古代史随想 木津川恵比寿神社と椿井大塚山古墳 2/2
2017/02/11
*政権氏族の氏神
さて、このように独立をもくろむ政権が、定住の最初に行うことは、神社の建立である。氏族の氏神をまつり、自身の父母、祖父母をまつり、氏族集団の統御の象徴とするものである。そこで、それらしい神社の形跡を求めて周囲を探すと、木津川市加茂町の恵比寿神社が目についた。
木津川市サイトに公開されている社伝によると、鎌倉時代末期の元弘年間の創建となっていて、公式記録は尊重するが、それ以前に神社がなかったと言っているのではないように思う。
社殿に掲示されている説明板によると、古文書らしい「蛭子明神記録」には、鎌倉時代寛元二年(1244年)の棟札があったとされていて、参考になる。
つまり、公式記録に記された元弘年間の創建は、何もないところに一から建てたものではなく、それ以前に存在していた恵比須神社を改装したということだろう。
そのときに創建したとすれば、どこそこの恵比寿神社から祭神を招いたとあるものなのだが、特に語られていないからそう思うのである。もちろん、そうした推定に対して、確かな証拠があるわけではない。
謝辞 「社殿に掲示されている説明板」は、ahisats3のブログ 掲載写真による。
*ひるこ幻想
ちなみに、「えびす」の発音ながら、ことさら「蛭子明神記録」と書いているのは、伊弉冉(いざなみ)-伊弉諾(いざなぎ)の両神から生まれた「ひるこ」の流れを汲んでいるのかもしれない。
記紀に残された創世神話で、ひるこは、早くに生まれたものの両親の意に沿わなかったため幼くして捨てられたようになっているが、実際は、両親の意に反して自立し、家を出たために、家系から外されたという見方も、独善を承知でしようと思えばできるのである。
と言う風に緩やかに解釈すると、ここに定着した集団は、いずれかの時点で、勝手に母国を離れた反逆児かもしれない。もちろん、そうした推定には、何の証拠もない。
*神社の継承
古代以来、各地に無数といえるほどの神社が建立され、ほとんど廃社になった例を聞かないから、当神社は、古代の椿井政権の氏神の後身ではないかと思うのである。おそらく、この地が、氏神にふさわしい地形、方位であり、他に代えがたかったのだろうと感じるのである。
近年まで、木津川対岸のえびす岩に船で渡る神事が長く維持されていたというから、ますます、地元住民の尊崇の的である神社をなくして、別の場所に氏神を設けることはできなかっただろう。あくまで推定である。
*高床形式の社殿
木津川市のサイトの解説では、当神社の社殿は、鎌倉時代の創建とされていながら、高床式の建物であるという。つまり、創建は、はるか古墳時代であり、その後、木津川の氾濫などで損壊したとしても、原型に従って再興されたと推定してもいいのではないか。
*おことわり
さて、以上のつじつま合わせで、一応もっともらしいお話になったように思うのだが、実は、以上は、すべて、ある一日(「建国記念日」)の午後に、PCでネットを彷徨いながら、古代に生まれ、繁栄し、やがて、衰退して、歴史に名を残さずに埋もれたと思われる一地方政権についての幻想を綴りあげたものである。
決して、木津川市に実在する古墳や神社の古代歴史を勝手に書き換えて迷惑をかけようとしたものではない。あくまで、あくまで、「フィクション」である。
以上
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