「今どきの歴史」 第二回を巡って 5/7
私の見立て★★★☆☆ 堅実な紹介 2017/10/23
*馬飼の技術移管 続き
言うまでもないが、当時南北に往来していたのは、甲板と船室がある帆船としてもまだまだ小振りであり、多数の馬を無事に運ぶのは、大変困難であったろうと思うのである。何しろ、馬は、誕生直後の一時を除けば、寝るときも含めて一生立ったままであり、天井の高い船室でなければならないのである。
そのように、海峡越えの船でどのようにして敏感な馬たちをおとなしくさせたかは、当方の知るところではないが、相当に困難であったはずである。
とは言え、それまで、動物としての馬は、何かの折に到来していたかも知れないが、飼い馬の技術はなかったのであろう。
三世紀の風俗を伝える、唯一信ずるに足る文献である魏志「倭人伝」も、飼い馬、飼い牛を使役する姿は見かけなかったとしている。
以上の背景から、ことの成り行きを察するに、三,四世紀の何れかの時期、多分船舶が大型化した時期に、専門家集団が少なからぬ数の馬とともに九州北部に渡来したものと思う。
*技術の緩やかな流れ
幸い、到着した土地に馬の飼育に適した土地があって、一旦そこに定着し、子馬が育って所帯が大きくなったところで、東方に見つけていた馬の飼育に適した広大な土地に分家を造り、人と馬が移住したのだろう。
そこから、時を経て次の土地に、そして次の土地にと、数回の分家を歴て、当地まで広がったことのように思えるのである。馬が二、三世代育つのを分家の目安とすると、20年から30年ごとの展開、つまり、人で言うと一世代ごとの展開のように思える。
九州北部から、この地に至るまで、何度分家を繰り返したかは知るすべもないが、30年程度の四,五倍程度として、ひょっとして二世紀の月日が経ったのではないか。
大きな仕掛けの伴う技術は、ゆっくり、ゆったりとしか伝わらないのである。
未完
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