倭人伝の散歩道 卑弥呼の「墓」を巡る思索 2
2017/08/26
卑弥呼の墓に間に合わなくても、いずれは墳墓時代が来るので、どのようにして、大事業が始まったか、あらましの流れを考えてみる。記事が重複している部分は、ご了解頂きたい。
大規模墳墓の造営は、当時の(倭國にとって)超絶技術であり、測量技術、建設技術などの大幅な革新を行うためには、中国からの技術導入が不可欠であったと推定される。いや、この事業は、紙漉き、鍛冶屋などの職人まで揃わないとなり立たない。
技術導入と言っても基礎となる算数や幾何を学ぶには、文字学習が不可欠である。教科書類は、すべて漢文であるから漢文読解が必須であるし、指導者との会話も必須である。基礎知識習得すら一日のことではない。また、学習には、潤沢な紙墨の供与が必須ではないかと思われるのである。
続いて、各種測量器具や製材・大工道具などの「ツール」の製作が必要であり、当然ながら、知識を習得した人間が、さらに実習で「ツール」を使いこなす技術を習得する必要がある。集中的な教育・訓練のために、「学校」を設立して、各地から招集した多数の学生を教育・訓練したとも見られるが、ここだけにとどまらず、当記事は、推測が大半である。
ちなみに、現代の考証で造成工事の作業量の膨大さが推定されているが、膨大な時間のかかる事業に農民を動員すれば、日々の農作業は、留守家族の負担となる。各国為政者としては、大規模な福祉政策が必要となる。最初は、それまでなかった負担を一気に押しつけられて、吸収に努めたであろうが、結局、負担は下層まで及ぶのであろう。そして、この暴政は、悪化しつつ延々と続くのである。
技術導入に戻ると、土木・建築技術の導入には、指導者の大挙到来が必要である。公孫氏が魏朝との接触を遮っていたので、技術者群の到来は、公孫氏が滅び、帯方郡が皇帝直轄となった景初遣使以降であろう。一説では、倭國使同伴の「生口」は、留学生だという。と言うことで、先に概説したような技術導入は、早く見ても、三世紀半ば以降の開始であろう。
司馬懿が、公孫氏討伐の際に遼東郡関係者を皆殺しにする政策を採ったので、その手を逃れた者達が、帯方郡を越えて倭國に亡命した可能性はある。帯方郡は、幽州刺史に接収されたが、帯方郡での公孫氏関係者の殺戮は聞かないので、亡命者は見逃してもらえた可能性が高いのである。いや、これは、単なる個人的な白日夢である。
後年、大規模墳墓が続々と各地で造成されたが、それには、複数の技術者チームが必要である。先に説いたように、技術者養成は一日で成らず、文字/語学教育に始まり数十年に及ぶ人材育成が必要と思われる。かくして、造営工事の際に、自力で現場人員を指導監督のできる技術者チームを育成し、各チームは、墳墓造成の実務を歴て、下見地に技術移管した後、おそらく十年程度で移動したと見る。造成は、ぼちぼちとしか進まないのであるが、広範囲に波及したのは四世紀後半と推測する。この意見に不満であれば、どのような仕掛けで、地図画面に次々点灯するように、瞬くほどの短期間に技術移管したか、お知恵を拝借したいものである。
技術者集団が、十年単位の墳墓築造巡業が一巡した後の任務は、古代街道敷設と思う。各地の地図、戸籍を把握していたから、各地で道路工事が進んだのであろう。
これに一世紀を費やした頃には、各国に国分寺、国分尼寺建設があり、古代国家の骨格、筋肉、血管、神経網を、始めて構築するための基礎となる大規模工事は続いたのである。
仏教伝道には、多数の識字写本工が紙筆硯を駆使した写本工房で大量の写経が必要であり、一方、これによって、全国要所に識字者を配置し、戸籍簿を整えることもできたのである。
以上