私の本棚 尾崎康「正史宋元版の研究」汲古書院 1/7
私の見立て★★★★★ 2017/02/26
尾崎康博士の研究成果は、汲古書院から「正史宋元版の研究」として 1988年(1989年刊行とする資料もあるが)に刊行されている。当ブログ筆者は、購入できていないが、幸いにも、本書を閲覧する機会に恵まれたので、蔵書ではないが、本棚番外として公開するものである。蔵書ではないので、資料引用は、極力差し控えたい。
今般(2017/06/20)購入した。
本論では、尾崎氏(失礼ながら、以下学位は省略したが、氏の業績に対する深い尊敬の念は、当記事全体に維持されていると思う)の著書の一部を紹介するのだが、氏の三国志刊本に関する見識は、厖大な刊本資料の丹念な精査に密着した分析と総合的な考察に裏付けられ、当ブログ筆者が異論を申し立てられるものではない。
ここで述べたいのは、そうした現代日本語で言う「大海」のごとき著述の中から三国志の変遷に関する思索を編みだし、世の人々の思索の材料を提供することである。
1 靖康の惨禍
ここでは、本書の中でも、三国志宋代刊本について論ずるのだが、何と言っても、この時代を語る際には、中国全土を支配していた宋(便宜上、大抵は北宋と呼ぶが、全国統一政権であった)が、北方の金との全面衝突に敗れて、帝都である開封を金の大軍に包囲され、徹底抗戦による全面殺戮(屠城)を防ぐために、当代皇帝欽宗が、父親である上皇徽宗と共に金軍に投降したことに始まる靖康の変と呼ばれる金軍の侵攻を語らざるを得ない。
*永嘉の乱
はるか以前、洛陽を帝都としていた晋(便宜上、大抵は西晋と呼ぶが、全国統一政権であった)が、北方民族の帝都攻略により、当代皇帝が虜となった前例(永嘉の乱311)があるが、その際の侵略者は、特に、中国文物に興味を持たなかったので、金銀、宝玉類は掠奪にあっても、書庫の侵略までは無く、文物の被害はまだましだったようである。
因みに、これは、後漢書編者笵曄や三国志注釈の裴松之の生まれる半世紀以上前の話である。
未完
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