私の本棚 出野正 張莉 「倭人とは何か」 3/6
明石書店 2016年12月刊
私の見立て★★★★☆ 2017/05/04 2019/01/29
何故か、肝心の表題を誤記していた粗忽ノ失礼を深くお詫びして訂正する。
第7章 1. (2) I
『最後に「七千餘里」について述べてみましょう』、として、あたふたとまとめているが、その分、「わずか十行に」問題点が凝縮して批判を展開しやすくてありがたい。
*道里の不審
現在のソウル、中国語で言う漢城から釜山まで、国道経由、つまり、陸路で420㌖(現代中国語で言う公里)程度としておきながら、公「里」とこの間を七千餘里とした倭人伝「里」の関係について触れていないのは、誠に不審である。
陳寿は、帯方郡の提出した資料を基に倭人伝を編纂、著述したのであり、使用した帯方郡治から狗邪韓国までの距離は、各韓国が地図の形で報告した資料に基づくものでなければ、帯方郡が陸上経路を歩測などによって計測したものである。
いずれにしろ、帯方郡には、公式道里があったのである。
つまり、この七千餘里は陸上経路たる街道の里数なのである。また、帯方郡治から狗邪韓国までの所要日数は、陸上経路の所要日数なのである。
陸上経路が公式経路となるのは、里数が計測できない沿岸航行は、難船などの重大な危険がある上に、所要日数が確定できない不確かなものであることによる。長距離で多数の区間が装幀される多島海沿岸航行を「至難」であると断言していても「絶対不可能と断言」しているわけではない。航路沿いに、屈強で、疲れを知らない漕ぎ手を常備していて、取っ替え引っ替え乗り継ぐという「海駅」制度が実証されない限り、いや、民間の制度としてその存在が実証されても、官道と同等の速度と信頼性を要求される(落ち度があれば、責任者一同が命を失う)帯方郡の官道としては、採用されなかったと断言しているのである。
公式経路と公式所要日数は、韓国を構成する各国から魏帝国の機関である帯方郡への文書連絡期限や貢納物納期設定などに利用される重大なものである。
海が荒れたからとか、言い訳の許されないものだから、街道、宿駅を整備して、急使が疾駆できるものとせよとは創業者曹操の厳命であり、遺命である。
もちろん、当時、いや、はるか後世まで「海路行程は計測のしようがなかった」ので、公文書に狗邪韓国までの海路里数を記載しようがない。いや、そもそも、「海路」という言葉も概念もなかったのである。
倭人伝記事でも、渡海行程のように代替陸路が存在しない場合は、不確かな里数、不確かな所要日数を書かざるを得ないが、狗邪韓国までは安定した陸路が公式の連絡手段として存在する以上、それを記載したと考えるのが自然、当然、必至である。
*この項未完
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