倭人伝「長大」論 総決算 3 補足1
2017/08/12
以下の古田氏著書引用は適法と信ずる。
古田武彦古代史コレクション 5 ミネルヴァ書房 ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学
--引用開始--
卑弥呼の年齢
最初にのどやかな話題がある。 ――これが倭人伝の記述の真実性(リアリティー)に光をあてる、一つの新たな照明となった。
一体、倭人伝に登場する卑弥呼は、いくつくらいの年齢か。各人各様のイメージがあろう。が、案外“老婆”めいた印象をもっている人々も多いのではなかろうか。わたしもそうだった(古田著『邪馬一国への道標』講談社刊、九五ぺージ)。
けれども、ふとしたことから謎は解けた。景初二(二三八)年直前の即位時期には三十五歳前後。だから十年後の正始年間(二四〇~四八)に死んだとすれば、四十五歳前後で永遠の眠りについたこととなろう。その謎を解くカギは、
名づけて卑弥呼と曰(い)う。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年已に長大にして夫壻無し。
と書かれた「年已に長大」。『三国志』全体について、この用語例を探究することだった。明証は次の文である。
丕(ひ 曹丕)の、業を継ぐに逮(およ)ぶや、年已に長大。(呉志七・諸葛瑾伝)、
「丕」とは、曹操の子、曹丕だ。魏の第一代の天子、文帝である。その文帝紀(魏志二)によると、彼の即位は延康元(二二〇)年、三十四歳(黄初七〈二二六〉年に四十歳で死)。
「業を継ぐ」とは、漢から禅譲をうけて、魏を創建した、延康元年の即位時点を指した言葉だ。したがってこの「年已に長大」は、三十四歳頃を指して用いられている(五世紀の裴松之も、『三国志』の孫奮伝〈呉志十四 裴注 江表伝引用〉の「三十・四十」に対応させて、この「已に長大」の語を用いている)。
呉志十四 裴注 江表伝引用
江表傳曰:豫章吏十人乞代俊死,皓不聽。奮以此見疑,本在章安,徙還呉城禁錮,使男女不得通婚,
或年三十四十不得嫁娶。奮上表乞自比禽獸,使男女自相配偶。皓大怒,遣察戰齎藥賜奮,奮不受藥,叩頭千下,曰:「老臣自將兒子治生求治,無豫國事,乞丐餘年。」皓不聽,父子皆飲藥死。臣松之案:建衡二年至奮之死,孫皓即位,尚猶未?。若奮未被疑之前,兒女年二十左右,至奮死時,不得年三十四十也。若先已長大,自失時未婚娶,則不由皓之禁錮矣。此雖欲增皓之惡,然非實理。
--引用続く--
未完
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