倭人伝「長大」論 総決算 4 資料編 1
2017/08/23
ここまで提示し「長大」論が、個人的な思いつきとみられると不本意なので、参照した資料を公開する。
例によって、中国哲学書電子化計劃のお世話になった検索結果に基づいている。
史書本文以外の注釈部もあるが、倭人伝編纂時点で知られていた、ないしは、通用していたと思われる「長大」の用例を提示する。
全体の議論の流れを理解頂いたうえで、異論のある方は、私見を示して勝ち誇るのではなく、議論の対象となる根拠を提示して頂きたい。
一.漢書 王莽伝 上 維基文庫
初,莽欲擅權,白太后:「前哀帝立,背恩義,自貴外家丁、傅,撓亂國家,幾危社稷。今帝以幼年復奉大宗,為成帝後,宜明一統之義,以戒前事,為後代法。」於是遣甄豐奉璽綬,即拜帝母衛姬為中山孝王后,賜帝舅衛寶、寶弟玄爵關內侯,皆留中山,不得至京師。莽子宇,非莽隔絕衛氏,恐帝長大後見怨。
(私訳)王莽は、幼帝(平帝)の後見役として政務の実権を握っていたが、平帝の母親衛姫を中山王に縁づけ、あわせて、平帝の舅衛寶とその弟玄に關內侯の爵位を与えた上で、中山に常駐させ、長安に来させなかった。王莽の長男王宇は、皇帝が成人になったときは、このように肉親と隔離されたことを恨みに思うのではないかと怖れた。
二.漢書 王莽伝 中 維基文庫
敕阿乳母不得與語,常在四壁中,至於長大,不能名六畜。後莽以女孫宇子妻之。
(私訳)王莽は、自殺させた長男王宇の娘、つまり、自身の孫娘宇子が孤児となった後、乳母に指示して、ことばを教えさせず、外の見えない部屋に閉じ込めて育てたので、娘は成人になっても、世間知らずで、六畜、つまり、馬・牛・羊・犬・豕(いのこ)・鶏のようなありふれた家畜類の名前を知らなかったという。王莽は、このようにして育てた孫娘を、廃帝襦子嬰の妻とした。
三.三国志 魏書二十三 杜襲伝:筑摩書房正史三国志による
先賢行状曰: (中略) 根舉孝廉,除郎中。時和熹鄧后臨朝,外戚橫恣,安帝長大,猶未歸政。根乃與同時郎上書直諫,鄧后怒,收根等伏誅。誅者皆絹囊盛,
先賢行状にいう。吐根は孝廉に推挙され、郎中に除された。当時、後漢第六代安帝が十三歳で即位した治世であったが、皇太后が朝廷を仕切ったので、外戚であるその弟車騎将軍鄧隲が政治を恣にし、安帝が成人になっても、政治の実権を返さなかった。
吐根は、同期郎中と共に上奏したが、皇太后の怒りを買い、全員、絹袋に入れて棍棒で殴り殺す刑を被った。
*執行人が手加減したのか、吐根は命を取り留めて逃亡し、(十五年後の)鄧后の死後、親政を開始した安帝の側近に復活した。話の「落ち」として、安帝は親政したものの失政が多く、暗君の名を残した、つまり、皇太后臨朝、外戚跋扈時代の方が、よほどよかったとの皮肉な評価が残っている。
*杜襲伝には、太祖、つまり、曹操が、建安年間、つまり、後漢末期に杜襲を見出して、県長、つまり、下っ端の地方役人に取り立てたと記されている。曹操は、自政権の構築のために、多数の在野の人材を発掘したから、杜襲が格別の人材だったという趣旨ではない。
それ以後、曹操政権のいわば裾野に発して次第に頭角を現し、文帝曹丕の時代には、関内侯に取り立てられた経緯を述べたものである。
続く
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