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2017年8月

2017年8月26日 (土)

倭人伝の散歩道 卑弥呼の「墓」を巡る思索 2

                      2017/08/26
  卑弥呼の墓に間に合わなくても、いずれは墳墓時代が来るので、どのようにして、大事業が始まったか、あらましの流れを考えてみる。記事が重複している部分は、ご了解頂きたい。

 大規模墳墓の造営は、当時の(倭國にとって)超絶技術であり、測量技術、建設技術などの大幅な革新を行うためには、中国からの技術導入が不可欠であったと推定される。いや、この事業は、紙漉き、鍛冶屋などの職人まで揃わないとなり立たない。

 技術導入と言っても基礎となる算数や幾何を学ぶには、文字学習が不可欠である。教科書類は、すべて漢文であるから漢文読解が必須であるし、指導者との会話も必須である。基礎知識習得すら一日のことではない。また、学習には、潤沢な紙墨の供与が必須ではないかと思われるのである。

 続いて、各種測量器具や製材・大工道具などのツールの製作が必要であり、当然ながら、知識を習得した人間が、さらに実習でツールを使いこなす技術を習得する必要がある。集中的な教育・訓練のために、「学校」を設立して、各地から招集した多数の学生を教育・訓練したとも見られるが、ここだけにとどまらず、当記事は、推測が大半である。

 ちなみに、現代の考証で造成工事の作業量の膨大さが推定されているが、膨大な時間のかかる事業に農民を動員すれば、日々の農作業は、留守家族の負担となる。各国為政者としては、大規模な福祉政策が必要となる。最初は、それまでなかった負担を一気に押しつけられて、吸収に努めたであろうが、結局、負担は下層まで及ぶのであろう。そして、この暴政は、悪化しつつ延々と続くのである。

 技術導入に戻ると、土木・建築技術の導入には、指導者の大挙到来が必要である。公孫氏が魏朝との接触を遮っていたので、技術者群の到来は、景初遣使以降であろう。一説で倭國使同伴の生口は留学生だという。と言うことで、先に概説したような技術導入は、早く見ても、三世紀半ば以降の開始であろう。
 司馬懿が、公孫氏討伐の際に遼東郡関係者を皆殺しにする政策を採ったので、その手を逃れた者達が、帯方郡を越えて倭國に亡命した可能性はある。帯方郡は、幽州刺史に接収されたが、郡での公孫氏関係者の殺戮は聞かないので、亡命者は見逃してもらえた可能性が高いのである。いや、これは、単なる個人的な白日夢である。

 後年、大規模墳墓が続々と各地で造成されたが、それには、複数の技術者チームが必要である。先に説いたように、技術者養成は一日で成らず、文字/語学教育に始まり数十年に及ぶ人材育成が必要と思われる。かくして、造営工事の際に、自力で現場人員を指導監督のできる技術者チームを育成し、各チームは、墳墓造成の実務を歴て、下見地に技術移管した後、おそらく十年程度で移動したと見る。造成は、ぼちぼちとしか進まないのであるが、広範囲に波及したのは四世紀後半と推測する。この意見に不満であれば、どのような仕掛けで、地図画面に次々点灯するように、瞬くほどの短期間に技術移管したか、お知恵を拝借したいものである。

 技術者集団が、十年単位の墳墓築造巡業が一巡した後の任務は、古代街道敷設と思う。各地の地図、戸籍を把握していたから、各地で道路工事が進んだのであろう。

 これに一世紀を費やした頃には、各国に国分寺、国分尼寺建設があり、古代国家の骨格、筋肉、血管、神経網を、始めて構築するための基礎となる大規模工事は続いたのである。
 仏教伝道には、多数の識字写本工が紙筆硯を駆使した写本工房で大量の写経が必要であり、一方、これによって、全国要所に識字者を配置し、戸籍簿を整えることもできたのである。

以上

倭人伝の散歩道 卑弥呼の「墓」を巡る思索 1

                      2017/08/26
 倭人伝では、「卑彌呼以死大作冢」である。卑彌呼が亡くなったので墓を作り埋葬したと読める。「太平御覧」には「女王死大作塚」とあり、これが順当だろう。

 諸兄には大規模墳墓の先入観が頑としてあるようだが、 東夷伝で「冢」は「封土」、「土まんじゅう」であり、箸墓などの壮大な墳墓とは別ものと思う。知る限りでは、小ぶりの「冢」は古田武彦氏の所説である。

  東夷伝で、韓倭に大規模墳墓の例がなく、従って墳墓技術(者)は存在しなかったであろう。墳墓技術者は渡来したのかも知れないが、膨大な実務は、大量の現地技術者を教育訓練養成して、組織的に行わなければ不可能である。

 端緒として、職人と言おうが、現代風に専門技術者と呼ぼうが、大規模な工事に必要な中核の働き手は、一人前になるまで養成するのに、五年、十年で収まらない訓練期間を必要とするが、その間は、何も糧が得られない。

 女王は、寿陵の計画もないのに、多数の技術者を長年養成し、資材備蓄、用地造成など、用意周到に画策したろうか。現代風には、国の未来を見据えた偉大な先行投資に見えるかも知れないが、それは、時代錯誤の白日夢であろう。

 巨大計画の開始に当たっては、未曾有の事業の実施のための資材確保、土地造成に始まる造成事業の全体計画をまとめ、次いで、事業分担を各国に通達指示することになる。

 例えば、各地から工事従事者を動員すると、日帰りでない限り宿舎の確保は必要であるし、なにより、日程進度管理を含めた緻密な指導が必要であるが、無文書指導では、行き違いがあれば、大工事は、随所で混乱するのである。

 と言うことで、諸事考えて、女王死後の大規模墳墓造成着手は不可能である。倭人伝には、各国の準備・実行が記録されていないから、そう考えて不思議はないのである。実際は、不意打ちで膨大な労役、資材の負担を要求され、各国不服で乱が起き、到底実施できなかったのか。

 始皇帝陵を始め、大規模墓陵は、皇帝就位直後に造成開始した。巨大な始皇帝陵は、二世皇帝も延々と動員を続けたが、潤沢な国家事業は、関係権益を維持するため絶対放棄できないという、保守主義が働いたようである。いや、これは余談である。

 かくして、卑弥呼は、歴代君主同様に「封土」に眠ったのである。女王自身も、子供時代から仕えてきたご先祖さまのそばに休むことができ、子や孫の世代の巫女に仕えられると信じて満足であったろうと思うのである。

以上

今日の躓き石 NHKに潜む「セットアッバ」の呪い

                   2017/08/26
 今回の題材は、NHK BSのMLB中継である。
 言葉遣いに関して素人であるコメンテーターの失言ならともかく、言葉のプロの中のプロであるNHKアナウンサーの失言なので、耳にしてしまった以上、こうして指摘せざるを得ないのである。

 カタカナ語の中で、おそらく日本のスポーツジャーナリストが言い出したらしい「セットアッパ」というカタカナ語は、一旦汚染が広がってしまったので、なくそうとしてもなくならないようである。

 現に、天下のNHKアナウンサーが、ポロリと「セットアッパ」と口にして、聞く方は、ずっこけるのである。試合も終盤にかかれば、毎試合のごとく乗り出してくる八回担当の救援投手を何かの言葉で呼ばないと行けないのは想定されているから、頑張って、つまらない、汚い、無教養なカタカナ語を世に広めないよう、別の言葉を用意するのが、NHKアナのプロとしての至上の使命と思うのだが、そう思わない人もいるようだと、もったいない事態を歎くのである。

 何とか、ご自身の職業的な使命に覚醒して、公共の電波に乗せて子供達に伝えたくない、つまらない「戯言」(ざれごと)を言わないことを望むのである。

 百日汚い言葉を使わない日が続いて、世の中から消えたように思われても、一回誰かが言ってしまえば、一度世に広がった悪霊は、世の人々の記憶の奥の闇から、復活するのである。一度口にしてなじんだ言葉を、二度と口にしないというのには、大変な努力が必要と思うが、是非是非頑張って頂きたいのである。

以上

2017年8月24日 (木)

今日の躓き石 毎日新聞「リベンジをかけて」「挑」むとの妄言

                            2017/08/24
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊第13版スポーツ面、レスリング世界選手権の記事である。

 折角「再挑戦」と丁寧に見出しを打っているのに、本文に入って、昨年の五輪に「左膝のケガ」で予選に出場できなかった選手が世界選手権に出たという、まことに結構な記事を、「再挑戦」と言わずに「リベンジをかけて」と、石に躓くと言うより、穴に落ちている書き方をしているのには、何とも、情けない思いをした。これでは、選手の偉業が帳消しである。

 ここで、選手は別に、誰かにケガをさせられたわけではないから、殺してやりたい仕返しの相手はいない。また、五輪は、予選にすら出られなかったのだから、世界選手権の予選に出たこと自体が、世に言う再挑戦(リベンジ)であり、その先は、何もこだわりのないスポーツの世界と思いたい。五輪でメダル獲得のチャンスがなかった選手が、何に「再挑戦」しようとしているのか、理解しがたい。四度目の世界選手権と言うが、これまでの戦績に触れていないから、「ちんぷんかんぷん」、つまり、記者の意図も、文の意味も不明である。

 つまり、ここには、「リベンジ」など、口にするのも恥ずかしい「汚い言葉」が出て来る余地はないのである。記事は、選手の発言の引用ではないと思うし、後続の文を読んでも、当の選手がそんなつまらないことを言うとは思えない。要は、担当記者が、未熟で、ちゃんとした文章の書き方を知らないだけではないか。記者は、勢い込んで書いているようだが、「リベンジをかけて」とは、どんな意味なのか、一般人には、全く理解できないと思うのである。

 と言って、当方は「リベンジ」を廃語にする気概でいるので、厳しく言わして頂く。
 天下の毎日新聞、つまり、全国民のための良識の護り人である毎日新聞の記者は、血なまぐさい復讐を意味する「リベンジ」は、自ら使わない、取材対象の誰かの発言であれば、引用しないで、発言者をたしなめる、就中、校閲、校正部門は、このカタカナ四文字を世に出さない覚悟が必要と思うのである。

 それにしても、担当記者は、準々で敗退した選手が3位決定戦で戦うのを、またもや「リベンジをかけて」と書き立てるのだろうか。書かれている選手の心境を見ると、そんなつまらない復讐譚から遠い、敢然たるフェアプレー精神の持ち主のように思うのだが、毎日新聞は、また、その名に泥を塗るのだろうか。勘弁して欲しいものである。

以上

2017年8月23日 (水)

倭人伝「長大」論 総決算 4 資料編 4

                    2017/08/23
 以下二件は、若干年代にズレがあるかも知れないが、参考用例としたい。
七.晉書愍懷太子伝
 愍懷太子遹,字熙祖,惠帝長子也。謝才人所生,少而聰慧,惠帝即位,立為皇太子,年轉長大而不好學,喜與左右嬉戲,不能尊敬保傅,敬狎賓友,賈后素忌太子有佳譽

(私訳)愍懷太子遹は、恵帝の長子、唯一の男子であった。生母は謝才人であった。子供の時は、賢いと評判であり、父恵帝の即位後、皇太子に立てられたが、賈皇后と不和であり、成人となってから学問を好まず、取り巻きと悪ふざけばかりで、尊敬を失っていった。

八.通典 刑法六 決斷
 後漢鍾離意為會稽郡北部督郵。有烏程男子孫常,與弟並分居,各得田十頃。並死,歲饑,常稍稍以米粟給並妻子,輒追計直作券,沒取其田。
 並兒長大,訟常。掾史議,皆曰:「孫並兒遭餓,賴常升合,長大成人,而更爭訟,非順遜也。」
 意獨曰:「常身為父遺,當撫孤弱,是人道正義;而稍以升合,券取其田,懷挾姦路,貪利忘義。並妻子雖以田與常,困迫之至,非私家也。請奪常田,畀並妻子。」眾議為允。

(私訳)後漢の鐘離意が会稽郡北部の督郵であった時、烏程県に孫常と言う名の(成人)男子がいて、弟の並とともに、それぞれ十頃の耕作地を得て分居していた。(同居はしていなかった)
 孫並が死んだ後、不作の年に、孫常は、弟孫並の妻子に多少の米穀類を与えたが、その後、直作券(地券)を操作して、孫並の遺した耕作地を奪ってしまった。
 並の子は年長ずるに及んで孫常を告訴した。掾史の議に皆は言った。「孫並の子は、餓えた時に伯父孫常に穀物の世話になったのに、年長じて成人になって、伯父を訴訟するのは、不遜ではないか」

 意督郵は、一人反論した。「孫常が、弟の残した妻子(寡婦と遺児)を飢えから救ったのは、人の道、正義にしたがったものであるが、弟の残した土地を地券を操作して我が物にしたのは許しがたい。土地を妻子の元に返させるものである。」衆議はそのようになった。

*ここでは、読者が「長大」の語彙を読み取り損ねないように、世人の発言として、「長大成人」と同意語を重ねている。どうやら、「長大」という言葉は、日常の言葉としては、次第に廃れつつあったようである。
 当方は、通典記事には、編纂時点の時代観、歴史観が反映しているようなので、必ずしも、原史料の言葉遣いが、忠実に収録されているとは見ないのである。

以上

倭人伝「長大」論 総決算 4 資料編 3

                         2017/08/23
四.三国志 蜀書十一 張裔伝:筑摩書房正史三国志による
 少與犍為楊恭友善,恭早死,遺孤未數歲,裔迎留,與分屋而居,事恭母如母。
 恭之子息長大,為之娶婦,買田宅產業,使立門戶。

  張裔は、友人楊恭が、数歳にもならない幼子を残して早死にした際に、遺族を別に設けた家に迎え、楊恭の母に対して、自分の母に対するように事えた。恭の遺児が長じたとき、彼のために妻を迎え、耕地と家業を整えて身の立つようにした。その際の年齢は確かではないが、成人になってまもなく、つまり、数えで十八歳前後と思われる。

五.三国志 呉書七 諸葛瑾伝:筑摩書房正史三国志による
 逮丕繼業,年已長大,承操之後,以恩情加之,用能感義。今叡幼弱,隨人東西,此曹等輩,必當因此弄巧行態,阿黨比周,各助所附。

 ここは、諸葛瑾が、新魏帝曹叡を前帝曹丕と比較して、「曹丕は、曹操を継いで即位したとき既に長大、つまり、立派な成人であり、(継嗣時代に学んだ)曹操の統御を引き継ぎつつ恩義を施して、国を保ったが、曹叡は幼弱で補佐役に万事を頼っている」と言ったということである。

*曹丕は、東呉創業者孫権とほぼ同年であった。
 諸葛瑾が見るところ、早世した曹丕の後継者曹叡は、君主孫権と比較して幼く、頼りなく見えたので「幼弱」とされたのであろうが、実際は、青年だった。
 つまり、当用例は、かなりいい加減な言い草を採録したものであり、「幼帝」、実は青年である曹叡と比較して年長の意味のようである。曹丕は、一人前以上の三十四歳の青年皇帝であった。と言うように、諸葛瑾と孫権の真意は、読み取りがたい。
 同時代用例で「三十四歳」は希(ほぼ絶無)である。

六.三国志 東夷伝 高句麗伝:筑摩書房正史三国志による
 高句麗在遼東之東千里,(中略) 其俗作婚姻,言語已定,女家作小屋於大屋後,名壻屋,壻暮至女家戶外,自名跪拜,乞得就女宿,如是者再三,女父母乃聽使就小屋中宿,傍頓錢帛,至生子已長大,乃將婦歸家。
 高句麗の婚姻事情である。約束が固まると、女性の家では婿屋と呼ばれる離れを建て、婿になる男性がやってきて、女性の親の許しを得て同棲する。子供が生まれ、大きく育つと、婿は妻を連れて自家に帰る。

*古代の高句麗は、中国本土と風土も民俗も随分異なり、子供が何歳になったときに「長大」として、婿が自家に帰るか不明だが、このような同棲期間は、十五年を越えるとは思えない。一方、この同棲期間に蓄財するから短期間とも言えまい。
 東夷傳記事であるから、倭人伝の「長大」と共通した語義を踏まえていると思うものである。

続く

倭人伝「長大」論 総決算 4 資料編 2

                       2017/08/23

*当記事は、魏書本文ではなく裴松之が注釈したときに追加した、いわゆる裴注である。

 裴注は「先賢行状」なる史料を引用して、杜襲が単なる地方人ではなく、後漢時代の高官吐根の孫であることを強調する記事を書き足したものである。
 ここに引用された「先賢行状」は、裴注において、漢代から魏代にいたる期間の優れた人物の評伝をまとめた史料として利用されたが以後散逸した。編纂時期、編纂者等不明である。

 以上の背景から、用例として利用するには、史料批判が必要である。

*吐根伝点検
 と言うことで、中国哲学書電子化計劃のお世話になって、吐根について検索すると、後漢時代に編纂されたとされる、つまり同時代史である「東觀漢記」の吐根伝に同様の記事がある。

+吐根伝
 和熹鄧后臨朝,權在外戚。杜根以安帝年長,宜親政事,乃與同時郎上書直諫。

 また、後漢書は、吐根の上書諫言、それも直諫とそれに伴う処刑などについて言及しているので、この記事自体は、後漢時代の著名な事件を適確に記録したものと評価できる。
 また、上の引用で、諫言の趣旨もほぼ同様とされているから、「年長」(すでに成人である)と「年長大」(成人となった)の違い程度で、似た表現がされていたようである。

 ただし、この上書が、いつ行われたか記録されていないので、「年長」が何歳を指すのか推測にとどまるのである。太后が亡くなったのは、安帝二十八歳の時点とみられるから、上限はその辺りとしても、吐根が辛抱しきれなくなって上書したのは、安帝二十歳以降ではないかと見るのであるが、根拠は見当たらない。
 先賢行状では、吐根は十五年間の逃亡生活を送ったと言うが、それでは、安帝十三歳の年、つまり、即位の年に上書したことになり、これは辻褄が合わない。当時、皇帝が幼少の間は、母親たる皇太后が執政するのは当然であり、また、皇太后自身は臨朝できないから、兄弟などの近親者、つまり外戚を代行者に起用するのも当然であった。

 と言うことで、いくら、反外戚政権勢力たる士大夫層が、政権中枢から排除される事態に不満であろうと、誰の目にも皇帝が成人したと認められるまで、同志を募って大政奉還を上申できたとは思えないのである。

 また、個人の意見は上申できないから、太后称制を非とする天意が示されたと主張する必要がある。それらしい兆候を探ると、元初四年春二月、日食が起きたとあるから、その際に、これは、太后が皇帝の親政を許さないので、天の怒りが示されたのである、と上書したと考えることにする。もっとも、当時、日食は予測できたから、天意が示されたとする論拠は弱いが仕方ない。それとも、直諫は、天意を示す必要が無かったのだろうか。

 裴注に、東觀漢記や後漢書でなく、先賢行状が引用されているのは、当時、これら後漢史書は、引用可能な史料として存在していなかったからであろうか。編纂中かも知れない笵曄後漢書はともかく、東觀漢記は、新参の笵曄後漢書に取って代わられるまでは、史記、漢書とともに、「三史」として尊重されたとされているから、引用されていないのは、大変意外である。

 或いは、東觀漢記記事内容は、後漢朝の体裁が保たれていた桓帝、霊帝の治世までであって、三国志と重複する政府機関が崩壊した後漢末期の混乱期と曹操が後漢を再興した建安年間は、含まれていないので、引用されなかったのだろうか。

続く

 

 

倭人伝「長大」論 総決算 4 資料編 1

                       2017/08/23
 ここまで提示し「長大」論が、個人的な思いつきとみられると不本意なので、参照した資料を公開する。
 例によって、中国哲学書電子化計劃のお世話になった検索結果に基づいている。
 史書本文以外の注釈部もあるが、倭人伝編纂時点で知られていた、ないしは、通用していたと思われる「長大」の用例を提示する。
 全体の議論の流れを理解頂いたうえで、異論のある方は、私見を示して勝ち誇るのではなく、議論の対象となる根拠を提示して頂きたい。

一.漢書 王莽伝 上 維基文庫   
 初,莽欲擅權,白太后:「前哀帝立,背恩義,自貴外家丁、傅,撓亂國家,幾危社稷。今帝以幼年復奉大宗,為成帝後,宜明一統之義,以戒前事,為後代法。」於是遣甄豐奉璽綬,即拜帝母衛姬為中山孝王后,賜帝舅衛寶、寶弟玄爵關內侯,皆留中山,不得至京師。莽子宇,非莽隔絕衛氏,恐帝長大後見怨。

(私訳)王莽は、幼帝(平帝)の後見役として政務の実権を握っていたが、平帝の母親衛姫を中山王に縁づけ、あわせて、平帝の舅衛寶とその弟玄に關內侯の爵位を与えた上で、中山に常駐させ、長安に来させなかった。王莽の長男王宇は、皇帝が成人になったときは、このように肉親と隔離されたことを恨みに思うのではないかと怖れた。

二.漢書 王莽伝 中 維基文庫   
 敕阿乳母不得與語,常在四壁中,至於長大,不能名六畜。後莽以女孫宇子妻之。

(私訳)王莽は、自殺させた長男王宇の娘、つまり、自身の孫娘宇子が孤児となった後、乳母に指示して、ことばを教えさせず、外の見えない部屋に閉じ込めて育てたので、娘は成人になっても、世間知らずで、六畜、つまり、馬・牛・羊・犬・豕(いのこ)・鶏のようなありふれた家畜類の名前を知らなかったという。王莽は、このようにして育てた孫娘を、廃帝襦子嬰の妻とした。

三.三国志 魏書二十三 杜襲伝:筑摩書房正史三国志による
 先賢行状曰: (中略) 根舉孝廉,除郎中。時和熹鄧后臨朝,外戚橫恣,安帝長大,猶未歸政。根乃與同時郎上書直諫,鄧后怒,收根等伏誅。誅者皆絹囊盛,

 先賢行状にいう。吐根は孝廉に推挙され、郎中に除された。当時、後漢第六代安帝が十三歳で即位した治世であったが、皇太后が朝廷を仕切ったので、外戚であるその弟車騎将軍鄧隲が政治を恣にし、安帝が成人になっても、政治の実権を返さなかった。

 吐根は、同期郎中と共に上奏したが、皇太后の怒りを買い、全員、絹袋に入れて棍棒で殴り殺す刑を被った。
*執行人が手加減したのか、吐根は命を取り留めて逃亡し、(十五年後の)鄧后の死後、親政を開始した安帝の側近に復活した。話の「落ち」として、安帝は親政したものの失政が多く、暗君の名を残した、つまり、皇太后臨朝、外戚跋扈時代の方が、よほどよかったとの皮肉な評価が残っている。
*杜襲伝には、太祖、つまり、曹操が、建安年間、つまり、後漢末期に杜襲を見出して、県長、つまり、下っ端の地方役人に取り立てたと記されている。曹操は、自政権の構築のために、多数の在野の人材を発掘したから、杜襲が格別の人材だったという趣旨ではない。
 それ以後、曹操政権のいわば裾野に発して次第に頭角を現し、文帝曹丕の時代には、関内侯に取り立てられた経緯を述べたものである。
続く

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2017年8月21日 (月)

今日の躓き石 毎日新聞囲碁記事に「リベンジ」汚染

                        2017/08/21
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊第13版社会面記事であるが、担当記者は、囲碁記事の泰斗であり、当ブログ筆者か深く尊敬している方である。

 それにしても、十七歳一か月の新アマ本因坊は、さすがに世間知らずだから、途方もない失言をしても無理が無いと思うのだが、それがそのまま談話として紙面に出ると、気の毒としか言いようがない。ちゃんとたしなめて、紙面に出さない配慮が必要であった。これでは、悪い言葉がはびこりそうである。

 大体が、今回の「リベンジ」は、誤用の感じがする。「本来」の血なまぐさい復讐の意味でなければ、最近若い人に流行っている、再挑戦の意味でもないようである。と言って、本来の意味で使えとは言えないのだが。

 大体、(おそらく)力が及ばなかった前年、前々年の敗退をかてにして「勝って当然なのに、勝てなかった。けしからん、仕返ししてぶっ殺してやる」とやみくもに闘志を掻き立てるのは、体育会系でもたしなめられる、不穏当な発言であり、まさしく世界にはびこる報復合戦を思わせるものである。この際、考え方と言い方を改めて欲しいものである。

 それとも、囲碁界は、やられたらやり返す世界なのだろうか。

 以上、世界から、少しでも、復讐の血なまぐさい言葉を減らしたいと考えているものである。当人達は、不運にして、言葉をただして貰う機会に恵まれなかっただけたと思うのである。だから、名指ししないのであるが、それでは、当人たちの目にとまらない可能性もある。仕方ないところか。

以上

2017年8月17日 (木)

今日の躓き石 毎日新聞高校野球報道の痴態 続き

                           2017/08/17
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊第13版スポーツ面の高校野球報道である。

 いや、先日批判したばかりなのだが、実は、以前からそうなのかも知れない。これまでも、こうした写真が載っていたのに、当方が気づかなかっただけなのかも知れない。
 紙面散策の通り道でなければ、路面に躓き石が出ていても、躓かないのである。とにかく、こうして躓いたら、ちゃんと誠意を持って批判するのである。

 先だっても書いたように、こうした高校野球報道が毎日新聞の会社方針だと言われたら、それ以上何もも言えないのだが、選手が真剣にプレーしている写真が撮れているはずなのに、そうした写真を押しのけて、盗み撮りに似た、とんでもない無様な(他の「決定的瞬間」を捉えた報道写真と比べてそう見える)キャンディードなスナップ写真が、でかでかと掲載されているのを見て、天を仰ぐのである。今回、「痴態」報道は、2件、目にとまった。

 真剣に両チームの選手が試合している最中に、個人の良い格好を自慢しているように見えるのは、叱り付けるべきであって、褒めるべきではないと思うのである。

 それとも、撮影の不手際で、打った瞬間とか、疾走しているときとかを撮り損ねて、この写真しか撮れなかったのだろうか。いや、つまらない冗談はさておき、今日の機材の性能と記録容量からして、それこそ、一試合あたり、一人の撮影者あたり何千枚と撮ることは可能と思うのだが、なぜ、そうした無数とも言える膨大な写真の中から、よりによってと思うのである。

 いずれにしろ、試合の報道から外れた無様な(撮影者のことである)写真が載っている毎日新聞は、買いたくないものだ、と言うものの、定期購読だから、毎日届くから買うしかないのである。この紙面の部分を返品したいのだが、それもできないのである。

 繰り返しになるが、何とか、選手が具合の悪い態度や姿勢を撮った写真を載せないで欲しいのである。何より、変な格好は、子供が真似するのである。

 以上は、一老読者の勝手な意見であるが、一人分の意見として公開する。

以上

2017年8月13日 (日)

今日の躓き石 車内騒音論に対する私見

                        2017/08/13
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊第13版の投書欄に掲げられた読者意見であるが、別に、投書者の意見がどうこう言うものではない。全国紙の紙上に、一つの個人意見として公開され、問いかけへの回答を求められているから、当方も、個人の意見を述べているだけである。

 「公共の場 どこまでが騒音か」と題されているが、騒音という形のないものに、「どこまで」(どこから?)とは無理な問いかけになっているので、多分「どんなものが騒音か」と言う問いかけだとして、個人の意見をお答えする。

 投書で引き合いに出された方が(耐えがたく)「うるさい」と感じたのは、その人の感性の表現であって、「騒音」の音量を計測したものではないのは明らかである。

 と言うことで、なぜ、うるさいと感じたかと言うことになる。推定だが、三人組がも際限なく、笑い合っていたから、不愉快と感じたのだろう。一時的な、つまり、数分程度のうるささで済んでいれば、あえて叱り付けないものである。10分、15分程度も相当なものだが、個人的には、60分超という笑い声の嵐に耐えた経験がある。可能性は、無限なのである。

 また、その笑い方に、公共の場では控えめな声量で、雑談は手短に、と言う分別がないから、苛立って、不愉快になったと思うのである。笑い方でも、自然な笑い声と、ことさら張り上げた笑い方、ときに「バカ笑い」と言われる騒々しい笑い方があるが、時に、大声合戦しているのではないかと思う笑い方を聞くことがある。

 ひどいときは、、肩を並べた二人が対話しているはずなのに、そろって当方の頭の上で、耳のあたりに向かって話していたこともある。話し手の口が当方を向いているときとそっぽを向いているときは、聞こえ方がまるで違うのである。当方を向いて喋っていると感じると、何か話しかけられている、聞かなくてはと注意させられてしまうのである。

 以上のように、ことは音量の問題ではないから、何デシベルまでと言う規準を示すことは出来ない。声を出しているものの無神経さ、不躾さが、腹立ちを掻き立てるのである。

 投書者は、内省的な方のようで、ことは聞く方の感性の問題だと悟られているようだが、一般論として、公共の場は、様々な感性の人たちが集まっているので、感じ方は多様なのである。この時、いらだちを感じて叱り付けた人は、車内の大勢が、「笑い声の暴力」に耐えて、我慢を強いられているのを見て、あえて悪者になって見せたのであり、こんな時、犠牲者達が揃って我慢しては、暴力に屈したことになり、不甲斐ないと思うのである。誰かが、決然と立ち上がらなければならないと思うのである。

 いや、その場にいたわけではないので、個人的な経験(複数)に基づく意見を言い立てて恥ずかしいのだが、どんな社会環境でも、個人の感性を素直に表明するのが、正しい態度であると思う。他人の意見は聞いてみないとわからないことが多いのである。

 そして、最後に大変大事なことを言う。

 もし、この時、誰もうるさいと言わなければ、この三人組は、世の中なんて、甘いもんだ、何人おとながいようと、言いたいことを言ったら勝ちだよ、という思いで、これからも生きていくだろうし、友達にも口コミで自慢して伝えると怖れるのである。

 叱られてどの程度身に染みたかわからない。関西には、叱られたとき「ほっちっち」と言う受け方があるという。あんたの子でなし、まごでなし、(関係ないから)ほっといて、と言う趣旨らしい。

 あるいは、叱られたと思わずに、世の中には、友達と楽しく話しているのに、関係ないところから文句を言う訳のわからない「怖い人」かいるということになるかも知れない。

 世の中には、言われなくてもわかる人、さらっと言われてわかる人、きつく言われてわかる人、いろいろである。そして、言われてもわからない人、言われたらかえってわからなくなる人、さらにいろいろである。

 「そして」以降の人も、多少、「叱られて」自制心が働くようになれば、それまでの野放しよりましだと言うことである。

 それとも、投書者がAIの知性を利用して、声調や話題まで取り入れて人の感じる「うるさい」を数値化するセンサーを開発して、公共の場に設置すれば、「公共の場 どこまでが騒音か」の問い掛けに答えることになるだろうが、そんな解決で良いのだろうか。

 本来、簡単なことなである。
 公共の場、特に、電車車内のように、身動きのしにくい場所では、一段と、雑談の声を潜めるものであり、まして、笑い声は、出すべきでないのである。どこまでが騒音か、などと気取って(開き直って)反論するのは、見当違い、了見違いなのである。

 「騒音」は、聞くものに何も意義ある情報をもたらさない「雑音」という害毒である。「ゼロ騒音」、つまり騒音を「発信」しなければ良いのである。

 投書者の問い掛けに対して、いろいろ受け止め方があると思うので、社会人としての誠意を持って一例を示させて頂いたのであり、投書者の意見がどうこう言うものではないことを、重ねて書き留める。

以上

2017年8月12日 (土)

倭人伝「長大」論 総決算 3 補足2

                             2017/08/12
--引用続き--
 他にも、「後主(劉禅)漸く長大」(蜀志九董允とういん伝)の表記が二十代後半を指して用いられているから、陳寿の用法として、この「長大」の語の使用方法は明確かつ安定している(古田「九州王朝の方法」『東アジアの古代文化』一九七八爽秋号、参照)。

 したがって陳寿が倭人伝で「年已に長大」と書いたとき、当時の『三国志』の読者は、“三十代なかばの女性”として、東方なる女王国の王者のイメージを思い浮かべたこと、それは確実だ。“鬼気せまる、白髪の女妖術者”、そのようなイメージを誰人かあって、もし卑弥呼に対して抱いていたとしたら、それはひっきょう、一片の錯覚、現代の虚像にすぎなかったのである。
--引用終了--

  と言うことで、以下、古田氏の著作を批判するのだが、古田氏の「長大」解釈は、卑彌呼像に対する俗説の過誤を正し、画期的なものであり、氏の倭人伝解釈の白眉をなすものとして、高く評価していることをまず申し述べておく。

 卑弥呼の即位時の年齢を三十台の若さと断じたのは画期的であったが、三国志であっても、呉書部分の関係者の発言引用という事で、三国志の用語を示す適例ではない「曹丕用例」に惑わされたものであり、当時の一般的な用例を適確に参照すれば、十八歳から二十歳の成人年齢だったと判断出来たはずである。もったいない早計である。

 そして、ここに追加提示された江表伝用例は、一段と不適切である。曹丕用例が「長大」の孤立用例のため、独立用例を追加したのだろうが、曹丕用例なる先入観にとらわれて史料批判を怠ったものであり、一種独善である。

 裴松之が評するように、江表伝は、呉書本文でなく陳寿が却下した異伝であり、かつ、時間的な辻褄の合わない「作り話」であり、裴松之が『「三十・四十」に対応させて、この「已に長大」の語を用い』たかどうか不確かと考えられる。

 つまり、長大用例として、全く不適当である。

 ここでは、古田氏が、いわゆる自縄自縛の愚に陥っているのである。
以上 

倭人伝「長大」論 総決算 3 補足1

                             2017/08/12

 以下の古田氏著書引用は適法と信ずる。

古田武彦古代史コレクション 5 ミネルヴァ書房 ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学

--引用開始--
 卑弥呼の年齢
 最初にのどやかな話題がある。 ――これが倭人伝の記述の真実性(リアリティー)に光をあてる、一つの新たな照明となった。
 一体、倭人伝に登場する卑弥呼は、いくつくらいの年齢か。各人各様のイメージがあろう。が、案外“老婆”めいた印象をもっている人々も多いのではなかろうか。わたしもそうだった(古田著『邪馬一国への道標』講談社刊、九五ぺージ)。

 けれども、ふとしたことから謎は解けた。景初二(二三八)年直前の即位時期には三十五歳前後。だから十年後の正始年間(二四〇~四八)に死んだとすれば、四十五歳前後で永遠の眠りについたこととなろう。その謎を解くカギは、

 名づけて卑弥呼と曰(い)う。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年已に長大にして夫壻無し。
と書かれた「年已に長大」。『三国志』全体について、この用語例を探究することだった。明証は次の文である。
  丕(ひ 曹丕)の、業を継ぐに逮(およ)ぶや、年已に長大。(呉志七・諸葛瑾伝)、

 「丕」とは、曹操の子、曹丕だ。魏の第一代の天子、文帝である。その文帝紀(魏志二)によると、彼の即位は延康元(二二〇)年、三十四歳(黄初七〈二二六〉年に四十歳で死)。

 「業を継ぐ」とは、漢から禅譲をうけて、魏を創建した、延康元年の即位時点を指した言葉だ。したがってこの「年已に長大」は、三十四歳頃を指して用いられている(五世紀の裴松之も、『三国志』の孫奮伝〈呉志十四 裴注 江表伝引用〉の「三十・四十」に対応させて、この「已に長大」の語を用いている)。

呉志十四 裴注 江表伝引用
江表傳曰:豫章吏十人乞代俊死,皓不聽。奮以此見疑,本在章安,徙還呉城禁錮,使男女不得通婚,
或年三十四十不得嫁娶。奮上表乞自比禽獸,使男女自相配偶。皓大怒,遣察戰齎藥賜奮,奮不受藥,叩頭千下,曰:「老臣自將兒子治生求治,無豫國事,乞丐餘年。」皓不聽,父子皆飲藥死。臣松之案:建衡二年至奮之死,孫皓即位,尚猶未?。若奮未被疑之前,兒女年二十左右,至奮死時,不得年三十四十也。若先已長大,自失時未婚娶,則不由皓之禁錮矣。此雖欲增皓之惡,然非實理。

--引用続く--


             未完

倭人伝「長大」論 総決算 2 曹丕用例批判 2-2

                             2017/08/12

 つまり、当用例は、東呉皇帝孫権が敵国魏朝皇帝を評するのに、言葉の通常の意味を外れて、それぞれ若年、未熟としたものであり、言葉の本来の意味を知る用例として相応しくないことになる。

 いや、この判断は十分な論証を欠いていて、一読者の憶測に過ぎないかも知れない。

 この用例を除けば、三国志ないしは同時代史料の「長大」用例で、三十代対象のものは無いに等しい。

*余談
 明帝曹叡は、在位十三年、三〇代半ばで早世し、十歳に満たない少帝曹芳が即位したのである。

 言葉の本来の意味で言うと、曹叡は即位時「已に年長大」(二十代になったばかり)、曹芳は即位時「幼弱」となり、孫権の発言は、皇帝を一代ずらせば、正鵠を得ていたことになるが、それでは、諸葛瑾の健在な期間を外れるので、あるいは、呉書編纂時の不手際で、諸葛瑾の継嗣諸葛格への諮問が、誤伝されたのかも知れない。
 いずれにしろ、呉書を記録した孫権政権史官にしたら、痛快な曹魏批判なので残ったのだろう。

 いや、この余談は、一読者の憶測である。

この項終わり

倭人伝「長大」論 総決算 2 曹丕用例批判 2-1

                             2017/08/12

 *当記事は、前項記事とは別に書き綴ったので、重複している点が多いが、編集を省いて両立させるので、ご容赦頂きたい。

 倭人伝における「長大」の解釈については、後記する古田氏の提言が強固な論拠で語られていると解して、支持している諸兄が多いようである。
 もっとも、すでに、「強力な老女王の支配する古代王国」という仮想世界、一大浪漫を構築している論者は、このような主張は無視するしかないと思うのである。

 と言うことで、ここでは、冷静に「曹丕用例」批判を展開するものである。

*三国志 呉書七 諸葛瑾伝
 逮丕繼業,年已長大,承操之後,以恩情加之,用能感義。今叡幼弱,隨人東西,此曹等輩,必當因此弄巧行態,阿黨比周,各助所附。

 文脈を点検すると、この記事は、呉書の記事であり、かつ、地の文ではなく、東呉皇帝孫権が、重臣諸葛瑾(蜀漢宰相諸葛亮の実兄)に対して、曹操、曹丕、曹叡の皇帝三代それぞれの事跡、資質を酷評し、魏朝皇帝曹丕没後の魏国内情勢について意見を求めた発言の引用である。

 発言の趣旨を読み取るとするなら、(孫権の親の世代である「老賊」曹操の後に続いた孫権と同世代の)「曹丕は、曹操を継いで即位したとき既に長大、つまり、立派な成人であり、(継嗣時代に学んだ)曹操の統御を引き継ぎつつ恩義を施して国を保ったが、僅か七年で早世し、曹叡は幼弱で補佐役に万事を頼っていて、国政の混乱を招いている」と言ったということである。

 裴松之評では、ここに示された孫権の魏国皇帝「幼弱」観は過大であるが、後の歴史の流れを見ると、曹叡は親政したが、後の少帝曹芳は、幼弱で皇帝としての統率力を持たず司馬氏の専横を招いたところから、孫権の見解は、深いところで正鵠を射ていたという趣旨のようであり、呉書諸葛瑾伝に採用されたのではないかと見ている。

 史実を確認すると、曹魏初代皇帝曹丕は、東呉創業者孫権とほぼ同年であったが早世したので、後継曹叡は、孫権の見るところ幼く頼りなく見えたのだろう。しかし、曹叡は、皇帝となったとき実年齢で二十歳を過ぎていて、幼弱というのは的外れである。

 振り返ってみると、曹丕の「年長大」も、意図して若年と揶揄していて同様に的外れとみられる。

続く

倭人伝「長大」論 総決算 1 曹丕用例批判 1-2

                             2017/08/12

 当ブログでは、呉書は、孫権政権史官が記録した記事を採用していることを述べた。

 呉書記事の「偏向」の適例として、「赤壁」に先立って、呉陣営で曹操を「老賊」と揶揄しているのが引用されている。呉書で、曹操は「曹公」と適度の敬称で書かれていて、蔑称は発言引用の部分である。

 さて、赤壁の戦いの時点で、曹操は51歳程度で、当時としても老いぼれというほどではないが孫権より一世代上であるから、孫権政権の内輪で「あの老いぼれ」呼ばわりして不思議はない。肝心なのは、揶揄発言が呉書に記載されたことであり、曹丕の長大も、同様に揶揄表現が記載されているのである。

 曹丕は「若造」の分際で皇帝の位に就いたとしているが、孫権より5歳下だったのが影響してか、立派な壮年が若造扱いなのである。

 発言の趣旨としては、曹丕は若造だったが、オヤジの残した補佐役が必死で支えて帝国を保ったのに引き換え、曹叡は、(後漢最後の皇帝、献帝のように乳臭い)幼帝でろくな補佐役もいない、と言う感じで罵ったのを、多少、表現を整理したのではないかと思われるのである。
 時に、孫権皇帝は、男盛りで、文武に優れたあまた高官を率いている、といいたいのであろう。
 そのため、曹丕は実年齢より低く評価されているが、陳寿は、これを呉書の記事として妥当と考え、あえて、魏帝に相応しい形容に修正していないのである。いや、問題は、孫権の「曹丕若造」観なので、字句置き換えでは対応出来ないのである。

 結論として、曹丕用例は、倭人伝編纂時の「年長大」の字義解釈に利用出来ない。

 以上は、「曹丕用例」を卑弥呼の「年長大」を理解する参考にしてはならないと言うものである。

 古田氏は、資料の原文テキストを尊重することを信条としていたから、生前、以上の素人論議を耳にしていたら、一笑に付されただろうが、当方の議論は、それなりの根拠があり、容易に否定できないと信じているのである。

この項完

倭人伝「長大」論 総決算 1 曹丕用例批判 1-1

                             2017/08/12

 事の起こりは、魏志倭人伝で、卑弥呼に対して、長大と言われているのが、どんな年齢を指しているかと言うことである。

 論外で、早々に退場するのが、中高年という理解である。

 これは、原文の「長大」という熟語を、はなから中高年と決め込んでいて、中国語辞典を引いたり、用例を検索したりして、その当否を確認しないで、盛大に論じているのだから、学術的なものでなく、まるで、中学生の早合点競争のようである。

 ちょっと調べるだけで、現代中国語で「長大」というのは、大抵の場合、伝統的な「成年に達する」ことを指していると理解できるのである。

 念のために、魏晋朝あたりの文献を検索するのであるが、古田武彦氏が、三国志の「総選挙」ならぬ「総点検」を行い、呉書諸葛瑾伝に書かれた曹丕人物評(曹丕用例)を提示している。

 曹丕用例は、孫権の発言を引用し、曹丕が皇帝に即位したとき「年長大」であったと評していて、曹丕の実年齢が30代前半であったことから、三国志では「年長大」とは30代前半であることと解したのである。

 実用例を根拠として立てた論説であり、以来、これに直接反論している例は見かけないから、定説化しているものと思われる。

 しかし、後進の素人は、何か、この用例にそぐわないものを感じて、同時代文献を検索したところ、「年長大」とは、成人(となる)、つまり、18歳程度の成人年齢に達することを云う用例を複数見つけたのである。曹丕用例は、あくまで一例なのであるから、採用するかどうか、十分な史料批判が必要なのである。

 そこで、曹丕用例である呉書記事を再読したが、これは、不適切な用例であると判断したのである。

 続く

2017年8月11日 (金)

今日の躓き石 毎日新聞高校野球報道の痴態 

                           2017/08/11
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊第13版スポーツ面の高校野球報道である。
 いや、毎日新聞の会社方針だと言われたら、それ以上言えないのだが、選手が真剣にプレーしている写真を押しのけて、とんでもない無様な写真がでかでかとトップに掲載されているのを見て、天を仰ぐのである。

 近年、試合中の選手の勝手な感情表現について指導されていないという感じは受けているのだが、ここまで無防備に感情をぶちまけているさまを見せられては、何か言わざるを得ないのである。みんなが真剣に試合している最中に塁上で勝手な見得を切るのは、相手チームの選手はもとより、自チームの他の選手にも失礼と思うのだが、当人は、野球はこんなものだと思っているのだろうか。高野連も、なめられたものである。

 当人の粗相だけでなく、この写真を見て、野球とはこんなものだと思う人たち、特に、子供達が見習ったら、毎日新聞の影響力は恐るべきだと思うのである。

 当人だって、大人になって、高校時代にこんな無作法をしていたことが、毎日新聞の記事として後世まで残ることになったと知ったら、大抵、撤回して欲しいと思うのである。どうして、勝ち越し打を放った瞬間を載せてくれなかったのかと恨むことだろう。

 このような写真をもって高校野球の報道とすることは、毎日新聞の全国紙としての報道姿勢と沿わないのではないかと思うのだが、どうなのだろうか。

 ここまで書いたのは、別に、権威ある意見ではなく、一老読者の勝手な感想である。

以上

 

2017年8月 6日 (日)

今日の躓き石 毎日新聞の迷文 「個人史」

                        2017/08/06
 今回の題材は、毎日新聞大阪13版スポーツ面である。「あす開幕」と題して、出場各高校有望選手の紹介に励んでいるが、最後、締めくくりに段落に、訳のわからない言葉が飛び出して、大きく躓いてしまった。

 言うま゛てもないが、全国紙には、紙面掲載の前に、大変厳しい校閲があるのだが、スポーツ面は放任主義なのだろうか、しばしば、意味の通らないカタカナ語とか、「人生」とか、やたら場違いな言葉の乱舞が見られる。

 今回引っかかったのは「個人史」という言葉である。短い記事段落で、新語に不可欠な予告も後押しもないので、何のことか理解不能であるが、最近時に目に付く「野球人生」新種ではないかという気がしてきた。

 担当記者には気持ちの良い言葉遣いかも知れないが、読者に意味の通じない新語は、ご勘弁頂きたいものである。

 高校生に「個人史」などあるはずもなく、当人が勝手に書き綴っていたとしても、誰も見向きもしないであろう、まことにつまらないものである。10字9行の短い記事段落なのに、わざわざ「衰え」が云々されていると言うことは、もう「野球人生」の幕引きにかかっているのだろうか。そうした記述は、当人にとっては大問題だろうが、この記事は、一般読者に有望選手を紹介するものであり、その主旨に添わないものである。
 この部分は、毎日新聞ほどの大新聞が、こんな場所で取り上げるべきものではない。紙面汚しは、もったいない。

 と言うことで、今回も、担当記者の不見識、暴走が露呈していて、気持ちよく読み進められなかったのである。この場所には、大会展望記事を、キリリと締める段落が求められているのではないだろうか。

 言うまでもないが、以上は、あくまでも、一定期購読者の個人的意見である。何の権威もないし、 このような個人的見解に対して賛成しない方も無数にいるだろうが、この私見は個人の意見として公開しているのである。

以上

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