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2017年3月

2017年3月31日 (金)

今日の躓き石 毎日新聞 消えないリベンジの血しぶき

                          2017/03/31
 今回の題材は。、毎日新聞大阪朝刊第13版のスポーツ面、「白球を追って」とあるが、決勝進出チームのエースが、懸命に闘志を掻き立てているのに、担当記者が、無残にも、輝かしいはずの決勝戦を「リベンジを果たす舞台」と汚名を着せている。選手本人の談話ではないから、全面的に記者の責任である。
 ここは、個人の復讐心を満足させるための舞台であってはならない。

 更に言うなら、スポーツ界を地遊心に若者層に広く蔓延し、むしろ主流になっている「リベンジ」の軽い意味も取り損なっている。その意味でも、報道失格である。

 今回は、選手の言葉が問題ではないが、大抵は、選手の言葉が人目にさらされるのである。そんなとき思うのだが、スポーツは、絶えず、別のだれか、あるいはどこかのチームとの競争であり、一度敗れた相手に、一段と闘志を燃やすのは自然の成り行きかも知れないが、それは、個人の内面にとどめるべきであり、忌まわしい言葉は、他のメンバーに恥をかかせるので慎んで欲しい。今回の記事では、選手自身の言葉として書かれているのかどうかわからないが、投球を打たれて負けた経験を、「甘かった」、「弱気になっ」たと心理的な面に原因を追い詰めている。それを反省の糧とするところを、あえて屈辱と感じた、自分を責めるのが成長の糧となっているのだろうが、だからといって、そのチーム、その相手に敵愾心をむき出しにしているのでなければ幸いである。いや、当の選手は、決して、「リベンジ」などと言っていないと思うから、こんな分別くさいお説教は余計なお世話だろう。

 いや、余計な感慨であった。
 今回のように、選手の言葉でないものを記者の言葉で付け足すのは、全国紙のスポーツ担当記者として、署名記事を書くほどの記者の各記事として、長く汚点を残すものになりかねない。このような記事を書いたという事実は、決して消せないのである。

 いい加減に、自分が書き出している言葉がどんな意味なのか、友達同士でかばい合うのでなく、真剣な批判に耳を傾けるべきではないのかと思うのである。

 正直なところ、人は誰でも勘違いするものであるから、先輩や上司が、当人の経歴に傷が残らないように指導すべきではないかと思う。

以上

2017年3月30日 (木)

今日の躓き石 毎日新聞 強いメンタル

                             2017/03/30
 今日の題材は、毎日新聞大阪夕刊スポーツ面、フィギュア世界選手権の話である。

 でかでかと目立つ見出しの頭に、「露加米」とありどうやら、これは米(こめ)の新種ではなく、古い言い方でいう「露・加・米」の事だと何とか見て取れるが、何のことはない、上位選手の国籍を羅列しただけで、元々競技として盛んな諸国であるから、何の不思議もない。全国紙の報道するような意義は伝わってこない。

 つづいて、「強いメンタル」とあるのが、相変わらず暢気なカタカナ語の垂れ流しになっているのは、まことに残念である。
 といって、強いとされている「メンタル」が具体的にどんな意味なのか、読者の目につくように書かれているわけではない。見出しに書いた以上、冒頭でフォローされているべきではないだろうか。

 記者の意見では、そもそも、欧米系の選手は、体が大きく、見栄えと(見栄えをいかした)表現力で、はなから日本選手に勝っているという見方だから、これは、ハラスメントに近いものと思わされる。なんとも、情け容赦なく書いたものである。ということで、これが記事の主題ととれるのである。

 といいつつ、最後の最後に、とってつけたように好演技の裏には、「持てる力」を発揮できた「気持ち」の強さがあったと締めている。

 記事の構成では、記者の見るところ、見てくれの良さが、絶大な先入観としてあって、そこで勝負がついているから、日本選手がしっかり演技しても、評価するきはないと見られる。全国紙である毎日新聞が、そのように評価しているというのは、「気持ち」が弱くなる要素であり、出場選手も、このような記事を読めば大変落胆していたことと思う。

 随分以前だが、米国のスポーツ番組で、伊藤みどり選手のジャンプ演技を評して、彼女は、脚が短く筋肉がついて太いから、その特徴が演技に表現できるように努力していると、むしろ好意的に評していたのを思い出す。価値観は文化的な事項であり、国によって、さらには人によって異なるのだが、記者は、どんな規準を、どんな根拠で読者に押しつけているのだろうか。

 一読者としては、少なくとも、何かが「強い」と評するからには、その強さを客観的に測定する方法があるに違いないと思うのである。また、そうでなくては、「強さ」を鍛える方法がわからないのである。たとえば、強さが20であったものが、何かを鍛えることによって30になったとしたら、おそらく有効な強化方法として続けようというものである。あるいは、競争相手の「強さ」が50で自分が30であったら。何とか50にしようと思うのではないか。何かの強さが評価されるというなら、そのような科学的な考察が伴うはずである。

 何しろ、記者が強調する「体格」は、これも、指標が示されてないのだが、一般論で行くと、筋骨逞しいという体格ならともかく、背の高さや手足の長さが体格だと言われたら、鍛えようがないのである。せめて、「メンタル」の鍛え方を知りたいと思うだろうが、指標もないし、測定法もないし、説明もないし、どうしろというのかと歎くしかないのではないか。

 一読者として、スポーツ報道に、身体的な外観最優先の「男性的」観点は言い立てて欲しくないし、いい加減な業界用語である「メンタル」に逃げ込まないで欲しいものである。一般読者が明解に理解できないカタカナ語は、使わないか、とことん解説して使うか、何れかにしてほしいものである。

以上

2017年3月25日 (土)

今日の躓き石 毎日新聞 見事なリベンジ

                          2017/03/25

 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊第13版スポーツ面の時評・点描と題したコラムで、筆者は、玉木正之氏である。同氏は、フリーのスポーツ評論家であって、毎日新聞記者ではない筈だが、記事を載せた以上、毎日新聞に責任があるのは当然であるが、プロの評論家として原稿を書いたと思われるので、異例であるが、名指しさせていただく。つまり、自分で自分の言葉遣いに責任をとれる人だから、率直に名指しするとも言える。

 それにしても、この人ほどの人が、ワールドカップ予選の戦評として「見事にリベンジ」と口走るのは、もったいない話である。

 多分、日本での敗戦で、テレビ画面で、はっきりゴール内に入ったと確認できたシュートを審判が認めなかったために負けたという恨みが相当激しいのだろうが、目には目を、今度は血祭りに上げてやる、という気持ちがこぼれ出たのだろうか。これでは、相手方も、次は、復讐してやるといきり立ち、サッカーの国際試合が、武力紛争やテロを招ことになりかねない。不穏な言葉遣いは謹んで欲しいものである。

 玉木氏は、常々、このように感情でスポーツ観戦(軍というのは、あくまで比喩である)していると言うことなのだろうが、どうか、個人としての内面の声にとどめて、一般人に悪影響を及ぼさないで欲しいものである。

 といっても、当方は、一購読者なので、氏を出入り禁止にするといった次元のことを言っているのではない。そんなことを言うと、血の復讐を受けるかも知れないから、ただ、もっと大人の言い方にして欲しい、未熟な記者達のお手本になって欲しいと思うのである。

 なにより、こうした素晴らしい出来事に泥を塗らないで欲しいと思うのである。

以上

今日の躓き石 毎日新聞 選抜のリベンジ報道の恥

                          2017/03/25
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊第13版のスポーツ面、選抜高校野球の試合評である。といっても、地の記事でなく、見出しなので、探す必要はない。パッと目に入る。

 さて、念入りに解きほぐすと、この「リベンジ」見出しは、一方のチームが相手のチームに無法な危害を加えられた過去の被害を、天に代わって復讐したという報道である。記事の中身には立ち入らない。見出しは、記事の要点を取り出しているので、それだけで、誤解の余地なく意味のとれるものである、という編集がされていると理解して話を進める。

 言うなら、担当記者は、かのチームが当然の行い、正義の行いとして堂々と血祭りに上げたと理解して、そのように報道したと言うことであるが、これは、明治以降、「仇討ち」なる復讐が正義の行いでなく、犯罪になったのに気づいていないのである。決して、ここに報道するようなものではなく、もし、真に受けるなら、直ちに刑事告発してしかるべきである。
 まして、そのように大義名分があっての犯罪行為であれば、一般読者に理解しにくいカタカナ語で書き立てるのでなく、ちゃんと、大人の言葉で書くものではないか。
 以上のように、この見出しは、(私の理解する)報道の本質に反しているし、正しい言葉遣いを守るという(私の理解する)全国紙の大義に反していると思うのである。

 少し、冷静に還ると、出場チームは、共に、過去、ないしは現在にとんでもない犯罪を行ったと非難され、このように全国紙朝刊で告発されたら、終生消えない汚点を背負うことになるのである。

 当たり前ただが、高校野球に、時には、遠いご先祖様まで取り込むような因果応報の物語は必要ないのではないかと思うのである。現世代には、過去の罪業も栄光も関係なく、自分たちの力で戦ってもらいたいものである。

 記者は、全国紙記事を自在に書くことを許されているという自分の持つ力を認識していないのではないか。

 以上は、全国紙で署名記事を書くことを許された担当記者の罪であり、いくら署名記事であっても、そのようなとんでもない見出しを止められなかった編集、校閲担当の罪である。
 むしろ、その過失の意義は、日頃、各言葉の意味をよく吟味する、職業上の訓練を怠っていて、しかも、それに気づいていないことにある。全国紙に相応しい組織的な機能が存在せず、組織的に守るルールが存在しないと言うことを疑われる。全国紙に対する信頼が大きく揺らぐのである。

 というように、いくら閑散ブログとは言え、真っ向から手厳しい批評を浴びせるのは、このようなとんでもないカタカナ語が、一日も早く絶滅することを望んでいるのであり、そのためには、会社ぐるみで、担当記者が一生かけて更生できるように支援して欲しいのである。

 当方も、新聞面をタイトルに明記するなど、多少見つかりやすくしている。

 いや、別に社告で謝罪しろとか、訂正記事を書けと言っているのではない。当方は、一回の定期購読者であって、何の権威もない。発言の支持者も、特にない。

以上

2017年3月24日 (金)

今日の躓き石 NHK BS-1の迷言 メンタル

                      2017/03/24
 今日の題材は、NHK BS-1のサッカーワールドカップ予選中継(再放送)である。

 勝ち試合の再放送なので気持ちよく、安心して、聞いて、見ていたのだが、後半2点目の入った後のアナウンサーの言葉にがっくり躓いた。

 まず、監督が、「メンタル」どうこうしたと言っているとのことだが、監督は、日本人ではないので、こんな変なカタカナ語を口に出すはずがない。(英語も喋らないはずである)
 多分、これまでもね幾度となく報道された監督迷言と同様、通訳の誤訳なのであろう。通訳の使命として、こんな罰当たりな、崩した日本語でなく、一般人に監督の意図が伝わる、ちゃんとした日本語を喋るべきだと思うのである。(首にしろという権利はないのでそう言う)

 問題は、天下一の言葉遣いであるべきNHKアナウンサーが、そのような迷台詞に合わせて、いや、輪をかけて、「メンタルを持って」プレーするといって、それを、コメンテーターがたしなめもしなかったことであり、これには、大変がっかりした。
 これでは、WBC中継で、侍メンバーとカリブ海出身の選手が、(学年開始月が半年近くずれているのにお構いなしに)「同級生」だと平気でわめき散らす民放/CSアナウンサーと同列と言うことになってしまう。いや、余談である。

 それにしても、メンタルがどんな「もの」かわからないと、サッカーという球技は、手に何かをもってプレすることは禁じ手だし、画面を良く見ても、何かを持っている風には見えなかったから、不思議、不思議、ということになるのである。
 是非、関係者の内輪話として、自分たちだけで楽しむのではなく、視聴者にもわかるように、どんな形のものをどうやって持っているのか、意地悪せずにご教授いただきたいものである。

 いや、上に書いたのは、半分冗談であるが、そんな風に茶化したくなるほど、「メンタル」という名詞は、説明無しに蔓延しているのである。せめてNHKだけは、業界にはびこる、幼児語にも似たカタカナ言葉を卒業して、つまり、乳離れして、ちゃんとした、誰でもわかる、大人の言葉で、そして、子供達に教えたい言葉で語ってほしいものである。 公共放送の崇高な使命は、そこにあるのではないか。

以上

ブログ記事移動の件

                           2017年3月24日
 古代史関係の記事と「今日の躓き石」の記事が多いので、それ以外の記事を別ブログ、つまり、ここに移動します。

以上

2017年3月22日 (水)

毎日新聞 歴史の鍵穴 不思議な世代交代 (最終回)

           私の見立て☆☆☆☆        2017/03/22

 今回、毎日新聞大阪2017年3月22日付夕刊掲載の月一連載については、従来、素人考えで批判させていただいていたが、今回が最終回とのことである。

小山田古墳の被葬者 候補は舒明と蝦夷だけか=専門編集委員・佐々木泰造

 せっかくなので、今回は、少し高度な批判を述べさせていただく。

 記事を一見して、ぱっと目に付くのは、図示された系図の不釣り合いなことである。
 当然、書紀などの文献を参照して書かれたのだろうが、図の左に書かれた蘇我氏の系列と右に書かれた天皇家の系列が、(本当に)一見して、不釣り合いなのである。

 よく中身を見て、具体的に言うと、図全体の最上部に蘇我稲目が置かれているが、蘇我氏が、蝦夷、入鹿と直系相続されている間に、天皇家は、兄弟相続もあって、しきりに代替わりしている。

 当ブログ筆者は、国内史料に関して無学なので、ここで書かれている図式に従うと、当記事で被葬者に擬されている二人のうち、蘇我蝦夷は蘇我稲目の孫、つまり二世の子孫であるのに対して、舒明天皇は、曾孫を過ぎて五世(あるいは四世か)の子孫なのである。

 つまり、蘇我家が二代進むのにそれぞれ三十年で計六十年かかったして、その間に天皇家が、四,五代進んだとなると、一代あたりせいぜい十五年になる。同時代の同程度の地位の家系で、そんなに世代交代の期間が食い違うものだろうか。

 図では、最下段の建王と言う一人の人物で、両系列がつながっているだけに、蘇我氏二世代の間に天皇家は五世代という格差が的確に「可視化」されていて、どうにも目立ってしまう。舒明天皇の書かれている位置は、蘇我蝦夷どころか蘇我入鹿よりもはっきり下方になっていて、しかも、埋葬はほぼ同時期になっている。

 ところが、当記事筆者は、その点について何も触れないで、六百四十年代の遺物と六百五十年代の遺物が明確に区別できるなどと、根拠不明の健筆を振るっている。何か、素人にはわからない定説があるのだろうか。

 素人考えでは、記事の限られた場所にこれだけの大きさで書いた以上は、今回の記事の主張の根拠を示す重大な論拠としての意図があったと思うのだが、読む限り、何も伝わってこない。

 いろいろ丁寧に繰り出される説明は、関連資料を読み込んでいる感じがうかがえるのだが、当の記事にこのような不思議な図が説明なしに使われていると、不思議な感慨を持って、最終回記事を批判せざるを得ないのである。

以上

動画撮影記 阪堺電車 鳩寿(90年)への歩み

                       2017/03/22
 しばらくぶりの動画撮影記です。
 タイトルの「はんかい電車」は、沿線の子供達の言葉なので、非公式の愛称として書いています。

 

 今回の題材は、見ていただいたとおり、阪堺電気軌道 モ166電車です。この電車は、昭和三年(1928年)以来の最古参電車です。このように、後輩電車に交じって、現役走行している車両としては、国内最先輩と言うことになるようです。

 

 目下、89年目の春に向かって走っていて、来年は、90年目の節目の年です。
                         撮影 2017/03/19 17時(午後5時)40分頃

 

0319abenotram

 GIFアニメーションによる 5駒動画です。
 もともと、デジカメによる4K動画で撮影していますので、興味のある方は、YouTube動画をご覧ください。

 阪堺電車 モ166型 鳩寿(きゅうじゅ)への歩み  2017/03/19 4K
 スマホ、タブレットなどでは、こちらの方が見やすいと思います。
 阪堺電車 モ166型 鳩寿(きゅうじゅ)への歩み  2017/03/19 モバイル

 90年目の節目と言うことで、「卒寿」(卆寿)と言う言い方が出てきそうですが、この呼び方はちゃんとした由緒のあるものではなく、また「卒」の字は、現世を去ってしまう意味で、余り縁起が良くないのです。

 漢字文字学の権威であった白川静氏は、「九」にちなんで「鳩寿」(きゅうじゅ)として祝うのが良いと提言されていたのですが、一般的になっていないようです。

 この際、阪堺電気鉄道(株)が、来年、モ166電車の90周年のお祝いとして、鳩で飾り立てたら、このめでたい新習慣を広げられるものと思うものです。

以上

2017年3月21日 (火)

今日の躓き石 WBC先発投手の大失言に当惑

                              2017/03/21
 今日の題材は、毎日新聞大阪夕刊第3版のWBC準決勝先発(予定)投手の談話である。

 いや、ちゃんと自身の使命に真摯に取り組む姿勢にちがいはないのだが、当人にしては控えめなつもりの発言が、とんでもない殺伐とした、そして傲慢な発言になっている。

 「リベンジのチャンス」というが、復讐の相手を間違えている。やられたのをやり返すなら、やられた相手を叩きのめすべきである。まして、天に代わって罰を与えると言うつもりとしたら、とんでもない思い上がりである。これでは、エースの威信も何もあったものではない。

 要は、言葉の意味がわからないままに口走ったのを、天下の毎日新聞が、発言の意味のわからないままに書き出すものだから、とんでもない報道になっているのである。署名記事を書くほどに信頼されている新聞記者は、子供達を含め、多くの人々が模範とする、言葉の規範ではないのだろうか。 言葉のプロは、何とか、当人の恥を誌面に出さず、当人には、深刻な言葉の誤用をたしなめるように計らうものではないか。

 何とか、せめて、毎日新聞の紙面から、このとんでもない言い回しが消えることを切望するものである。でないと、テロリスト賛美ともとれる言葉が、毎日新聞が支持した言い方として出回ってしまうのである。

以上

2017年3月16日 (木)

今日の躓き石 将棋に「メンタル」とは残念

                                2017/03/16

 今回の題材は、毎日新聞大阪第13版朝刊の新王将紹介記事である。

 今回は、タイトル戦勝者であると同時に、タイトル失陷を経た復活であるから、何か、気の利いたことを言わないと記者の沽券に関わるとでも思ったのだろうが、前回タイトル獲得時の訳のわからない経緯を書いている。
 そして、訳のわからないカタカナ語が出て来る。スポーツ界にはびこる、意味不明の悪霊のような「メンタル」である。こうして、苦言を書かざるを得なくなってしまった。

 スポーツに「心技体」の要素があるのはわかる。ただ、最近のスポーツメディアは、意味不明(統一されていないまま)の「メンタル」を、説明無しに書き散らして、心ある読者を歎かせている。
 「メンタル」とは、心の弱さか、驕りか、闘志不足か、闘志過剰か、内なるパニックなのか、症状も解決策もないまま、ただ、「メンタル」のイリュージョンをまき散らしている悪弊がある。
 記事では、「メンタルを強くする」と書いているが、実態のないもの、計測できないものをどうやって強くするのか疑問である。混沌は、混沌のままである。

 そうした、巨大な闇の渦は隣のこととして、将棋で、「メンタル」とは、何を言うのだろうか。心の病(メンタルヘルスケア)を言うのだろうか。しかし、将棋で、一番大事なのは、本人も現在の境地と語っているように、「研鑽」つまり「技」(テクニカル)ではないのだろうか。

 今回の記事でも、ある言葉を知ったことを契機にタイトルを獲得した過去の経験が語られているが、程なく二冠を失って失意の時を過ごしたようである。「心」の「ある境地」だけで勝てるわけではないと言うことだろうか。ここで、貴重な字数を費やして書き立てる趣旨がよくわからない。

 将棋は、「技」の世界だから、振飛車の孤塁にこだわり続けたために、将棋界の大勢を占める新技術、新戦術の奔流に一人刃向かうことになったのが、ここまでのテクニカルな「敗因」ではないだろうか。素人は、無責任にそう思うだけである。今回は、「孤塁は強い」と証明したように思う。

 つらつら思うに、今回の記事が不出来なのは、担当記者の見識が整っていなかった気がする。今回の記事は、そもそも、挑戦決定の段階から予定稿として想を練っていたはずなのに、畑違いのカタカナ語の転用や過去の経緯の蒸し返しとかを利用しないと、新王将を顕彰する記事が書けないとは、どういうことなのだろうか。
 記者ほどの人は、もっと内容のある記事が書けるのではないか。

 以上、記者当人には不愉快であろうが、あえて率直に指摘したのが、別に、大きな悪徳ではないのだから、更なる高みを求めた記者の研鑽を祈る意味である。言うまでもなく、当方は、単なる定期購読者であり、別に権限も何もないから、一介の素人の苦言を気にしなくても良いのである。

以上

2017年3月 6日 (月)

今日の躓き石 マラソンで「リベンジ」の怪

                           2017/03/06
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊第13版スポーツ面の琵琶湖毎日マラソンの戦評記事である。

 中段見出しに「日本勢最高 リオの雪辱成らず」と大文字が出ているが、趣旨不明である。

 「最高」というが、まさか、この成績で日本勢を絶賛できないと思うのだが、ぱっと見、その意味が浮かんでくる。

 また、「雪辱」と言うが、マラソンレースは個人競技であり、競争に勝てずに下位に競り落とされたのならともかく、リオの不成績は、単に各選手の力不足に過ぎない、と思うのである。「雪辱」は、大抵の場合、対戦相手を恨み、見返そうとするものであり、マラソンに相応しい表現ではないように思うの。まして、今回の上位三人は、別にリオのメダリストでもなければ、世界の最上級走者たちでもない、普通の走者達ではないか。とにかく、借りを返す相手を間違えたのではないかと思う。

 それが、プロジェクトリーダーによると、「リオのリベンジ」をしていないとの苦言で、ますます意味不明である。そんな低次元の目標を説かれては、選手の意欲も低下しようと言うものだ。

 当ブログでは、負けた対戦相手に、血みどろの復讐するととられかねない「リベンジ」に対して、きつく苦言を呈してきたが、ここでは、選手全般を覆う不信の渦に苛立たっているのか、そうした大層な言葉を、場違いな状況にぶつける不具合に、何とも、困ったものだと歎くのである。
 素人は、成績不振の原因は、大概がテクニカルな問題と思うのである。言ってしまえば、当を得た指導ができていないように見えるのであるが、これは、余談であり素人の余計な差し出口と思っていただいて結構である。

 毎度のことだが、天下の毎日新聞が、関係者の口走る訳のわからない、不適切な言葉を読者にそのまま投げかけるのに、大いに不満なのである。
 できれば、不心得な言葉遣いは、率直に指摘して、かっての大選手が勘違いのまま生きていくことがないようにしてほしいものであるし、せめて、まるごと引用しないで欲しいのである。

以上

2017年3月 1日 (水)

私の本棚 古墳の古代史 東アジアのなかの日本 4/4

       森下 章司    ちくま新書 1207

          私の見立て☆☆☆☆        2017/03/01

*畿内はどのように中心となったか
 古代史本で「畿内」は、使うべきでないと思うのだが、本書の「畿内」は、一段と明確でない。元々、畿内は、平城京のように、全国政権中心(王幾)が確立された際に、その直轄地という意味で形成されるものである。つまり、「畿内」云々は結果論であり、ことの順序が逆なのである。

 また、畿内とは政権中心から容易に、つまり、徒歩で数日内程度で到達できる交通の便が前提であるが、そのような容易到達範囲は、時代をさかのぼるにつれ、政権中心の移動につれて移動し、おそらく縮小するから、畿内相当の概念は、時代で変わるものである。

 合わせて考えて、古代史論にはこのような意味の確定しない言葉は、書くべきではないと思う。

 畿内論として、河内湾に到達した交易物が、さらに東へ輸送されることをあげているが、それは河内平野「政権」の権利である。

 河内平野から淀川を遡行して、ついには琵琶湖にも届く水系は、著者の語調を借りると古代の「ブロードバンド」であり、これに対して、河内平野からヤマトにいたる経路は、当時、大和川は早瀬で荷船での遡上に適さず、いわば「ナローバンド」であり、圧倒的に淀川ルート優勢と見られるのである。

 してみると、河内平野からヤマトへの輸送は、ブロードバンドの有力な支流である木津川を遡上した南山城からヤマトへの輸送が、むしろ活発であったと思うのである。

 畿内観にしろ、大和川水運観にしろ、著者の学識からすると、ちょっと、安易な図式化ではないかと思う。このごろとても気になるのである。

 豊富な素材を援用した、折角の好著が、不用意な言葉遣いと時代錯誤の概念の押しつけで台無しである。苦言を呈する次第である。

以上

私の本棚 古墳の古代史 東アジアのなかの日本 3/4

       森下 章司    ちくま新書 1207

          私の見立て☆☆☆☆        2017/03/01

*第二章ものとひとの往来
 銅鏡、特に「神獣鏡」の出所について、中国工人の渡来、地場生産を説く意見に対して、著者は、それなら、ほかにも多大な影響があったはずだが、何の提言もないと不満げである。それはそうだが、学説として唱えるには、具体的な論拠が不可欠である。

 これに対して、当方は、素人の発想を言い立てる立場であるから、論拠なしに提言できる。

 同時代の技術革新として、「前方後円墳」のような巨大墳墓の構築技術が上げられる。これには、核心として土木建設に関する専門知識が必要であり、設計構想、線引き縄張りには、幾何学や測量技術が必要である。

 以下の墳墓造営において必要な工学技術は、無限とも思えるほど膨大であり、そのような大規模で革新的な技術の移管には、少なからぬ技術者の渡来が必要である。製鏡技術者以外に多くの技術者が渡来したと見るべきではないか。

 画期的な事項を例示すると、呉の滅亡時点がある。すでに、呉船は、夷州、儋州での徴兵と称して、屋久島、種子島に来航していたと思われるから、呉の頽勢を見た工人たちが、伝え聞く楽天地に亡命したかも知れない。

 優れた工人は、所属王朝にとって無二の資産であるが、亡国に近い事態になれば、優れた技術者が、いち早く脱出するのが定則である。

 いや、以上の仮説に対して、何も論拠となる証拠はない。単なる思いつきである。

 

 古墳時代開始時期のずり上げは、このごろとても気になるのである。

未完

私の本棚 古墳の古代史 東アジアのなかの日本 2/4

       森下 章司    ちくま新書 1207

          私の見立て☆☆☆☆        2017/03/01

 東アジア諸地域の「ちがい」が拡大したと言うが、唯一文化と言える漢(中国)文化(「漢文」化の意味か)が大量に流入したというのに、諸地域間の「ちがい」が、なぜ広がるのか理解しがたい。

 中国文化にならうと言うことは、中国の文字を使い、中国の元号を使い、中国の暦を使い、中国の書経を学び、中国の髪型に倣い、中国の衣服に従う、つまり、中華文明にならうのではないのか。元々、各地独特のものがあったのが、中国に倣い、画一化を迫られ、なぜちがいが拡大したのか?

 最後に、「古代アジアのグローバリゼーションとローカリゼーション」と言うが、なぜアジア全域の話になるのか不明である。中東のパルティアなどは初耳である。また、当時、こんなカタカナ語はなかったから、迫りようがないのではないか。

 つまり、古代を語るのに、当時知られていなかったカタカナ語を使っても、理解の助けにならないのである。独善に陥らず適切な言葉に言い換えて、読者の混乱を避けてほしいものである。

 もちろん、カタカナ語ほどでないにしても、現代的用語や比喩は、古代史の理解の妨げになるだけである。極力減らしていただけたら幸いである。

 筆者お気に入りの比喩なのだろうが、波動や渦巻の比喩も、何かの意図を伝えているとは言いがたい。鳴門の渦潮を見ても、文化波及になぞらえられるものとは思えない。説得力は無いのである。

 以上、表紙裏の乱調に躓いて手間取ってしまったが、著者自身の作文とは限らないようだ。特に、本文では、「グローバリゼーション」のような乱調語は言い換えられている。著者には、カバー裏まで責任を持つようにお願いしたいものである。

 書店店頭で立ち読みしたら、こんな粗忽な論考は読みたくないとして、ここだけで却下していたところである。

 買ってしまったから、渋々目を通したが、読者に否定的な第一印象を与えるのは気の毒である。

未完

私の本棚 古墳の古代史 東アジアのなかの日本 1/4

       森下 章司    ちくま新書 1207

          私の見立て☆☆☆☆        2017/03/01

 その道の研究に長年従事している諸兄の著作には、尊敬を払っているのだが、折角の著書に、たとえば、用語選択の粗忽さのような不具合が目立ち率直に指摘せざるを得ないのである。
 特に顕著なのは、カタカナ語の不用意な使い方である。古代史に関する著作は、カタカナ語なしで論述できるはずが、数ページに一度で登場するカタカナ語に、その都度疑問を感じるのである。
 本新書の場合、大事な自己紹介が、いきなり大脱線している。この際、丁寧にほじくることにさせていただく。

*カバー裏の謳い文句
 『紀元前一〜四世紀の中国・朝鮮・日本。この時代の東アジアでは、中国の影響を受け、朝鮮・倭など周辺地域において、大小の「渦巻」が発生するごとく社会が階層化し、やがて「王」と呼ばれる支配者が登場する。その状況を最も雄弁に語る考古資料が「墳墓」だ。領域の明確な境界も形成されていなかった時代、ひととものが往来し、漢文化が大量に流入する一方で、東アジア諸地域の「ちがい」はむしろ拡大の方向へと向かった。明白に存在するそのちがいとは?それは何から生まれたのか?最新考古学の成果に基づき、古代アジアのグローバリゼーションとローカリゼーションに迫る。

 「紀元前一〜四世紀の中国・朝鮮・日本」の切り出しを「この時代の東アジア」で受けているようだが、この東アジアに中国は含まれていないようだから、文章の流れに蹉跌が生じていて感じが悪い。
 「周辺地域」というが、不意打ちなので意味が通じない。「渦巻」が、説明のない比喩で、一段と意味が通じない。著者が自己流に言い回しを工夫しても、「紀元前一〜四世紀の中国・朝鮮・日本」の不安定な語感と合わせて、言葉の意味が読者に伝わらなければ、単なる寝言である。

未完 

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