倭人伝「長大」論 総決算 4 資料編 2
2017/08/23
裴注は「先賢行状」なる史料を引用して、杜襲が単なる地方人ではなく、後漢時代の高官吐根の孫であることを強調する記事を書き足したものである。ここに引用された「先賢行状」は、裴注において、漢代から魏代にいたる期間の優れた人物の評伝をまとめた史料として利用されたが以後散逸した。編纂時期、編纂者等不明である。
以上の背景から、用例として利用するには、史料批判が必要である。
*吐根伝点検
と言うことで、中国哲学書電子化計劃のお世話になって、吐根について検索すると、後漢時代に編纂されたとされる、つまり同時代史である「東觀漢記」の吐根伝に同様の記事がある。
また、後漢書は、吐根の上書諫言、それも直諫とそれに伴う処刑などについて言及しているので、この記事自体は、後漢時代の著名な事件を適確に記録したものと評価できる。
また、上の引用で、諫言の趣旨もほぼ同様とされているから、「年長」(すでに成人である)と「年長大」(成人となった)の違い程度で、似た表現がされていたようである。
ただし、この上書が、いつ行われたか記録されていないので、「年長」が何歳を指すのか推測にとどまるのである。太后が亡くなったのは、安帝二十八歳の時点とみられるから、上限はその辺りとしても、吐根が辛抱しきれなくなって上書したのは、安帝二十歳以降ではないかと見るのであるが、根拠は見当たらない。
「先賢行状」では、吐根は十五年間の逃亡生活を送ったと言うが、それでは、安帝十三歳の年、つまり、即位の年に上書したことになり、これは辻褄が合わない。当時、皇帝が幼少の間は、母親たる皇太后が執政するのは当然であり、また、皇太后自身は臨朝できないから、兄弟などの近親者、つまり外戚を代行者に起用するのも当然であった。
と言うことで、いくら、反外戚政権勢力たる士大夫層が、政権中枢から排除される事態に不満であろうと、誰の目にも皇帝が成人したと認められるまで、同志を募って大政奉還を上申できたとは思えないのである。
また、個人の意見は上申できないから、太后称制を非とする天意が示されたと主張する必要がある。それらしい兆候を探ると、元初四年春二月、日食が起きた際に、これは、太后が皇帝の親政を許さないので、天の怒りが示されたのである、と上書したと考えることにする。もっとも、当時、日食は予測できたから、天意が示されたとする論拠は弱いが仕方ない。それとも、直諫は、天意を示す必要が無かったのだろうか。
裴注に、「東觀漢記」や「後漢書」でなく、「先賢行状」が引用されているのは、当時、これら後漢史書は、引用可能な史料として存在していなかったからであろうか。編纂中かも知れない笵曄「後漢書」はともかく、「東觀漢記」は、新参の笵曄「後漢書」に取って代わられるまでは、史記、漢書とともに、「三史」として尊重されたとされているから、引用されていないのは、大変意外である。
或いは、「東觀漢記」記事内容は、後漢朝の体裁が保たれていた桓帝、霊帝の治世までであって、「三国志」と重複する、後漢政府機関が崩壊した後漢末期の混乱期と曹操が後漢を再興した建安年間は、含まれていないので、引用されなかったのだろうか。
続く
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