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2017年5月

2017年5月29日 (月)

今日の躓き石 NHKBS-1の罪深い軽薄コメント「オールラウンダー」

                           2017/05/29           
 今回の題材は、NHKBS-1の「応援!日本スポーツ NHK杯体操男子」なる番組である。

 全体として、軽薄なコメントを避けた、味合うべき好番組なのだが、大変困ったことに、そのような正しかるべきNHKBSの体操のコメントに、できの悪い「カタカナ言葉」が時として飛び出すのである。実況放送ではないので、編集で排除できると思うのだが、そのまま流しているのである。

 「オールラウンダー」など、英語などではない愚劣なカタカナ言葉であり、愚劣なカタカナ言葉は、NHKBSが使うべき言葉ではない。


 
そもそも、6種目ある体操種目全体に亘って、国内最上位を占めようかという高得点を取る選手に対して、「器用なだけの何でも屋」というのは、大変な侮辱だと思うのである。

 もしこのカタカナ語がアメリカ「英語」起源としても、せいぜい、口から出任せのスポーツジャーナリズムの産物であって、中学生でも知っている文法を外していて、英語としてお手本にしてはならないものと思うのである。

 また、元々は、アメリカのプロスポーツで、力も技もスピードも、と言うような普通両立しない特徴を、得意分野以外も、下手なりに併せ持っていることを言うのだろうが、言うならば、身体がデカいのに、動きが素早いなどのように、......にしては、と言う感じではないかと思うのである。
 いや、これは、一介の素人の意見だから、大した物ではないのだが、いずれにしても、今回やり玉に挙げられた体操選手のように6種目全部で上位というような、超絶的な技術に使うべき言葉ではないと思う。

 と言うことで、この言葉は、NHK推奨のコメント用語として広まるのである。NHKBSが、軽薄で思いつきの出任せコメントを電波に乗せるようだと、誰が、言葉の護り人なのかとか、受信料返せとか言いたくなるのである。

以上

2017年5月22日 (月)

今日の躓き石 不可解なリベンジ ゴルフ 女子トッププロの迷言

                         2017/05/22

 本日の題材は、(例によって)毎日新聞大阪朝刊第13版スポーツ面である。

 三季ぶりの優勝に有頂天になったのか、優勝談話が乱れていて、それを、毎日新聞の担当記者が、愚直に引き写したものだから、とんだ恥さらしになっている。トッププロには、それに相応しい言葉遣いがあって良いと思うので、ここに批判する。

 先月、トップで走っていながら逆転負けしたことを引き合いに出して、今回「リベンジができた」と言っているが、元々、復讐の血祭りという忌まわしい意味の言葉が、再挑戦という第二の軽い意味で蔓延していて、それだけでも、一般読者の理解を拒否していて、混乱しているのに、今回は、そのどちらとも違う「誤用」であり、二重、三重の意味で、不適切な言葉である。
 今後、こうした暴言が出ないように自戒していただきたいものである。先週の男子プロの暴言と合わせて、日本のゴルフ界には、こうした暴言がはびこっているのだろうか。

 そして、最後にダメ押しが、肝心のゴルフに関する言葉の誤用である。

 「パター」に「自信」とは、どんなことを言っているのだろうか。技術を磨くのならわかるが、道具に自信を持てない(現在の)心境がよくわからない。

 今回の勝利で、結構な金額の賞金を得たはずだから、せいぜい良いパターを買って自慢したい気持ちになるのもわかるが、くれぐれも、トッププロに相応しい技術とそれを支える強靱な心、そして、それにふさわしい言葉遣いを磨いて欲しいものである。

 それにしても、全国紙で署名記事を書く記者たるもの、結構長時間のインタビューだ゜ったと思うから、プレーヤーの失言をやんわり指摘するなり、問題発言の直接引用を避けるなり、プレーヤーの失言をさらし者にしない書きようがあったと思うのだが、実際は、そのまま紙面に書き立て、あわせて悪い言葉を世に広げるなどは情けないと思うのである。

 今回の記事の地の文では、ちゃんと、「パット」が打ち切れないと技術評しているのだから記事として「ちぐはぐ」であり、どう見ても、不出来なのである。

以上

2017年5月16日 (火)

今日の躓き石 ゴルフ世界3位の失言 リベンジ

                      2017/05/16
 今回の題材は、毎日新聞大阪5/15付け夕刊第3版のスポーツ面記事であるが、共同通信の配信記事であるから、毎日新聞が主犯というわけではない

 と言うことで、見過ごそうとしたのだが、その後、発言者が世界ランキング3位になったとの報道に気づいたので、この機会に失言を指摘して、今後世界のマスコミに対して恥をかかないように忠告するものである。

 発言の趣旨は、当日の特定のコースでのプレーが、前日の失敗を教訓にして改善されたという感慨であり、その主旨自体、特に文句をつけるものではないのだが、言葉として「リベンジができた」と失言しているので、大いに失望したのである。

 プロゴルフの世界でトップ3の地位に上り詰めたのに、言葉遣いは俗悪では、もったいない。特に、カタカナ語を、元来の英語の意味を構わずに、軽い気持ちで誤用しているのは、そのまま英訳されれば、真意を誤解されるものである。軽い気持ちの誤用は、本気の言葉より、たちが悪いのである。

 当人の真意は、先ほど書いたように、鬱憤に耐えて、前日の失敗を繰り返さなかったという意味なのだろうが、リベンジは「復讐」であり、「天誅」であり、「血の報い」である。世界を震撼させている大事件の多くが、やられたらやり返す、と言うものであるから、大国の勝手な制裁や制裁された側の報復の応酬に加担しているものである。

 他に言い方はあるのだから、このカタカナ語を口にしないよう自戒して欲しいものである。
 プロスポーツの選手は、発言が報道される機会が多く、子供達を含め、多くの視聴者、読者がお手本にするものだから、特に慎重であって欲しいのである。

以上

2017年5月10日 (水)

今日の躓き石 ハードルへの誤解蔓延を憂う

                          2017/05/10
 今日の題材は、毎日新聞大阪夕刊第三版「夕刊ワイド面」のニュースアップなる大型コラムである。

 いや、紹介されている人物やその業績に何も異議はないのだが、担当記者が、開発者その人が多大な困難に立ち向かったことを形容するのに、仰々しく「ハードルは幾重にも重なった」と言い放っているのに抵抗を感じたのである。

 元々、比喩の「ハードル」が、見当違いの誤解であることはいうまでもない。陸上競技のトラックに並べられるハードルは、走者が飛び越えられる高さであり、足が掛かればすぐ倒れてしまうものなのである。いや、そもそも、ハードルを飛び越えずに突き倒しても良いものなのである。だから、人が直面する、時として克服できない難関とはまるで違うものなのである。
 私見であるが、報道関係者の比喩辞書から「ハードル」を抹消すべき時が来ているのではないかと思うのである。

 特に、今回、ものものしく「幾重にも」と書いているのは、失笑してしまう。元々、ハードルはコース上に何台も置かれているものであり、殊更に「幾重にも」と言うのは何の意味もない冗句になっている。
 担当記者が不勉強なのか、鈍感なのか、それにしても、誰も紙面に掲載されるまでに不適当な比喩を指摘しないのは、まことにもって不都合な話ではないかと思うのである。言葉の本意を確認せずに、的外れな比喩を自己流に拡張して世に広げるのは、全国紙の有力記者に相応しい所業とは思えないのである。

 因みに、陸上競技で越せないように設定されるのは、高跳び競技の「バー」である。高跳び競技のバーは、クリアされるたびに高くされ、誰もクリアできなくなったら、その際の競技が終了するというものである。このあたりは、中高生でも授業で習うものではないだろうか。それはさておき、このような成り行きは、世間の荒波に、多少なりとも相応しいものではないかと思うのである。

 バーの意義は、日本文化にも同様に浸透していて、寺社で、参詣者の立ち入りを制限する場合には、特に注意色など塗られてない素の竹棒などを水平に渡して、意思表示しているほどである。ただし、簡単にまたげる「バー」は、示された意図が読み取れなければ、軽々とまたげるものであるから、例えば、異文化に属する外国人には、全く通じないのである。

 言葉の誤解、誤用は、世間に広がってしまえば、大変な努力をもってしても駆逐できないのであるが、良識ある言葉の護り人たる毎日新聞記者は、以上の趣旨を別途確認して理解の上、ハードルでなくバーを紙上に掲げるべきである、などと、一購読者は思うのである。

以上

 

2017年5月 9日 (火)

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」 7/7

    石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 

 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆         2017/05/09

*正史写本評価
 これに対し、正史の写本は、実用のものではないために、よほど関心のある皇族や政府高官でないと所蔵せず、従って、世にあるのは、政府所蔵の良本に近い写本であり、従って、とことん入念な校正を経た良本の良質な複製品であって、低俗な写本が氾濫することもなかったと推定される。

 つまり、経書の写本に誤写が非常に多いことから類推して、正史写本にも同様に誤写が多いと速断するのは、誰が言い出したか知らないが、とことん軽率ではないかと思われる。

 中国学権威の見解は、尊重して聞くべきであるが、推論の過程に疑問があれば、率直に指摘すべきと考える。

 因みに、宮崎氏が自身の見聞から、正史、特に、三国志の写本、版本に誤写が多いと判断していたのであれば、当然、実例を挙げて明言されていたはずであるから、実例の指摘が無いと言うことは、宮崎氏の博識を持ってしても、確実な事例は、思い当たらなかったと見るのである。

 いや、宮崎氏の書いた趣旨を、他の部分の誤読、誤解事例から見て信用をおけないと見られる引用者が要約した引用で判断してはならないのだが、ここは、証拠として取り上げるべきではないという判断の論証過程であるので、ご容赦いただきたい。

  いうまでもないが、以上で言及していない記事に異論がないというわけではない。推して知るべしと見ていただいて結構である。

以上

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」6/7

    石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 

 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆         2017/05/09

 さて、以下で特に目立つのは、103ページの引用である。

 ここに引用されている記事の筆者、宮崎市定氏は、博識かつ真摯な学者であるので、その見解は尊重しなければならないのであるが、ここに引き合いに出されている論議については、同意しかねるものがある。

*経書写本誤謬論
 宮崎氏は、古代中国における聖典と言うべき四書五経の経書写本に誤謬が多発していたことを例として、正史写本といえども、同様に誤記が多いとみるべきだと推断したようであるが、素人目にも、この類推に誤解があるようである。

 経書は、儒教が国家の指導原理として尊重され始めた漢武帝の時代から、帝国の官吏登用の際の必要教養とされたから、史官を志す若者達、多くは、洛陽の太学に学ぶ若者達は、争って経書写本を買い求め、市場に氾濫するほどであったという。後世喧伝された科挙のはるか以前から試験地獄はあったのであり、「試験」に出るから、借金してでも写本を買い求めて暗記に努めたのである。官吏となって高位に登れば、絶大な収入が得られ、故郷の親族はじめ支援者すべてに篤く報いることができるのであり、役得の類いを合わせれば、富豪への道ともなるのであった。

 前漢は紙の発明以前であるし、後漢も、紙の普及はその後半であったろうから、大抵の場合は、竹簡、木簡などの簡牘に筆写されたのだろうが、それでも、必要があれば大量の写本需要が発生し、大量の需要には大量の供給が伴ったのである。
 当然、写本に写本を重ねる低俗な写本では、学識不十分な、おそらく、少なからず素人写本者を起用するため、粗製濫造は避けられず、写本間の不一致はざらにあったようである。

 若者達は、各人の持つ写本の記事が互いに一致しないときは、政府の所管部署に、どちらが正しいか判断を求める権利を保障されていたため、時には、政府方針に不満を持つ若者達が、合法的に徒党を組んで、不平を唱えるとして数多くが集合し、道にあふれたと言うほどである。

 そのため、たまりかねた政府は、所蔵する良本、つまり、試験正答の根拠を石碑に刻し、自分の写本に疑問があれば碑文を見よと言い渡したという。
 経書の写本とは、そういうものなのである。

 いや、このあたりの世相は、宮崎氏の熟知するところであり、従って、経書写本の質についての発言が出たのであろう。

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」 5/7

    石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 

 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆         2017/05/09

 暢気に「日本列島」と言っているが、当時「日本」はなかった。また、今日言う日本列島の内、倭人伝に明確に書かれているのは、九州島の北部と海岸、海上の様相だけである。
 倭人伝には、隋書に書かれている阿蘇山が登場しないことから見て、倭人伝の実見に基づく記述は、今日の福岡県からほとんど出ていないものと推定される。

このなかで注目すべき記述は、郡使が伊都国に駐在していること、邪馬台国が女王の(以下略)
  「郡使が伊都国に駐在している」とするのも、不可解な読み取りであり、少なくとも、魏朝の公孫氏討伐によって、帯方郡支配層は更迭されたのであるから、帯方郡使が倭国に駐在したというのは、あったとしても、もっと後世のことではないかと思われる。

  この2ページの書きぶりだけ見ても、著者は、自分自身の著述したものでない資料を、十分比較検証しないままに、ベタベタ引用しているものと思われる。
 我々知性を有する人間は、鳥類ではないので、鵜呑みの受け売りはせず、資料を噛み砕いて、存分に味わってから呑み下すものではないのかと思うのである。

*追従の弊害
 ここでは、たまたま、著者の文を取り上げて批判することになったが、このようないい加減な言い回しは、古代史関係の講演や著作でしばしば見かけるのである。

 これは、何らかの学会方針でそのように言うことになっているのだろうし、学会方針でそうなっているものに逆らうことはできないのだろうが、傍目にも、所用の学識の欠如と見える。

 著者個人も学会も、現代のみならず後世においても、不見識に対する批判を浴びるもととなるので、「随分損してますよ」と申し上げるものである。

未完

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」 4/7


    石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 

 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆         2017/05/09

 ただし、『魏書』が刊行されてから『後漢書』が出ます。王朝の順としては、後漢(二五-二二〇)、三国時代(ニニ〇-二八〇)になります。しかし、正史は、『三国志』陳寿(二三三-二九七)撰)の後に『後漢書』(范曄(三九八—四四五)撰)が編纂されます。この『後漢書』や『隋書』(六五六年完成)では、「壹」ではなくて「臺」(台の正字)が使われており、私は、この『後漢書』『隋書』の表記を尊重して、元は「邪馬臺国」という字があったと考えています。

 長々と説明しているが、隋書は、後漢書の国名表記に影響されたものであり、結局、倭人伝に邪馬台国はなく、「邪馬台国」は後漢書(だけ)を根拠としている、と言う古田氏の主張は克服されていないのであるから、そのように認識すべきである。

 まして、筋の通らない口ぶりでぼやかしているが、史料批判のされていない後世史書を根拠に先行する倭人伝の確たる表記を否定する暴挙を犯しているのである。要は、何が何でも、つまり、妥当な論理が構築できないにもかかわらず、「邪馬台国」を仕立てるという牽強付会に過ぎないのである。

三つの部分からなる倭人伝
 「魏志倭人伝」は、三世紀代の日本列島の社会状況を伝える貴重な史料です。基本的には三つの部分からなり、記述の構成は、ほかの「烏丸鮮卑東夷伝」の条文とほぼ同じです。

 国別記事
 まず、第一段は帯方郡から邪馬台国に至る道のりを記しています。「倭人は、帯方の東南の大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす」で始まります。
 朝鮮半島(韓半島)では、前漢が前一〇八年に楽浪郡などの四郡を設置しました。そして帯方郡は、二〇四年ごろ、公孫氏政権によって、楽浪郡の南につくられた郡です。その帯方郡から、 途中の韓の国を経て日本列島に至る方位・距離・国名が書かれており、いわゆる「国別記事」がみえます。

未完

 

 

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」3/7



    石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 


 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆         2017/05/09

 また、写本は一部作成するたびに新たに継承されるが、版本は、原版が破損するまで、改版、修復されて出版に使用されるので、その内容は確定しているのである。違いを認識すべきである。

 今日では、裴松之 (三七二-四五一)が注記をつけた『三国志』として伝世されました。
 裴松之の注釈は、高い意義を持つものであるが、決して「三国志」の本文ではないのである。

 ここに記述されている『魏書』を、史料として使います。
 現今正史史料として利用されているのは、「ここに記述されている『魏書』」などという曖昧なものでないと考える。

 現在その『三国志』の一番古い版本は、中国、北宋(九六〇-一一二七)時代、一二世紀のものとされています。
 これは、勘違いの誤解である。発言者の威信は、泥まみれである。衆知の如く、北宋版本は断片しか残っていない。
 また、現存版本資料として見ることができるのは、北宋版本の版木を利用した再版本ではなく、南宋期に版木を起こした、いわば、複製、復元本である事は衆知と思う。
 またも、無思慮な妄言である。

 この『三国志』には「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」と書かれています。この事実から古田武彦さんから、邪馬台国はなかったという見解が出てきました。
 事実の指摘とは重いものがあるが、古田氏の主張の根拠は、「この『三国志』」などという曖昧なものではなく、『三国志の現存諸版本全てで、「倭人伝に「邪馬台国」はなかった」』と明確なものであり、「確固たる事実」を踏まえた適確な発言である。

 このように、引用は不正確であるが、ここだけ推定調でないことは論者の本意を示しものとして、重く受け止めるべきであろう。

未完

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」 2/7

    石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 

 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆         2017/05/09

ただし、現在では携帯電話の入力でも「やまたいこく」とうちますと「邪馬台国」と出ます。 
 「携帯電話の入力」とは、使用者のカナやローマ字の入力に対して変換候補として表示される漢字のことを言うのだろうが、これは、現代、そのように書き慣わされていることが反映しているのであって、古代史論議には無関係である。いわば、ジャンク情報であり、そのように説明すべきである。

今日は、わかりやすいように「やまたいこく」と発音します。
 勿体ぶっているが、単に、カビの生えた仮説の押しつけであって、論議の余地が多く残されているものと考える。

1『三国志魏書』烏丸鮮卑東夷伝倭人条
「魏志倭人伝」のテキスト
 ところで、通称の「魏志倭人伝」は、正確にいうと『三国志魏書』巻三〇の烏丸鮮卑東夷伝 のなかの倭人条になります。
 倭人伝論の試金石とも言うべき発言である。「正確にいうと」と断言しているが、「正確」と断言するからには、その根拠を示すべきであろう。単に、俗説に過ぎない点では「やまたいこく」説と同様である。

 しかし、その原本が、現代まで残っているわけではありません。
 「しかし」も「案山子」もあったものではない、
 三世紀に書かれた書籍の原本が現代まで残存していると考える方が、異常感覚である。それは、一般人でもわかる当然、自明の事項であり、なぜ殊更「しかし」と言い立てるのかわからない。元々、この断言は「だから、原本がどのような現代まで伝えられたかを確認するのである」との学術的な見解の導入部であるはずだが、ここだけ一人歩きさせるとは、ずいぶん粗暴で稚拙な論法である。

 当初は写本もあったでしょうが、後に版本として受けつがれていったかと思います。
 「当初」の事態を推定しているが、「写本もあった」というのも、無頓着な放言である。上申された三国志は、皇帝書庫に秘蔵されるのであるから、官製写本で複製(レプリカ)としなければ、原本を温存しつつ、複数の人々に写本を届け読んで貰うことはできなかったのである。

 そもそも、陳寿が編纂を完了し、決定版として遺した三国志原本を複製し晋朝に上申したのが、後に三国志が正史として認定された背景である。ということは、陳寿旧宅には、一冊の三国志全巻が残っていたのである。

 このあたり、見当識にかける暴言である。以下、同様の暴言を連ねるという予告とみられるから、一般講演であれば、ここまでで退席してもおかしくないのである。
 このような暴言が権威者の講演録として収録されているでは、諸説編集の不備といわざるをえない。

未完

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」 1/7

    石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 

 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆  度しがたい迷妄      2017/05/09

第5章 考古学だけでは不十分  吉村武彦

 本項は、二〇一〇年七月三日に文化庁主催シンポジウム「いま、なぜ邪馬台国が?」における講演のなかで、吉村武彦氏(著者)の講演を収録したものと思われる。
 講演は、おそらく古代学において、考古学者の良心とも言うべき感慨から開始している。しかし、以下示すように、文献史学分野の見識を取り入れる際の不正確さが山積していて、著者の権威を損なうものになっているのは、いかにももったいない話である。特に、客観的に間違っていると判断できる誤解が、訂正されることなく出版されているのは、著者の周辺に誠実な支持者がいないことの表れであり、ここに慎んで、憎まれ役を買って出て誤解を糺そうとするものである。

 著者の誤解の多くが、百-百一ページに露呈しているので、失礼ながら、個別に批判を加えるものである。

こうした表記法からいえば、「邪馬台国」の表記も同じように仮借で書かれています。ふつう は「やまたいこく」とよびならわしていますが、「邪」は「や」、「馬」は「ま」の漢字音ですから、「台」は「と」ないし「ど」と読み、「やまと」ないし「やまど」と読むだろうと思います。 おそらく「やまと」と読むのが正しく、むしろ「やまたい」と読むのは間違いではないでしようか。

 「邪馬台」国を「やまと」のくにと呼ぶという議論は、古来、連綿と引き継がれてきた「俗信」であるが、同時代の倭国側文献資料、音声記録が絶無である以上、所詮、後世人の推測の積み重ねであり、いくら推測調の文体であろうと、学術的な文で殊更書き立てるべきものではないと考える。

未完

2017年5月 5日 (金)

私の本棚 出野正 張莉 「倭人とは何か」 6/6

       明石書店    2016年12月刊
        私の見立て★★★★☆          2017/05/04 2019/01/29 2019/11/23

 何故か、肝心の表題を誤記していた粗忽ノ失礼を深くお詫びして訂正する。

第8章 4 『翰苑』に書かれた多利思北孤の都
*翰苑解釈

 ここで、原史料そのものでなく、読み取られたテキストを抜粋引用しているので解釈に疑問を生じている。
 「卑弥娥」部分は、より正確には次の通りである。(影印による)
            卑弥娥惑翻叶群情
臺與幼齒方諧衆望
後漢書曰安帝永初元年有倭面
                    上國王師升至桓遷之間倭國大
乱更相攻伐歷年無主有一女子名曰卑弥呼死更立男王国中
不服更相誅攻復立卑弥呼宗女臺與年十三為王国中遂定

 ここに引用されている後漢書では、「一女子」として卑弥呼の名が出るが、そのとたんに死んでしまうのである。字数制限で無理矢理削除したのか、残ったのは意味不明の「伝」残骸である。
 
 翰苑テキストは、四六駢儷体の二字熟語の連結である漢字句に、その背景となる史料引用を分註しているが、書き出されている漢字句は、当然史実の記述としては大いに疑問である。
 それどころか、分注部で後漢書と明記していても、笵曄後漢書の忠実な引用でないことは明瞭である。文献学で、佚文と呼ばれる断片史料であるから、頭から、信用できないと見て取り組むべきである。


 そうした「些細な」欠点は脇に置いて、漢字句解釈に批判を加えると、ここで、「卑弥娥惑」と3+1文字と見ているが、「卑弥妖惑」と2+2文字に解釈すべきではないか。そうでないと、「惑」が孤立して、不細工である。
 ここでは、卑弥呼という三文字名が、四六駢儷体の制約で卑弥なる二文字名となったとみられる。
 あるいは、八文字、八文字の対句とみると、
卑弥娥惑翻叶群情
臺與幼齒方諧衆望

となり、卑弥と臺與、娥惑と幼齒、翻叶と方諧、群情と衆望が、それぞれ対応すると見ることもできる。ということで、「娥惑」でなく「妖惑」とみられるのである。いや、「娥」は、「妖」の異体字とみるものかも知れないが、当方は、素人なので、そこまで行き届かない

 なお、翰苑以前の事項であるが、後漢書は「事鬼神道能以妖惑」と四字熟語二個を八文字に贅沢に連結しているが、魏志は、「事鬼道能惑衆」と三字熟語二個を六文字に簡潔に連結しただけであり、「神」、「妖」はない。
 言うまでもなく、文筆家范曄が、史官陳寿の無骨な言葉を整えたのであるが、文意が潤色で済んでいるのか、別義になっているのか、素人には判断できない。ただ、安易な追従はできないのではないかと提言するだけである。

 いずれにしろ、翰苑は「史料」として問題が多いのは、論議を広く公開するほどのものには衆知と思う(但し書きしないと、俺は知らんと八つ当たりされるので、書き足した)が、誤字、誤写ゆえに、斬新な感覚を受けるようであり、原本成立時点が「類書」と比較して一段と古いと言うだけで、引用資料の原型を忠実に引き継いでいるとみた「好意的」な世評がある。
 と言うものの、太古の編者に追従してもしょうがないので、何か下心があっての褒め殺しであろう。


 素人の率直な意見として、いずれの時点の書写であろうと、誤字、誤写、さらには、史書に適さない華麗な文飾の多々見られる翰苑に、正史を超える絶大な意義を見出すべきではないと思う。

 以上の批判は、本書のほころびであり、定説の安易な引き写しと見える点もあるのが懸念されたのである。

 因みに、後日気づいたが、この程度の定見は、既に古田武彦氏が発表されていて、当方は、無知に気づかず手柄顔に発表したのである。二番煎じの恥は、汗顔の至りである。

 

以上

私の本棚 出野正 張莉 「倭人とは何か」 5/6

     明石書店    2016年12月刊
        私の見立て★★★★☆ 必読     2017/05/04 2019/01/29 2019/11/23

 何故か、肝心の表題を誤記していた粗忽ノ失礼を深くお詫びして訂正する。

*時間錯誤の不合理
 続いて、日本書紀の斉明記と思われる記事が参照されているが、著者ほどの見識の人にしては、不合理きわまりない

 日本書紀斉明記に難波津から大泊(書紀では大伯)まで二日で移動した(ように書かれている)記事をもとに「帆船では一日**㌖ぐらいの行程」とするが、三世紀に<数世紀後の斉明記の時代と同様の速度で船で移動できたという証拠はあるのだろうか。

 ちなみに、続いて「中世の帆船」の一日の航海距離を述べているが、欧州中世は論外なので、中国中世、唐時代のことだろうが、帆船航行は、高度な造船、航海技術を前提としているので、三世紀に倭人伝領域で実現していたと判断できるだけの事情がわからない以上、何の参考にもならないと思われる。(三世紀当時の倭地で巨大帆船の前提となる巨大な帆布は調達不可能だったはずであるし、そのような巨大な海船が、多島海を安全航行できたはずはない。いや、偶然通過できることもあったかも知れないが、いつも、偶然にうまく行くことはない)

 このあたり、著者ほどの見識の人にしては、信じられない推敲不足が続いて幻滅する。
 この部分は、同時代史料ではなく、後世史料を無造作に利用していて数世紀の隔世である。
 当然、その間の船舶航行の技術と航路の開発は画期的であったろうから、逆に未発達の時代にそのまま利用するのは、時間錯誤である。
 ついでながら、瀬戸内海航行は多島海の内海と言っても、海洋航行であって河川航行ではない。(海船は、河水、江水の川船と、全く構造が異なると見るべきである)

*史料錯誤の不審
 日本書紀斉明記の日数表示は、斉明天皇の軍船の航行日程の史実と見ることはできないと考える。
 信用できない資料の記事を利用した議論は無効である

 ここでは、斉明記征西記事のみ批判する。
1.  妊婦同行の不審
 斉明紀では、乗船していた女性(大田姬皇女)が大泊(大伯)で出産したという。人の理性が働く限り、軍船に(臨月の)妊婦を乗せるはずはないと見るのである。
 平地の平常環境下での出産でも、母子が命を落とすことの少なくない時代こそ、妊婦の安静を求められたはずであろう。
 愚考するに、皇女は、乗船などしていなくて、大泊の実家で穏やかに出産したものと思うのである。

2 長期滞留の不審
 軍船は、中途(伊豫熟田津石湯行宮とあるも、「行宮」の実在の当否、所在地、実態など一切不明)で、二ヵ月滞在したとなっている。数千人とも思われる一行に、その間食糧供給が、平然と続いたことに感心するのである。
 もちろん、行宮と言われるからには、正規の「宮」に及ばないにしろ、あばら屋などではないはずである。柱穴などの遺構は発見されたのであろうか。厖大な廃棄物も、跡形なく消滅するはずがないのである。考古学者は、何も言っていないのであろうか。

 以上、素人がちょっと考えただけでも、国内史料編者の記事転記の粗雑さに、天を仰ぐし。それを、堂々と倭人伝談義に利用する著者の感覚に、また天を仰ぐのである。おそらく、国内史の権威者に助言を求めた限り、権威者の助言を採用する義理があるのだろうが、学問の世界に、義理人情を持ち込むのは、学問の劣化を招くのである。

未完

私の本棚 出野正 張莉 「倭人とは何か」 4/6

        明石書店    2016年12月刊
        私の見立て★★★★☆        2017/05/04 2019/01/29

 何故か、肝心の表題を誤記していた粗忽ノ失礼を深くお詫びして訂正する。

*承前

*短里制度の不審
 ここで、無頓着に「魏朝の短里」と書き、つづけて、それが、75-90㍍であったと、当然のごとく書いているが、立証されていない作業仮説を証明無しに確たるものとして書き立てるのは論考として不用意である。

 倭人伝で使用されている「里」は、先に述べたように、帯方郡から狗邪韓国までの、現代の道路で420公里(㌖)程度の行程を七千餘里とするものであり、ここに、明確に「里」の基準を宣言した上で、以下の道里記事を書いているのである。

 つまり、倭人伝における「里」はここで確定しているのであって、これが魏朝制度であったかどうかは、倭人伝理解に際して不必要な議論なのである。

 古田武彦氏は、東夷伝の中の倭人伝の「里」が改めて定義されているのを見過ごして、そのような「短里」は魏朝国家制度であり、魏使全体に普通であるとして、魏朝短里制仮説を展開していた。しかし、それは、倭人伝の注意深い書き方に気づかなかった不用意なものである。

 つまり、帯方郡から狗邪韓国までの里数を書いた時点で、陳寿は、これ以降の「里」は、すべてこれに従うと宣言しているのである。言い換えると、それ以降の里数は、宣言された基準「里」であることに対して史官として責任を持つ(文字通り、命をかける)と宣言しているのである。

 言うまでもないが、この宣言は、三国志のそれ以前の「里」に遡って適用されるものではない。また、倭人伝以前の「里」がどのようなものであったかを語るものでもない。あくまで、倭人伝だけに適用される基準「里」と解すべきである。

 ちなみに、本書には、海流、潮流の影響で、乗船した船舶の航行速度が変わるとあるが、三世紀当時、「航路」なる言葉も概念もなく、当然、「航路長」も不明であり、また、船舶の航行速度を測定する手段がない以上、このような議論は、時代錯誤で無意味なのである。当時の感覚で、中原人が理解できないいい加減さを公文書に書いて、皇帝に報告できるだろうか。

 論戦不敗の信念など忘れて、冷静に考えて頂ければ、このような簡単な理屈は、ご理解頂けるものと思う。

未完

 

 

私の本棚 出野正 張莉 「倭人とは何か」 3/6

        明石書店    2016年12月刊
        私の見立て★★★★☆         2017/05/04 2019/01/29

 何故か、肝心の表題を誤記していた粗忽ノ失礼を深くお詫びして訂正する。

第7章 1.  (2) I 
 『最後に「七千餘里」について述べてみましょう』、として、あたふたとまとめているが、その分、「わずか十行に」問題点が凝縮して批判を展開しやすくてありがたい。

*道里の不審
 現在のソウル、中国語で言う漢城から釜山まで、国道経由、つまり、陸路で420㌖(現代中国語で言う公里)程度としておきながら、公「里」とこの間を七千餘里とした倭人伝「里」の関係について触れていないのは、誠に不審である。

 陳寿は、帯方郡の提出した資料を基に倭人伝を編纂、著述したのであり、使用した帯方郡治から狗邪韓国までの距離は、各韓国が地図の形で報告した資料に基づくものでなければ、帯方郡が陸上経路を歩測などによって計測したものである。
 いずれにしろ、帯方郡には、公式道里があったのである。

 つまり、この七千餘里は陸上経路たる街道の里数なのである。また、帯方郡治から狗邪韓国までの所要日数は、陸上経路の所要日数なのである。
 陸上経路が公式経路となるのは、里数が計測できない沿岸航行は、難船などの重大な危険がある上に、所要日数が確定できない不確かなものであることによる。長距離で多数の区間が装幀される多島海沿岸航行を「至難」であると断言していても「絶対不可能と断言」しているわけではない。航路沿いに、屈強で、疲れを知らない漕ぎ手を常備していて、取っ替え引っ替え乗り継ぐという「海駅」制度が実証されない限り、いや、民間の制度としてその存在が実証されても、官道と同等の速度と信頼性を要求される(落ち度があれば、責任者一同が命を失う)帯方郡の官道としては、採用されなかったと断言しているのである。

 公式経路と公式所要日数は、韓国を構成する各国から魏帝国の機関である帯方郡への文書連絡期限や貢納物納期設定などに利用される重大なものである。
 海が荒れたからとか、言い訳の許されないものだから、街道、宿駅を整備して、急使が疾駆できるものとせよとは創業者曹操の厳命であり、遺命である。

 もちろん、当時、いや、はるか後世まで「海路行程は計測のしようがなかった」ので、公文書に狗邪韓国までの海路里数を記載しようがない。いや、そもそも、「海路」という言葉も概念もなかったのである。

 倭人伝記事でも、渡海行程のように代替陸路が存在しない場合は、不確かな里数、不確かな所要日数を書かざるを得ないが、狗邪韓国までは安定した陸路が公式の連絡手段として存在する以上、それを記載したと考えるのが自然、当然、必至である。

*この項未完

私の本棚 出野正 張莉 「倭人とは何か」 2/6

        明石書店    2016年12月刊
        私の見立て★★★★☆    2017/05/04 2019/01/29

 何故か、肝心の表題を誤記していた粗忽ノ失礼を深くお詫びして訂正する。

第6章 4 「倭」の意味と音について
*仮説批判
 「倭」と言う文字が、黥面文身の風俗に由来しているという仮説を展開されているが、まずは、字義からみた方が順当ではないか。少なくとも、白川静氏の「字統」で、「倭」に示されている、稲穂をかざした女性という字義は、本旨に見える。

 また、魏志倭人伝に記録された夷蛮風俗の文身、生食、断髪、貫頭衣などの羅列もさることながら、言葉を知らないから「文化」を知ることもできず、まして、女王を仰ぐのは、中華文明から見て、全く問題外であり、「奴」の字をもらったのも、当然であろう。
 これを
「蔑称」と言うと不当な感じがするが、まだ「人」となっていないのだから、「奴」と呼ばれても仕方ないことではないかと思われる。また、文明に浴していないものは、「人」ではないから、ことそら貶める必要などないのである。

 ちなみに、後年、中華文明に目覚めた倭国が、このような「雅」でない記録から逃れたいというのが、国号改定の一因かと思われる。

 倭の旁である「委」が、稲穂をかざす女王政権を表現していて悪いというと、「魏」の国号をあわせて批判したことになりそうだ。

*詩経考察
 詩経「四牡(しぼ、つまり、牡馬四頭)」に「四牡騑騑 周道倭遅」とあり、文脈からして、馬車が、牡馬四頭立てで疾走しても、周の道(官制街道)は行けども遠い、という意味であろう。
 この詩文は、周朝の宮廷儀礼で、奏楽に載せて朗唱されるものであるから、倭遅とは、周道を譏るものではないはずである。「倭」は特に悪い意味ではないはずである。

 因みに、詩経「四牡」にては、異稿も伝わっていて、「周道倭遅」が正しいと断定できないことは承知しているが、古来、この形式で詩句が伝えられていることから見て、「倭」の用例として有効と思われるのでここに採用した。
*白川静「詩経雅頌」1(東洋文庫)から引用。

未完

私の本棚 出野正 張莉 「倭人とは何か」 1/6

        明石書店    2016年12月刊
        私の見立て★★★★☆       2017/05/04 2019/01/29 2019/11/23

 何故か、肝心の表題を誤記していた粗忽の失礼を深くお詫びして訂正する。

*総評
 本書を通読したが、全体に賛同する点が、大変多いことを書いておく。
 もっとも、本書第1章の倭人の「ルーツ」を探る西双版納傣族自治州訪問を経た文化人類学的な考察に、現地を知らない素人が異論を挟めるものではないし、同様に、第2章も、素人の批判の及ばないものである。
 それ以外の章も、大勢は、文献読破と精緻な考察に基づく意見であり、不勉強なものは尊重しなければならない。
 しかし、部分的には首を傾げる点があり、何点か異議があるので以下、延々と述べる。

*水行考
 まずは、水行に関する持論を披瀝する。と言っても、中島信文氏の著作 『甦る三国志「魏志倭人伝」』2012年10月 彩流社での指摘に触発されたものである。ご一考いただきたいものである。

 「水行」について、多くの論者は、沿岸航行、つまり、海洋航行とみているようである。なかには、「海路」などと時代錯誤の用語を多用して、古代史の謎を「解明」した手合いもある。
 しかし、冷静な文献検討では、少なくとも、秦漢以前から三国時代までの史料に、ほとんど、そのような用例が見られない
ことに触れるべきではないかと愚考する。

 こうした議論は、一つには、「水行」は、中国語で「水」が意味する「河川」の「航行」を示すという本旨が無視されているように見える。

 また、「陸行」と対比して「水行」と言うからには、安定した所要日数が得られている必要があり、巷間言い立てられているような長行程の朝鮮半島沿岸航行は、難船、座礁の危険に加えて、風と潮の不確実さも相俟って、所要日数が不確実であり、帯方郡の公的な規定日数として採用出来ないものと見る。

 ここに書く「規定日数」は、帯方郡に対する文書連絡期限や貢納物の納期設定、非常時には、郡兵の到着期限設定に利用されるから、滞納、遅参、討伐の判断基準となる重大なものである。

 今後の提起でも、たいてい、明確な物証はないが、ものの道理として、そうあるものではないかと愚考を提起するのである。

未完

 追記 2019/01/29
 当時は、そのように割り切っていたが、倭人伝を冷静に見ると、冒頭に「循海岸水行」と書いていて、まさか、水渚(みぎわ)を歩いて行くこととは思えないので、官道行程で、海岸の沖をを渡し船で行くことを水行、つまり、行程の一部と呼んでいるのである。
 後ほど里制の解釈で述べるように、倭人伝が、中原の語義と異なる言い回しを採っていることを、明瞭にするために宣言しているものと思われる。
 そうでなければ、一万二千里の行程の、冒頭の僅かな部分行程を、殊更取り上げる必要もないのである。その証拠でもないが、この部分の道里は書かれていない。無視すべき端(はした)ということである。
 と言うことで、倭人伝は、特に宣言した上で、水行は、海行の意味で使っていて、河川航行ではないのである。
 以上、謹んで追記訂正する。
 ついでながら、魏使行程で河川航行があったとすれば、「水行」では言葉が足りず遡行などと言ったはずである。
 何しろ、国内河川は、曳き船でもしなければ、中流まで遡行できないのが通入れなのである。まして、当時、帆船はなかったのである。

再追記 2019/11/23
 以上は、限られた(つまり、不足していた)知識の範囲内で考えたものであるが、その後史書を渉猟した成果として、以下を付言する。

 史記大宛伝、漢書西域伝及び魏志第三十巻に付注された魚豢西戎伝の用語から見て、次の様に考えを立て直したのである。
 湾曲した海岸線に沿って船で航行する場合は、撓めるという用語が見られる。天然の海岸線が真っ直ぐでないことは自明であるから、直道を行くときと表現を変えるのである。

 「循海岸」 とは、海岸に沿って進むのではなく、別の方向、つまり、海岸線と直交する方向を指すものである。海中を行くのであれば、海岸線を盾に見立てて、これに直角に海を進むことを言うのである。史官は、用語、表現を固定するのが務めであるから、ことさら、「循」と言うのは、正統な理由があると見るべきである。

 以上の指摘は余り見かけないので、ここに披瀝する。

 因みに、当方も当初なびいていた「劈頭水行」説であるが、実は、以上のように普通に読めば、そのような道里は、もともと書かれていないのである。
 帯方郡を発した官道は、当然、自明の陸行、陸道であり、衆知の如く通行至難な漢江河口部扇状地を迂回して、おそらく東に進んで、北漢江に向かい、東南に下って南北漢江合流部に達したところから、南漢江中游(中流部)を漢江沿いに遡行するものであろう。南北漢江合流部は、極めつけの難関であり、ここを、川船で上下するのは、取るべきみちではない。

 但し、漢江上游(上流部)は、激しく蛇行して、深く渓谷を刻んでいるので、とても、川沿いに進めるものではない。通行至難である。まして、何れかの地点で急峻な峠越えが必要なので、全体として、街道沿いに多数の人馬の備えが必要であり、とても、風任せの安楽な「水行」とは言えないのである。いや、ついつい、本書の書評の範囲をはみ出して、書きすぎてしまった。陳謝。

 因みに、紹介した中島氏の著作では、半島内の道里は、河川航行を多用しているので、史の新定義によれば「水行」と分類されるとしているが、このような創意工夫に対して、重大な異議があるとだけ述べておくが、ここはその論議の場ではない。と言いつつ、以上のように書きすぎたのは、不徳の致すところである。

2017年5月 4日 (木)

私の本棚 奥野 正男「ヤマト王権は広域統一国家ではなかった」

       奥野正男     JICC出版局 1992年
          私の見立て★★★☆☆        2017/05/04

*密かな正論
 本書に関して、個人的な感想を、刊行後25年を経ている現時点でことさらに申し立てるのは、端的に言えば、当ブログ筆者がこれまで国内古代史に関して、不審に思っていた点に、鋭く異議を唱えているのに共感するからである。

*銅鏡配布論批判
 著者は、1990年代初頭の学会定説に従い、「三角縁神獣鏡」が魏鏡との仮定に基づいているが、それでも、当時小林行雄氏の創唱した、「山城椿井大塚山古墳の被葬者が、ヤマト王権の配下で王権が支配する各地の首長に銅鏡を配布していた」とする説に強く反論している点に共感するものである。
 考古学の成果である発掘物の考証を「日本書紀」の著述に合わせて解釈させることに、史学として早計ではないかと疑念を呈しているとも言える。

*墳墓規模論批判
 また、現在の堺-古市-巻向の各地に配置されている大規模墳墓が、(同時代)「ヤマト」の支配者であった天皇家の墳墓であり、その権力が広く喧伝されていて、世に卓越していたことを、それぞれの墳墓の規模で表していたとする説にも、的確な反論を加えている。

 当方は、遺跡、遺物は、今も、厳としてそこにあるのが、その解釈を「日本書紀」の著述に合わせて案配させることは、史学として疑問があるという見方と思うのである。つまり、史学会の良識として伝えられているように、考古学成果を文献解釈に沿わせて解釈する際には、安易な前提、安易な図式の適用を、極力避けねばならないと感じるのである。

*学問の王道
 以上の批判は、考古学の手法に従い、各地の遺跡とそこから発掘された遺物の精査に基づく主張なので、定説に反するからと言って、軽々しく退けられるべきものでないのは言うまでも無い。学会の衆智を求めて、広く議論すべきなのである。それが、王道というものである。

*共感と尊敬
 こうした批判は、当ブログ筆者が、各種著作に基づいて推論を試みているのとは、主張の方向が似ていても、その次元は大いに異なるのである。
 当方は、そうした堅実な論考と似通った意見を独自に提示したことに、個人的な満足を感じるのみである。

*定説の壁慨嘆
 それにしても、このような卓説を知らないままに自説を言い立てる不遜はともかくとして、かくかくたる正論が「定説の壁」に阻まれて世に広まらないことを嘆くものである。

以上

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