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2017年2月19日 (日)

毎日新聞 歴史の鍵穴 不確かな謎の不確かな解決

          私の見立て☆☆☆☆☆               2017/02/19

 壬申の乱の大海人皇子 夏至の方位に素早く移動=専門編集委員・佐々木泰造

 今回、毎日新聞大阪2017年2月15日付夕刊掲載の月一記事に対して当方のブログ記事が遅れたのは、諸事多忙のせいもあるが、一つにはあきれたからである。とは言え、当ブログは、「歴史の鍵穴」記事の論理のほころびに批判を加える立場を取っているので、今回も、ブログのポリシーに従い、手抜きせずに一介の素人読者としての批判を加えることにした。

*無批判の史料依存
 念のため言うと、今回記事は、出典を隠していても、「日本書紀」記事のいずれかの解説書によるものと思われるが、ここに引用され図示されている「大海人の皇人(ママ)の進路」は原史料の忠実な解釈としても、示されている行程は、とうてい「常人」の踏破できるものではなく、「フィクション」の可能性が高いように思う。(吉野宮が、現在金峯山寺のある山岳地であったという2016年10月記事の主張は採り入れないとしても)

 この記事だけを手がかりとするにしても、訓練を経た武人だけならともかく、妻や子、そして、女官多数の足の弱い面々を引き連れて、朔日に近い24日の無いに等しい月明かりをたよりに、見たこともない険阻な山道を「夜を徹して」突き進むことなどできなかったはずである。もちろん、これらの弱者を背負ったり、輿で運ぶなどは論外であろう。

 いや、いくら武人でも背負っている装備や食料の重荷を考えれば、全体として到底踏破できない距離と行程と素人は思うのである。戦地に到着したとき、兵士が疲労困憊して半死半生で戦闘不能であったら、それは「強行軍」ではないのである。

 以上は、自分で現地を踏破したわけではないから、地形図やネットで見る紀行文を参考にするのだが、この行程は、結構起伏曲折の激しい山道であり、平坦地の古代道路を淡々と移動したのではないと推定しているのである。難路とみるのが間違いであれば、ご指摘いただきたい。

 そうした「フィクション」が両陣営の戦績について正確という保証は何もない。勝った方が、全部勝ったと言っているだけではないのかと、疑ってかかるべきであろう。かろうじて、最終的な勝敗はその通りだったろうというしかない。

 そのように不確かな戦いで、近江側が、不思議にもことごとく負けたというのが推測なら、それは、近江側が戦意を喪失したためだろうというのは推測の上に推測を重ねていると見える。そうした記事筆者の個人的な思い込みを「謎」と見るのは、誠に勝手だが、困ったものだと読者は嘆くのである。

 普通に考えれば、反乱を予想していなかった近江側は、広範な軍の動員が立ち後れ、反乱軍の勢いに抗しきれなかったと見るものだろう。そのような立ち後れは、古代の軍備、輸送、交通の整備状態を想像すれば、急遽援軍を得て劣勢回復することが不可能であったとしても、何の不思議もない。むしろ、全面的な劣勢を自覚していれば、早々に西国に亡命すべき所である。

*謎の深層
 美濃方面に集結した反乱軍が、どうして、多数の兵を所定の日に集結するよう動員できたかが、本件最大の謎である、とここまで読み進んだ素人の考えで思う。これは、個人の意見であるから、個人の勝手である。

 当時は常備軍制でなかったはずだから、同盟する領主は、領内各地の農民を、自前で武装して、腰弁当で来いと招集するのであり、数か月の事前通達が必要ではないか。もちろん、召集された多数の兵士の戦闘時の食料や武装は、同盟領主が、食料庫や武器庫を開いて供出しなければならないが、これは、参集した兵士の手になれば、数日でできるとしてもである。
 つまり、反乱に数か月先立って、現地に通じた重臣ないしは皇子などを派遣して旗揚げの確約を取り付けていた、その旗揚げの日付が記録されていたために、間に合うように空を飛ぶように急行したと書かざるを得なかったのではないか。

 普通考えれば、遠隔の勢力を反乱に荷担させるには、いわば、人質の意味もかねて、皇子の息子が派遣されていたと見たい。反乱に失敗すれば、一族皆殺しになるような大罪であるから、文書や口先の指示では荷担できないはずである。ということで、大事な人質を確保していれば、大海人の一行が旗揚げに数日遅れても、大きな問題にならなかったはずである。というものの、それでは、討伐されたので、逃亡して挙兵したという「フィクション」の体裁が悪くなるので、そのような事実は記録を避けたはずである。

 色々素人考えを重ねたが、颯爽と疾駆して、と言いつくろっているものの、実際は疲労困憊して遠路はるばる美濃に辿り着いたら、先触れもしていないのに同盟軍が勢揃いして待ち構えていたというのは、「フィクション」に過ぎるのではないだろうか。
 こうして考えても、いろいろ不思議な所伝なのだが、記事筆者は、書かれているとおり丸呑みするだけで、咀嚼も吟味もしないで善良な読者に向かって投げ出すのである。こうした点から見て、当記事は健全な批判精神を失い、依拠史料に無批判に依存するという泥沼に落ちたと見るのである。

*無効な論理
 以下、当記事の論理の展開について、これまでにも書いた問題点を再確認する。次に挙げたのは、2016年9月の記事で引用されていた論文の冒頭記事であり。当然、当記事筆者は承知のはずである。

 水林 彪 古代天皇制における出雲関連諸儀式と出雲神話 第1部 古代の権威と権力の研究
 「8世紀の事を論ずるには,何よりも8世紀の史料によって論じなければならない。10世紀の史料が伝える事実(人々の観念思想という意味での「心理的事実」も含む)を無媒介に8世紀に投影する方法は,学問的に無効なのである。」

 言うまでもないが、水林氏が論断しているのは、10世紀史料を根拠に8世紀を論ずることが無効であるという一つの例だが、要は、論じられている時代の事を、別の時代の史料を根拠として断定してはならないと言うことである。

 まして、今回論じているのは、人々の所感、人の心であるので、同時代人にも知り得ないものであろう。それを、ここで断定的に論じているのだから、これは科学的な議論ではない。
 ここに書かれたような地理認識は、現代人が常識としているものだが、生まれてこの方近郊にしか出向いていない軍兵は、夏至や冬至の日の出の方角に何があるのか知らないので、地理認識によって心理的な「ハンディ」(何とも不穏当な比喩である)を背負っていたと見るのは、無理というものである。
 まして、当時、ここに書かれている神武天皇説話が周知であったかどうかわからないから、論じても無意味なのである。また、大津宮とされている場所から見て、美濃野上が夏至の方角というのも、地図を一見して信じがたいものがある。いや、古代人は、この地図を見ていないから、こうした言い方は無効なのであるが。
 それぞれ、心理的な背景として日本書紀が「フィクション」と書き立てそうなものなのに、どうやら書かれていないようだから、そんな背景はなかったと見るのが適切ではないか。
 結局、今回は、無謀な衛星地図観は目立たないものの、個人的な謎に個人的に体裁をつけた資料解釈で個人的な解決を与えて自己満足しているものであり、全国紙の権威ある記事として一般読者に貢献するものではないと見る。

以上

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