倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 3/4
2017/06/24
*勅命と違勅
曹操は、皇帝でなく丞相であるから、軍事行動に勅命が必要だった。つまり、荊州遠征と大罪人劉備の征討までは勅命であるが、孫権征討は勅命を受けてないから、戦えば違勅である。というものの、曹軍から孫権攻撃の勅命を仰いだ記録はないようである。
比較すると、司馬懿が太和二年、有力武将である孟達を、蜀への内通により討伐したときは、駐屯地から急行討伐し、その後弾劾奏上する非常手段を執っているが、この独断専行は、軍令違反であり、よほどの確信がなければできない。
と言うことで、曹操は司馬懿と異なり謹直である。
*大敗の罪
ついでながら、官軍が大敗を喫すると、指揮官の罪は、最悪、大逆罪に等しい大罪となり、本人の死罪だけでなく、妻子、両親、兄弟姉妹に始まる三親等以内の親族全員が連座して死罪となるから、重大な戦闘には、先立って、皇帝の勅令を仰ぎ、敗戦の責任が自分だけに降りかからないように、慎重に保身するのである。
諸般の事情から、魏書に孫権との戦闘記録は残せなかったのであろう。
*呉書記事
呉書には、孫権の談話とは言え、「老賊」の表現があり、これは曹操の蔑称である。
孫権は丞相を「老賊」と呼んでいたのである。呉書では「曹公」とされているが、ここには孫権の肉声が収録され、温存されている。
*国志鼎立
三国志の各国志は、それぞれの方針で編纂されていて、三国志全巻を一貫した方針で編纂したとは限らない。しかし、それは、編纂方針の不用意な乱れでなく、確たる編纂方針である。
参考までに手早く確認すると、三国志全体を一史書と判断した例が大半だが、舊唐書経籍志と新唐書芸文志では、魏国志三〇巻が正史であるが、蜀国志と呉国志は、、その他史書(偽史類)とされていたと言うことであるから、少なくとも、唐時代には、三国志全体が正史として取り扱われていたとは限らないようである。
未完
« 倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 2/4 | トップページ | 倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 4/4 »
「倭人伝の散歩道稿」カテゴリの記事
- 「古田史学」追想 遮りがたい水脈 1 「臺」について 改訂・付記 3/3(2023.09.16)
- 「古田史学」追想 遮りがたい水脈 1 「臺」について 改訂・付記 2/3(2023.09.16)
- 私の意見 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再掲 1/17(2022.10.12)
- 魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 再掲 4/4(2021.03.14)
- 魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 再掲 3/4(2021.03.14)
« 倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 2/4 | トップページ | 倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 4/4 »
コメント