倭人伝の散歩道2017 卑弥呼墓制考
2017/02/24
倭人伝の「卑彌呼以死大作冢」記事に関して諸賢による深読みがされているが、当ブログ筆者は、卑彌呼が亡くなり墓を作った、と読む。後世の類書「太平御覧」は「女王死大作塚」としている。北宋期の史家にそう読めたということである。
それはともかくとして、他ならぬ倭人伝に、倭国の葬送は「封土作冢」と明記されていて、墓の造りは土まんじゅうのようなものと見えるから、これは「古墳」と呼ばれる大規模な墳丘墓とは別ものに思える。現代の解釈は、続く「径百餘歩」を根拠に古墳と決め込んでいるが、まずは史料の語彙に語らせるべきではないか。
ここで、古墳と書いているのは、古代史の用語に従っているのであって、造営当時は、古くないどころか、最新形であったが、これは仕方ないところである。
素人は、以下のごとく推論する。東夷伝の一部である倭人伝にそう書かれていると言うことは、明帝景初年間、朝鮮半島と倭国に古墳はなく、よって古墳造営技術はなかったと見られる。
ここで、女王の墓で「以死大作冢」とあるのは没後造営の趣旨である。つまり、具体的な準備はできていなかったのである。それまで王墓は王直轄領域内の動員ですんでいたはずだが、女王が格別の功績を挙げたとは言え、その死に当たって前例のない大規模な古墳造営を決定して、突然大工事を指示されたら、各地支配者は、大規模かつ長期間の労役動員に到底対応できまい。
倭人伝が、そのような事態を特記していないと言うことは、卑弥呼塚は、大動員なしに既存技術で造営できる封土墓であったと推定する。
*古墳は一日にして成らず
ここで視点を変えて考察すると、古墳造営は、当時、超絶の土木技術であり、測量技術、建設技術など関連技術の大幅な革新が不可欠であるため、中国からの技術新規導入が必要であったと推定される。
新規導入と言っても基礎となる算数や幾何に文字が不可欠である。関連して、各種測量機器や製材工具などが必要であり、「知識」を持つ人間が実習で習得する必要がある。手仕事の要素は、徒弟修行の世界でもあるから、速成は不可能である。もっとも、関係技術者が、文書で意思疎通できるようになれば、それまでにない高度な連携が実現するから、文字学習は、それまでになかった、大きな恩恵である。
よって、技術導入には、まずは、技術者群の大挙到来が必要である。遼東公孫氏が、長年に亘り東夷と魏朝の接触を遮っていたから、技術者群が渡来したのは景初遣使以降のことであろう。
また、倭国側で望む古墳の構想が、技術者によって実現可能なものに具体化されるまでに、多大な検討が必要だったのではないか。具体的な構造が決定するまでに、どのような試行が行われたかは想像するしかないが、当然、小規模な構造の古墳から始まり、次第に大型化させたのだろう。これもまた、一年や二年でできることではない。
後年、各地で同様の構想に基づくと思われる古墳が「続々」造成されたようだが、それぞれ長工期であり、複数の技術者集団が並行従事したと見える。何しろ。それぞれの土地で、気候、地形、地質、材木や石材の調達可否など現地で検討すべき事項が多く、それぞれの古墳の具体的な構造が具体的に決定するまでに、相当長期の検討を行ったはずである。
つまり、これほど大規模で革命的な技術革新は、一日でなるものでなく、技術者渡来、文字/語学基礎教育から、造営工事で現場人員を指導監督できるまでの技術移管に数十年を要すると思われる。
第一号古墳が二十年程度でできたとしても、各地で「続々」となるのは、世紀をまたいで更に進んだ四世紀も後半のことと推測する。交通不便、文書通信不備の時代であるから、何事にも、大変な時間がかかったのである。
*生前造営の理由
勿論、古墳は、当然「寿陵」、つまり生前造営であり、従って、堂々と計画し、ゆるゆると造営できるのである。
もちろん、以上は、あくまで、専ら倭人伝記事に基づく素人の考察であって、考古学の議論とすりあわせていない個人的感想であり、また、詳細な論考で支えられたものではない。
以上
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