湖に到着した集団や桂川や鴨川を遡行した集団もあったとも思われるが、その経緯は不明である。

*大いなる繁栄
 確かなのは、木津川流域のこの地点に定住した集団が、木津川の豊富な灌漑水量と水産資源を生かした農漁業によって十分な食料を得るとともに、木津川-淀川-瀬戸内海という無類の幹線水路の水運を仕切って、交易収益により堂々と自立していただろうということである。

 そうした交易経路が確保できた原因は、淀川流域の要所に一族の政権が定着して協調的に交易ができたということだろう。いや、推測しているだけである。

 後年、椿井政権が大量の銅鏡を得たのは、交易で入手(購入)したものなのか、自身で銅鋳物生産を行ったものか、いずれかとも思われる。自製化するときも必要な銅素材を交易で購入するについては、自前で鋳造した銅製品を提供(販売)していたとも思われる。

 何しろ、大量の銅素材や銅鏡を入手するには、大量の対価物が必要であるが、さほど広くない領地であるから穀物生産が特に潤沢であったとも思えず、と言って、それ以外に「売り物」が見当たらないので、銅製品の販売と思うのである。

 現代風の経済概念でいうと、「高度技術」による「付加価値」で大きく稼いでいた、のではないか。もちろん、これほどの技術があれば、ほかにも売り物はあったはずである。

 とにかく、「夜郎自大」ではないが、当時、壮大な宮殿こそ建てなかったものの、この地域の周辺では、抜群の威勢を誇っていたのではないか。

*ヤマトとの関わり
 ここは、京都府、つまり、山城国である。南のさほど高くない分水嶺を越えると、曾布地域であるが、さほどの距離でもないので、当時先進の椿井政権の恩恵を受けていたかもしれない。

 さらに南に下ると、平地と言っても距離のある葛城、三輪の領域であリ、徒歩行で遠距離であるので、交易の規模は限られていただろうし、それ故に銅鏡「配布」時代には、武力衝突などなかったと思われる。もちろん、そうした推定には何の証拠もない。

未完

2017年2月10日 (金)

私の本棚 「考古学と古代史の間」 2

 筑摩プリマーブックス154 白石太一郎 筑摩書房 2004年
          私の見立て★☆☆☆☆               2017/02/10

*「考古学」と科学的測定法の狭間
 これは自然科学の判定が信用できるかどうかという話ではない。単に、自身の学識および知見と自身の学識および知見外のものとを混同してはならないのではないか、というものである。

 当ブログ筆者は、工学系の訓練を受けて、企業内で実務に携わってきた。場数はある程度踏んでいると考えていただきたい。

 その背景から言うと、科学技術的な測定と見解は、測定機器の高精度化とデジタル化によって、主観の介入しない、客観的なものとなっていると思われがちだが、実は、主観の影響を大きく受けていると考えるのである。

 いや、データのねつ造などと言う極端な事例は、旅路の果ての破局として、そこに至らないまでも、所望の結果を出すのが仕事なのである。たとえば、どのような測定方法で、どのようにして測定するか、を選択する段階で、測定結果が予想されてしまうことは珍しくない。つまり、測定者の希望するデータが出るように測定方法や調整方法が塩梅されることは珍しくないのである。
 また、どのような条件が満足されたら、検定されている仮説が成立していると認められるか、という判断条件の選択も、主観に左右されるのである。

 言うならば、専門機関といえども、依頼元の意図を理解して、それが肯定されるような結果を出さねば依頼元の期待を裏切ると考えて、測定方法を調整し、データ解釈をそのように演出することは、ざらにあることである。

 と言うように、ことは自然科学的な判断と言えども、その当否は容易に検定しがたいのである。

 繰り返しになるが、考古学者は、自身の学識、知見については責任を持てるだろうが、自然科学的な測定については、畑違いで責任範囲外なのだから、そのように扱うべきなのである。

*早計な判断
 そこまで突き詰めるのは、本書では、自然科学的な測定結果によって、考古学としての古墳年代を比定しているように見えるからである。更に、そのような判断を元に、文献資料の解釈を一定方向に決めているからである。
 そのような判定をするのは、それが自身の希望する解釈に添っているからだろうが、古典的な言い方をするならば、それは曲筆である。

 本書著者は、考古学者としてかくかくたる名声を得ている方と思うが、一読者としては、他分野からの見解を十分に批判することなく受け入れて、考古学者の使命をおろそかにしているように見えるのである。

 しかも、ご自身で、最初に述べたように、考古学者の見識が揺らぐ原因として、外部の異質な分野の見解の安易な取り合わせがあることを見抜かれているのだから、なおさらに、本書の主題となっている「曲筆」は痛々しいのである。

*素人の意見
 言うまでもないが、当ブログ筆者は、遺物、遺跡を実見することはできないので、諸文献を精読して自分なりの意見を形成するしかない。つまり、先賢各位の高説を元に文献を読み解くしかないのだが、その限りでは、倭人伝には、九州北部に(局地的に)存在する倭国が描かれているとする意見に大きく傾いている。

 これに対して、本書著者は、深い学識で、ヤマトにあった地方政権が次々と勢力を拡大して、全国政権として広く統括するに至った「歴史の必然」を示されていて、当ブログ筆者は、深い敬意を持ってその展開を眺めるものである。

 ただ、そのような堂々たる議論が、文献資料とつなぎ合わせるために、たとえば、箸墓の造成が卑弥呼の没後に10年以上かけて行われたというような無理な展開でぶちこわされていると見るのである。もったいない話ではないかと思う。

 堂々たる議論の歪みが、文献資料の強引な取り込みに起因したものであり、そのような強引な議論の根拠とするために、自然科学的な測定結果を新たに築き上げた、というような進め方には賛同できかねるのである。

 まして、考古学を基本とした見解で、乱世の続く文献解釈を快刀乱麻のごとく武力平定するというのは、何か初心を忘れているように思うのである。

 思うに、本書著者は、ヤマトに対する強い愛着を持っていて、冷徹な判断が妨げられていると見るものである。
 そのような先入観から遠い当方には、愛着に起因する先入観に立つ議論は、学術上の論者として採用しがたいのである。

以上

私の本棚 「考古学と古代史の間」 1

 筑摩プリマーブックス154  白石太一郎 筑摩書房 2004年

          私の見立て★☆☆☆☆               2017/02/10

 本書を購入して読むことにしたのは、近年顕著となっている古墳時代の開始吊り上げの主たる提唱者が、本書著者白石太一郎氏であるという風説を確認しようとしたものである。

 結論を言うと、まさしくその通りであるが、それは、著者は肯定的な意味での確信犯だと言うことである。

 言うまでもないが、当ブログ筆者の意見は、本書で公開されている論理の進め方に一般人としての異論を唱えているのであって、学術的な当否を主張しているものではないし、まして、本書著者の考古学者としての権威を傷つけようとしているものではない。

*「考古学」と「古代史」の狭間
 大事なことは、本書著者が冒頭で述懐しているように、古代史分野と一般人が捉えている学術分野は、実は、「考古学」と「古代史」の、ずいぶん土台も筋道も異なった二つの学術分野に分かれていると言うことが、素人にもよくわかるように、説かれているのである。

*議論の分かれ道
 そうした前提が説明された後で、本書著者は、文献資料である魏志倭人伝の解釈と考古学の知見をすりあわせた上で、古墳時代の開幕を3世紀前半であると判断し、この判断に従うと、倭人伝に書かれた邪馬台国は、奈良盆地の一角であるヤマトを本拠としていたと断定されるとの論理的な展開を述べている。この論争に良くある「決まり」主張である。

 もちろん、その際に、先に述べた、考古学の見る遺物、遺跡は、他の遺物、遺跡との相互年代、つまり、どちらが古いか新しいかという判断はできるものの、「絶対」年代、つまり、西暦何年であるとか、中国のどの王朝の何年という断定はできない、という考古学に対する定評を克服したと主張しているのである。

 このように明確な結論が端的に導き出されていると言うことは、その形成過程が「結論」に向かう強い指向性を持って進められていたのではないかと思われるのである。

*自然科学的手法の限界
 しかし、援用されていると思われる自然科学的な時代判定は、どのようなデータをどのような方法で検定したか明記されていないので一般論で批判するしかない。

 言うならば、考古学の持ち分である遺物、遺跡の鑑定の範囲ではなく、自然科学という別の観点からの判定であるから、その際の判断の行方は、自然科学分野の視点で支配されていて、考古学の立場からは責任をもって検証できないものと思われるのである。

 つまり、よくよく眺めると、本書著者が慎重に遠ざけていた文献史学による年代検定と同様、考古学にとって「部外者」見解による判断なのである。
 当ブログ筆者の科学観では、そのような外部の意見は、考古学者自身の見解形成に採用すべきではない、と言うものである。

未完

2017年2月 9日 (木)

今日の躓き石 近所迷惑な「頂点の夢」 社会人野球

                         2017/02/09

 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊十三版社会面の「野球のかたち」なる連載記事である。

 内容としては、高校、大学などで野球に集中していた人たちが、一旦、諦めて離れていた「頂点の夢」に今また取り組むという話なのだが、そこに「学生時代のリベンジ」を目的に参加しているというのは、何とも、気の毒な語られ方である。

 それぞれの語り手は、何の悪い意味もなく、ただ、気の効いたはやり言葉と思って、この忌まわしい言葉で語っているのかも知れないが、それならそれで、記事の筆者が、言葉遣いを治して上げれば、たとえその時は不愉快でも、これからの一生「復讐愛好家」と呼ばれないものに変わっていたはずである。

 ここで、近所迷惑というのは、すぐ左に、この忌まわしいカタカナ言葉と同じ言葉が登場しているからである。ストーカー殺人に伴う重罪を呼ぶ言葉と同じ言葉を、ここで無頓着、無造作に使っていることの不具合さに気づいていただければ幸いである。

 当ブログ記事筆者が、「リベンジ」狩りに本気で取り組んだのは、実は、この事件が契機であり、このような勝手な言葉にまつわる犯罪行為を憎んでいるからである。格好を付けて「リベンジ」、「仇討ち」、つまり、天に恥じない、正当な報い、と言いつつ、実は、勝手な暴力なのである。

 ちなみに、当記事は、他にも推敲不足で不用意だと思うのが、その直前の「球歴や野球観は三者三様」と書いているところに現れている。「三者」が誰のことかわからないのは別の話として、「球歴や野球観」は当然ながら千人いれば千人それぞれ異なるものなので、もったいぶって各人各様というのは、字数の割に意図不明である。

 また、「不完全燃焼」というのも、スポーツ関係報道の常套句としても、良く噛みしめれば、かなり不適当な比喩だろう。
 どんな大会でも、原則としてただ一チームしか立てない頂点に自分のチームが立てなかったとしても、自分なりに最善を尽くしていれば、悔いも恨みも残らないはずである。
 不完全燃焼とは、燃え尽きたかったのに、大事な酸素が来なかった。くやしい、けしからん、と誰かよその人のせいだと言うつもりかと思わせる。

 たまたま、朝刊読者投書で、新聞(全国紙)は「言葉遣いの教科書」と持ち上げられているのだから、ここでやり玉に挙げられるようなつまらない書き方でなく、教科書になるような記事を望むものである。

以上

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