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2017年5月 5日 (金)

私の本棚 出野正 張莉 「倭人とは何か」 1/6

        明石書店    2016年12月刊
        私の見立て★★★★☆       2017/05/04 2019/01/29 2019/11/23

 何故か、肝心の表題を誤記していた粗忽の失礼を深くお詫びして訂正する。

*総評
 本書を通読したが、全体に賛同する点が、大変多いことを書いておく。
 もっとも、本書第1章の倭人の「ルーツ」を探る西双版納傣族自治州訪問を経た文化人類学的な考察に、現地を知らない素人が異論を挟めるものではないし、同様に、第2章も、素人の批判の及ばないものである。
 それ以外の章も、大勢は、文献読破と精緻な考察に基づく意見であり、不勉強なものは尊重しなければならない。
 しかし、部分的には首を傾げる点があり、何点か異議があるので以下、延々と述べる。

*水行考
 まずは、水行に関する持論を披瀝する。と言っても、中島信文氏の著作 『甦る三国志「魏志倭人伝」』2012年10月 彩流社での指摘に触発されたものである。ご一考いただきたいものである。

 「水行」について、多くの論者は、沿岸航行、つまり、海洋航行とみているようである。なかには、「海路」などと時代錯誤の用語を多用して、古代史の謎を「解明」した手合いもある。
 しかし、冷静な文献検討では、少なくとも、秦漢以前から三国時代までの史料に、ほとんど、そのような用例が見られない
ことに触れるべきではないかと愚考する。

 こうした議論は、一つには、「水行」は、中国語で「水」が意味する「河川」の「航行」を示すという本旨が無視されているように見える。

 また、「陸行」と対比して「水行」と言うからには、安定した所要日数が得られている必要があり、巷間言い立てられているような長行程の朝鮮半島沿岸航行は、難船、座礁の危険に加えて、風と潮の不確実さも相俟って、所要日数が不確実であり、帯方郡の公的な規定日数として採用出来ないものと見る。

 ここに書く「規定日数」は、帯方郡に対する文書連絡期限や貢納物の納期設定、非常時には、郡兵の到着期限設定に利用されるから、滞納、遅参、討伐の判断基準となる重大なものである。

 今後の提起でも、たいてい、明確な物証はないが、ものの道理として、そうあるものではないかと愚考を提起するのである。

未完

 追記 2019/01/29
 当時は、そのように割り切っていたが、倭人伝を冷静に見ると、冒頭に「循海岸水行」と書いていて、まさか、水渚(みぎわ)を歩いて行くこととは思えないので、官道行程で、海岸の沖をを渡し船で行くことを水行、つまり、行程の一部と呼んでいるのである。
 後ほど里制の解釈で述べるように、倭人伝が、中原の語義と異なる言い回しを採っていることを、明瞭にするために宣言しているものと思われる。
 そうでなければ、一万二千里の行程の、冒頭の僅かな部分行程を、殊更取り上げる必要もないのである。その証拠でもないが、この部分の道里は書かれていない。無視すべき端(はした)ということである。
 と言うことで、倭人伝は、特に宣言した上で、水行は、海行の意味で使っていて、河川航行ではないのである。
 以上、謹んで追記訂正する。
 ついでながら、魏使行程で河川航行があったとすれば、「水行」では言葉が足りず遡行などと言ったはずである。
 何しろ、国内河川は、曳き船でもしなければ、中流まで遡行できないのが通入れなのである。まして、当時、帆船はなかったのである。

再追記 2019/11/23
 以上は、限られた(つまり、不足していた)知識の範囲内で考えたものであるが、その後史書を渉猟した成果として、以下を付言する。

 史記大宛伝、漢書西域伝及び魏志第三十巻に付注された魚豢西戎伝の用語から見て、次の様に考えを立て直したのである。
 湾曲した海岸線に沿って船で航行する場合は、撓めるという用語が見られる。天然の海岸線が真っ直ぐでないことは自明であるから、直道を行くときと表現を変えるのである。

 「循海岸」 とは、海岸に沿って進むのではなく、別の方向、つまり、海岸線と直交する方向を指すものである。海中を行くのであれば、海岸線を盾に見立てて、これに直角に海を進むことを言うのである。史官は、用語、表現を固定するのが務めであるから、ことさら、「循」と言うのは、正統な理由があると見るべきである。

 以上の指摘は余り見かけないので、ここに披瀝する。

 因みに、当方も当初なびいていた「劈頭水行」説であるが、実は、以上のように普通に読めば、そのような道里は、もともと書かれていないのである。
 帯方郡を発した官道は、当然、自明の陸行、陸道であり、衆知の如く通行至難な漢江河口部扇状地を迂回して、おそらく東に進んで、北漢江に向かい、東南に下って南北漢江合流部に達したところから、南漢江中游(中流部)を漢江沿いに遡行するものであろう。南北漢江合流部は、極めつけの難関であり、ここを、川船で上下するのは、取るべきみちではない。

 但し、漢江上游(上流部)は、激しく蛇行して、深く渓谷を刻んでいるので、とても、川沿いに進めるものではない。通行至難である。まして、何れかの地点で急峻な峠越えが必要なので、全体として、街道沿いに多数の人馬の備えが必要であり、とても、風任せの安楽な「水行」とは言えないのである。いや、ついつい、本書の書評の範囲をはみ出して、書きすぎてしまった。陳謝。

 因みに、紹介した中島氏の著作では、半島内の道里は、河川航行を多用しているので、史の新定義によれば「水行」と分類されるとしているが、このような創意工夫に対して、重大な異議があるとだけ述べておくが、ここはその論議の場ではない。と言いつつ、以上のように書きすぎたのは、不徳の致すところである。

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