倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 2/4
2017/06/24
*建安十三年の世界
曹操は漢丞相であり臣下であった。
孫権は、中央政権の混乱時期に、江南に勢力を確立したが、形式的には漢朝臣下であった。
劉備は、一時、漢高官となり、皇帝親族、皇叔と厚遇されたが、反曹陰謀に巻き込まれて亡命したので、重罪人であった。
建安十三年、丞相曹操は、荊州劉表の平定行に出た。劉表は漢の牧であったが、中央の混乱に乗じて自立し、曹操への服従を拒否したので、征討が命じられたが八月に卒した。
曹操率いる官軍、曹軍は、劉表の死に動揺した荊州を難なく支配下に収め民政を安定させ、引き続き劉備の追跡・討伐に移った。
劉備軍は、荊州が曹操の麾下に入ったために、配下将兵とともに逃亡したが、根拠地の無い流軍だったのである。この(仮称)劉軍は、兵力をとっても、孫権麾下の有力武将周瑜、魯粛、黄蓋らの部隊と比べて、弱体であった。とても、荊州軍を加えた曹軍に対向できるものでは無かった。
と言うことで、劉軍が曹軍に抵抗したという魏書記事を信じるのは難しいかもしれない。
孫権は、呉の支配者であり、軍は孫軍とでも言うのだろうか。
赤壁の戦いは、一般には曹軍と孫軍の戦闘と解され、劉軍は孫軍に与力したと思われているように思う。
現に、蜀書は劉軍の軍功を、呉書は孫軍の軍功を誇る記録をそれぞれ残し、それ自体は寛大にも温存されている
*曹軍不利
魏書を見る限り、曹軍は、劉備をつかまえ損ねた上に自軍に疫病が蔓延したので追悼を断念し、荊州制覇を嘉としてて、軍を帰したとしている。
筑摩書房「正史三国志」の「敗れた」は軽率な誤訳である。原文は「不利」と書いていて、これは刀剣が切れないという意味であり、征伐の不首尾を言うだけで、負けたとは書いていない。
つまり、魏書では、赤壁の敗戦など無かったのである。甚だしい敗戦の時に避けられない有力武将の多数の戦死者は出ていないのを見ても、大敗はしていないらしい。
未完
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