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2017年3月 1日 (水)

私の本棚 古墳の古代史 東アジアのなかの日本 4/4

       森下 章司    ちくま新書 1207

          私の見立て☆☆☆☆        2017/03/01

*畿内はどのように中心となったか
 古代史本で「畿内」は、使うべきでないと思うのだが、本書の「畿内」は、一段と明確でない。元々、畿内は、平城京のように、全国政権中心(王幾)が確立された際に、その直轄地という意味で形成されるものである。つまり、「畿内」云々は結果論であり、ことの順序が逆なのである。

 また、畿内とは政権中心から容易に、つまり、徒歩で数日内程度で到達できる交通の便が前提であるが、そのような容易到達範囲は、時代をさかのぼるにつれ、政権中心の移動につれて移動し、おそらく縮小するから、畿内相当の概念は、時代で変わるものである。

 合わせて考えて、古代史論にはこのような意味の確定しない言葉は、書くべきではないと思う。

 畿内論として、河内湾に到達した交易物が、さらに東へ輸送されることをあげているが、それは河内平野「政権」の権利である。

 河内平野から淀川を遡行して、ついには琵琶湖にも届く水系は、著者の語調を借りると古代の「ブロードバンド」であり、これに対して、河内平野からヤマトにいたる経路は、当時、大和川は早瀬で荷船での遡上に適さず、いわば「ナローバンド」であり、圧倒的に淀川ルート優勢と見られるのである。

 してみると、河内平野からヤマトへの輸送は、ブロードバンドの有力な支流である木津川を遡上した南山城からヤマトへの輸送が、むしろ活発であったと思うのである。

 畿内観にしろ、大和川水運観にしろ、著者の学識からすると、ちょっと、安易な図式化ではないかと思う。このごろとても気になるのである。

 豊富な素材を援用した、折角の好著が、不用意な言葉遣いと時代錯誤の概念の押しつけで台無しである。苦言を呈する次第である。

以上

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