今日の躓き石 車内騒音論に対する私見
2017/08/13
今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊第13版の投書欄に掲げられた読者意見であるが、別に、投書者の意見がどうこう言うものではない。全国紙の紙上に、一つの個人意見として公開され、問いかけへの回答を求められているから、当方も、個人の意見を述べているだけである。
「公共の場 どこまでが騒音か」と題されているが、騒音という形のないものに、「どこまで」(どこから?)とは無理な問いかけになっているので、多分「どんなものが騒音か」と言う問いかけだとして、個人の意見をお答えする。
投書で引き合いに出された方が(耐えがたく)「うるさい」と感じたのは、その人の感性の表現であって、「騒音」の音量を計測したものではないのは明らかである。
と言うことで、なぜ、うるさいと感じたかと言うことになる。推定だが、三人組がも際限なく、笑い合っていたから、不愉快と感じたのだろう。一時的な、つまり、数分程度のうるささで済んでいれば、あえて叱り付けないものである。10分、15分程度も相当なものだが、個人的には、60分超という笑い声の嵐に耐えた経験がある。可能性は、無限なのである。
また、その笑い方に、公共の場では控えめな声量で、雑談は手短に、と言う分別がないから、苛立って、不愉快になったと思うのである。笑い方でも、自然な笑い声と、ことさら張り上げた笑い方、ときに「バカ笑い」と言われる騒々しい笑い方があるが、時に、大声合戦しているのではないかと思う笑い方を聞くことがある。
ひどいときは、、肩を並べた二人が対話しているはずなのに、そろって当方の頭の上で、耳のあたりに向かって話していたこともある。話し手の口が当方を向いているときとそっぽを向いているときは、聞こえ方がまるで違うのである。当方を向いて喋っていると感じると、何か話しかけられている、聞かなくてはと注意させられてしまうのである。
以上のように、ことは音量の問題ではないから、何デシベルまでと言う規準を示すことは出来ない。声を出しているものの無神経さ、不躾さが、腹立ちを掻き立てるのである。
投書者は、内省的な方のようで、ことは聞く方の感性の問題だと悟られているようだが、一般論として、公共の場は、様々な感性の人たちが集まっているので、感じ方は多様なのである。この時、いらだちを感じて叱り付けた人は、車内の大勢が、「笑い声の暴力」に耐えて、我慢を強いられているのを見て、あえて悪者になって見せたのであり、こんな時、犠牲者達が揃って我慢しては、暴力に屈したことになり、不甲斐ないと思うのである。誰かが、決然と立ち上がらなければならないと思うのである。
いや、その場にいたわけではないので、個人的な経験(複数)に基づく意見を言い立てて恥ずかしいのだが、どんな社会環境でも、個人の感性を素直に表明するのが、正しい態度であると思う。他人の意見は聞いてみないとわからないことが多いのである。
そして、最後に大変大事なことを言う。
もし、この時、誰もうるさいと言わなければ、この三人組は、世の中なんて、甘いもんだ、何人おとながいようと、言いたいことを言ったら勝ちだよ、という思いで、これからも生きていくだろうし、友達にも口コミで自慢して伝えると怖れるのである。
叱られてどの程度身に染みたかわからない。関西には、叱られたとき「ほっちっち」と言う受け方があるという。あんたの子でなし、まごでなし、(関係ないから)ほっといて、と言う趣旨らしい。
あるいは、叱られたと思わずに、世の中には、友達と楽しく話しているのに、関係ないところから文句を言う訳のわからない「怖い人」かいるということになるかも知れない。
世の中には、言われなくてもわかる人、さらっと言われてわかる人、きつく言われてわかる人、いろいろである。そして、言われてもわからない人、言われたらかえってわからなくなる人、さらにいろいろである。
「そして」以降の人も、多少、「叱られて」自制心が働くようになれば、それまでの野放しよりましだと言うことである。
それとも、投書者がAIの知性を利用して、声調や話題まで取り入れて人の感じる「うるさい」を数値化するセンサーを開発して、公共の場に設置すれば、「公共の場 どこまでが騒音か」の問い掛けに答えることになるだろうが、そんな解決で良いのだろうか。
本来、簡単なことなである。
公共の場、特に、電車車内のように、身動きのしにくい場所では、一段と、雑談の声を潜めるものであり、まして、笑い声は、出すべきでないのである。どこまでが騒音か、などと気取って(開き直って)反論するのは、見当違い、了見違いなのである。
「騒音」は、聞くものに何も意義ある情報をもたらさない「雑音」という害毒である。「ゼロ騒音」、つまり騒音を「発信」しなければ良いのである。
投書者の問い掛けに対して、いろいろ受け止め方があると思うので、社会人としての誠意を持って一例を示させて頂いたのであり、投書者の意見がどうこう言うものではないことを、重ねて書き留める。
以上
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