今日の躓き石 論理では語れない魅力の怪 引退談話
2017/04/20
引退 浅田真央さん=芳賀竜也(東京社会部、前東京運動部)
今回の題材は、毎日新聞大阪第13版オピニオン面の「記者の目」のフィギュアスケーター引退に関する囲み記事である。例によって、毎日新聞の報道の姿勢と言うか書き方について、低次元の事項を主体にコツコツと指摘して批判しているので、気が向く方だけ読んでほしいものである。それにしても、サイトで見ると、何という自己宣伝記事なのかと食いつきからすべっている。
当記事は、本当は、フィギュアスケート選手の引退の弁にかこつけて、現東京社会部(前東京運動部)有力記者の運動部「引退」の弁らしい。中々工夫を凝らした異様な運びで語られているので、見出しの提示の仕方を含め、「悪意」を感じさせる「手口」を冷静に指摘させていただく。
紙上の大見出しは、唐突に”論理では語れない魅力”とあるが、「魅力」とは、観客の心の中で響くものであり、もともと論理的でないのは自明である。また、論理で「語りきれない」と言うならともかく、「語れない」と否定的に断言するのは、記者の神のごとき論理(意味に限定のない言葉)では、選手に魅力は検出されず、支持者が感じていた魅力は、全く反論理、非論理、不合理であったと言いたいように見える。
新聞記事構成の常道で、見出しは見出しで、大変重要であり、このコラムの論調を不吉に示していると受け止めるのである。
その後、記者は、独自の世論調査のデータ(ツイッターのアンケート機能で693回答)をもとに、オリンピックでの活躍では、銀メダル獲得より逆境からの挽回に魅力を感じる人が多いことを取り上げ、およそ、「結果」を問われるスポーツの「論理」では語れない(割り切れない)選手だと感じたと導入部を締めている。
なぜか、ここでは、字書に載っている普遍の言葉である”論理”ではなく、曰く付きの”スポーツの「論理」”と書いている。なぜ、言葉を色分けするのか、なぜ、見出しが ”「論理」”としていないのか不可解である。
次の段の小見出しで、わざわざ「普通の人から圧倒的な支持」とあるのも、支持者への微妙な、しかしててひどい批判を含んでいるように見える。ただし、ちょっと読み進めると、記者は、運動部記者として、神のごとき客観報道を保ってきたのに、読者から届いた批判的な意見を冷静に受け止めることはできなかったようである。
記事に対する意見を、わざわざ新聞社に書き送るのは、批判的なものが多いのは理の当然である。これに対して、言葉のあちこちに記者の湿った感情が込められているのは、何とも、うじうじしていて見苦しいのである。
寄せられた「意見」は、当然呼び捨てであるが「意見は時折、」と不思議な読点を入れた後、ベタで読むべき「お褒めの言葉」と、もっと、もっともっとと媚びを売るように敬称付きで続けていて、読者は、文章の乱れに躓いて読み返す、中々狡猾な仕掛けになっている。
一方、棘のある「批判」はベタである。記者は、「お褒め」が少ないとは言わず、「批判」の数が多いのを責めるのである。
メールの件数は知らないが、『載るたびに「悪意に満ちている」とのメール』、「なぜ日本の宝をたたえないのか」と型取りされて引用されると言うことは、まさかコピペではないだろうが、少なくとも、それぞれ二件以上の同文の事例があったと言うことだろう。
問題は、記者自身が、批判を反省材料にできるかどうかである。ところが、「批判」と言いきって、「お叱り」とは言わず、また、具体的な事例を挙げた後、自身の神のごとき論理に対する考察を感じずに、非論理的な指摘の語調の厳しさに身震いしたとしか書かないのである。
まず、ネタにされている「写真」(非開示)に、撮影者が求めたのは、選手の魅力を捉えた「もっとも美しい」瞬間であったはずだが、現実には幻滅するようなカットしか取れなかった、謙虚に最高の瞬間を捉えられなかった失敗と受け止めるべきものではないか。
実際に、こう見えていたのだから仕方ないじゃないか、と誌面に投げ出した姿勢を批判されているのであり、対象の姿を適確に捉えきれなかった不手際への反省は示されていない。
冷静に言うなら、掲載写真は、「現実」の一瞬、それも、ある特定の角度、距離からの限られた視線が捉えた一つの姿であり、適確に撮れなかった無数の画像がどのようなものであったか知り得ない以上、たまたま撮れた画像を紙面掲載すべきかどうかは、報道の本分に関する極めて高度な判断に属するものなのである。
それが、撮影者の自己満足の具になったというのは、もったいないものである。撮影者の神のごとき論理は、冷静な批判の目で試されるべきなのである。
と言うものの、この記事は、当の記者自身の意見や判断を示していないので、ここに掲載する意味が不明である。自分の意図で無いと言いたいのであろうか。
総じて言うと、批判的な意見は、記事の論理に反発しているのであるから、いわば記者の本意が理解されなかったとするなら、それはコミュニケーション技術の未熟さなのである。
しかし、当の記者は、人の批判をまともに受け止めて咀嚼するのではなく、「クレーム」として、むしろ理不尽な言葉の暴力として、むしろ受信拒否して排斥したいもののようである。「クレーム」の対象となった「短所」指摘の記事が例示されていないので、批判が妥当なのか不当なのか、判断のしようがない。『「読者の声」のあまりの強さに身震いすらした』とあるから、記者が、身辺に不安を感じ、また、感情的にひどく傷ついたことしかわからない。
原因として、科学的データを無神経に利用して読者の憤激を買ったのではないかと想像するが、別に根拠があるわけでは無い。記者が、当記事読者に対して補足説明さえ加えないので、そう勝手に思うのである。
次に、トリノ五輪不出場「事件」が取り上げられているが、このような成り行きが、犯罪行為の摘発に適用される「事件」と形容されているのは、中々、悪質な手口のように思える。
当時、感情的になりがちな世論は、マスコミの感情的な煽りで盛り上がっただろうが、連盟は、(選手の豊かなキャリアを期した、いわば選手思いの)ルールを適用しただけであり、別に世論に「相反」などと大層な態度を示したしたわけではない。
更に、支持者の感情的な動きを「視線」などと意味不明な形容で示すことにより、「目つきが悪い」、「視線が泳いでいる」などに類する言い回しとして、何か異常な流れが醸し出されたと書く手口と見える。一般読者に意図を伝えたければ、肯定的な言葉である「まなざし」と書くところだろう。
そうした記事を通読しても、神のごとき運動部記者の冷徹な「視線」と支持者の無理解で非論理的な「声」との軋轢が語られていて、そこには、プライドを傷つけられた記者の神のごとき論理が、「贔屓の引き倒し」的支援者を断罪しているように見える。
このように、何とも、自画自賛、自己正当化記事に読めるのであるが、思うに、この記事に示されたのは、記者の個人的な感情の「問題」であり、そのような私的な感情を吐露することにより解決、解消する記事を、このように賑々しく飾り立てる手管に、言葉、文章の専門家である記者の絶妙な気配りが感じられてしまうのである。
ぱっと見に悪意を感じさせるのである。
蛇足であるが、最終段の「人生凝縮されたソチ五輪の演技」とあるのも、悪意を感じさせるのである。メダルに届かないながら、強い意志で挽回したのが、選手のスケーターとしてのキャリアの概要(ハイライト)を示しているとしたら、世界選手権優勝など捨て去られるディテールに過ぎず、所詮、頂点に立つには力不足だったと言い切っているものである。
このように、選手の長年にわたる功績に対して、花束を贈ることなく、的外れと見える「人生凝縮」などと意味不明のたわごとしか報道できないのなら、運動部記者引退も至当と言うべきであろう。読者は、仰々しい神のごとき論理や、自己弁護の記事など求めていないのである。
いや、記事の終わり近くになって初めて、「記者の目」、「記者の声」が現れて、支持者の姿が、人の手になる普通の言葉遣いで、程良く温かく描かれているが、あまりに遅く、あまりに少ない。中心部で延々と自己弁護を聞かされ、記事全体に対する評価が下された後では、手遅れである。
以上
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